反戦の戦士

という見出しでバルサの選手たちが並んでいる写真が朝日新聞に載っていました。今の世の中、日本では“平和を”とスローガンを並べるだけでその人たちを反戦の戦士と呼ぶのでしょうか。それはチョイと本当の反戦の戦士たちに失礼ではないかと思ったりして。

そんなことは別として、残念ながらあの記事にはクラブがなぜああいう行動にでたのかまでは突っ込まれていなかった。さもや自然発生的に、あるいはカタルーニャという特殊な地域のクラブであるから、そういう漠然とした感じ。ロンドン支局のジャーナリストが書いたようなので、突っ込もうと思えばもう少し突っ込めたと思うんだけれどなあ、残念。

もし多くのソシオからの要求がければ、そしてカタルーニャメディアがあれだけ騒がなければ、そう、多分、クラブとしては何にもしなかっただろうと思う。クラブもできれば政治がらみの問題に口を突っ込もうとは思わないだろうし、クラブが何もしなければ選手たちも何もするわけがない。選手たちにはそれほどの自由があるわけがないのだから。

“平和を”、それは7歳の子供でも普通に言える言葉であり、戦争大好きっ子ブッシュだって言える言葉だ。平和を取り戻すために正義の戦いを、とかなんとか昨日のニュースを見ていたらヤツがほざいていやがった。

でもその単純な言葉を一つのスポーツクラブがファンへのメッセージとして送るとなると、やはり大ニュースとなるのだろう。実際、スペインの他のクラブでそのような声明をだしたところはないし、今後もどこか他のクラブがやるという話しもでてきていない。だからこそ余計、あのニュースは正しく伝えて欲しかった。決してクラブが率先してやったことではなく、ソシオやメディアがクラブを動かしたという経過を伝えて欲しかったな。

バルサソシオをバルセロナ市民と同義語にしては誤りがある。なぜならソシオはバルセロナ市民だけではないし、バルセロナ市民がすべてバルセロニスタと決まったわけではない。カタルーニャの“シンボル”となったり、バルセロナ市民の“誇り”となるクラブであっても、決してカタルーニャのものでもバルセロナ市民のクラブでもない。だからよく聞く“バルサは市民のクラブ”というのには語弊があるし、実際正しくもない。バルサはソシオのクラブであり、世界中に広がるバルセロニスタのクラブというのが正しいと思う。

それでも市民意識と決して無関係ではいられないことも確かなことだ。それはバルサの歴史が如実に証明している。市民意識とソシオとメディア。この三つはバルサというクラブと決して無縁とはならない。だから今回の“事件”をデカイ新聞のジャーナリストが正しく伝えてくれれば、そう、バルサらしさがはっきりとする“事件”となったのに。チョイと残念。
2003/03/28)


ユーベ戦は熱い

ユーベ戦を最初に見たのは、というか1回しか見たことがないのだけれど、今からちょうど12年前にバルサとユーベがレコパ準決勝を戦った試合が最初にして今のところ最後。手元にあるビデオのラベルを見ると試合日は1991年4月10日となっている。このホームの試合で3−1と勝利し、2週間後におこなわれたアウエーでの試合では1−0と負けたものの、バルサはユーベを退けて決勝戦に進出している。

テレビで見たアウエーの試合のことはぜんぜん覚えていないけれど、カンプノウで見た試合のことはよ〜く覚えている。もう一昔以上前のことなのによ〜く覚えている。しっかりと覚えているのは、心臓と肌に染みついちゃった試合の一つだから。

親善試合は別として公式試合では多分カンプノウで初めて見るカルッチオのビッグチームだったことでかなり前から楽しみにしていた。一度ユベントスというチームにいるバッジオという選手を見てみたかったこともある。そして実際に見た感想としては、世の中にこれほどいやらしくもカウンターアタックのみを狙い、しかもとてつもなくスピードがあるカウンターアタックができるチームがあるのかいな、というのが偽りのない感想。後にも先にもカンプノウではこの日のユーベほど素速いカウンターアタックをするチームを見たことがない。とにかく速かった。

正面スタンドやバックスタンドでの観戦では不可能で、ゴール裏席での観戦でのみ可能となることがある。それは遠くからこちらに向かってドヒャドヒャと攻めてくる時のワクワク感というかドキドキ感が生まれることだ。味方がこちらに攻撃してくればワクワク感になるし、相手が攻めてくるとドキドキ感となる。

この試合でのユーベのカウンターアタックは本当に早かった。向こう側からアッという間にこちらに来ちゃうボールとスキラッチ、あるいはバッジオ。中盤でのゴチャゴチャさがない試合展開とはこういうのを言うのだろう。だから彼らが遙か彼方でボールを持つともうドキドキが始まる。アッという間にこちらに来ちゃうんだから。しかもバルサのカウンターも速い。したがって心臓はワクワクドキドキしっぱなし。

ブラジル代表選手でありユーベでディフェンスをしていた大男のフリオ・セサー。彼が思いっ切り蹴ったボールが目の前に飛んできて、手に持っていた熱々のコーヒーを思わず自分の胸にかけてしまった。おかげで火傷をしてそのヒリヒリする肌の傷みが試合の思い出の一つとなったというのは、冗談みたいな話しだけれど冗談ではな〜いのだ。

タコーニ、ナポリ、ルッピー、フォルトゥナート、フリオ・セサー、アゴスティーニ、ハスレール、マロッキ、カシラギ、バッジオ、スキラッチという11人の選手。当時のユーベに比べれば今のユーベなんぞチョロイだろう。もっとも、当時のバルサと比べると今のバルサもチョロイのが問題だけれど。
2003/03/26)


平和を!

先週の金曜日におこなわれたバルセロナ市内でのデモ行進参加人数は、警察発表によれば50万人、主催者発表では100万人。そのデモ行進で多くの人々が持っていたプラカードは“戦争反対”“戦争を止めろ”“アスナール首相辞任要求”という内容だった。

“戦争反対”でもなく“戦争を止めろ”でもなく“平和を!”。これがクラブが用意したスローガンだった。“戦争反対”が横断信号は青の時にわたりましょうという感じのものだとすれば、“平和を”というスローガンは道路は横断歩道を利用してわたりましょうという感じか。インパクト的にはデモ行進のそれに比べるとだいぶやわらかい表現となって登場したスローガンだ。

マドリ理事会はフロレンティーノ一派によって埋め尽くされているわけだから、当然ながらスペイン与党である民衆党支持者が大勢を占めることになる。バルサといえば政治志向を排除するのがこれまでのクラブの姿勢となっているから、あらゆるアイデアを持った人々によって構成されている。だから当然ながらアスナール支持者もかなりの数が占めているはずだ。したがってすべての理事会員を納得させるスローガンは“戦争反対”や“戦争を止めろ”とはならない。誰もが納得する“平和を”というところで終わってしまう。それで終わってしまうが、それをすることもフットボールクラブとしては大変なことだと思う。

クラブにその大変なことをさせたのはソシオの力だ。前回このコーナーで登場したチャビ・ボッシュの訴えがなければ実現しなかったことだろう。彼がたんなる一人のソシオではなくラジオ番組を持つジャーナリストだったから実現したのかも知れない。彼の“クラブも何らかの意思表示を”という番組内の訴えに共鳴したソシオが、クラブへ送ったメール数が何百とも何千ともいわれている。もしこのソシオの動きがなければクラブも動かなかったに違いない。

話はガラリと変わって、ボカ時代のことは噂でしか知らなかったもののバルサに来てからしょっちゅう笑っているシーンを見せている平和そのもののリケルメ。プレステージの試合でもそうだったし、練習中でも絶えず笑顔を見せているリケルメだ。チョイと噂で聞いた気むずかしい選手というイメージからはほど遠い感じを受けていた。

彼はガバという、バルセロナ市から車で約10分ぐらい離れた街に住んでいる。デ・ボエル、コクー、ルイス・エンリケと隣人だ。この3人は私設ガードマンを雇って彼らの自宅を監視させているという。でもリケルメだけはその仲間に入っていない。その理由を聞かれた彼が答えていた。
「こんな平和な街に住んだことない」
そう、彼はアルゼンチンからやって来た選手。弟を誘拐された経験さえある人だ。記者会見で決まり文句のように語る「バルセロナに来れて良かった」というのは本心なんだろう。
2003/03/24)


戦争反対ロゴ

昨日の「今日の一面」で登場してきた“カフェ・バビエラ”というのは、夜の11時半から01時まで毎晩休みなく放送されているお気に入りのラジオ番組。1時間半番組だけれども、最後の10分間を除いた1時間20分はすべてバルサに関するお話。やれ今日の練習はどんな感じだったとか、噂に上っている移籍話しに関してどうのこうのと80分間延々と続く。それも毎日のこと。ディレクターでありコメンタリスタでもあるチャビ・ボッシュという人はムンド・デポルティーボ紙にも週1回か2回コメントを載せている人で、2万8千876番のソシオ番号を持っている。

その彼が提案したのがバルサのユニに“戦争反対”のロゴを付けること。当人も語っているように、いろいろと規則が多いフットボール協会やUEFAを相手にしなければならないから難しいことかも知れない。難しいことだけれど実現したらバルサがよりバルサらしく感じられていいんだけれど。

実は2回前のこのコーナーでの「今日の社会面」というのはまだ続きがあって、その部分は面倒くさくなったのでハショッてしまいました。続きの内容というのは、アゾレス諸島でおこなわれた三者頂上会談では宣戦布告問題だけではなく、戦争後のことも話し合われたということ。それは爆撃で崩壊されるであろうバグダッドの街の再建に関することだそうです。崩壊された飛行場やビルの再建をどの建設業者に任せるか、それが議案だったとのこと。ブッシュの主導権のもとにおこなわれる話し合いだから、当然ながら彼に協力体制をしいている国の建設業者が優先となる。ということはイギリスとスペインもその中に入る。

スペインから選ばれた建設会社で第一候補にあがったのがACSという会社。チキートHPを長いことのぞいている人には思い当たる名前かも知れない。この会社はフロレンティーノが会長をしている会社だ。したがって思いっきり単純にまとめてしまうと、マドリディスタを自他共に認めるスペイン首相がイラク侵略戦争に積極的に協力し、政府与党である民衆党の一党員であり同時に首相の友人でもあるマドリ会長が戦争後に一儲けを企てるという、そこら辺には転がっていないほどよくできた話し。

たまたまそうなるかも知れない、という話しであり、偶然の産物かも知れない話しとはいえ、ナカナカ構図的には良くできた話しだ。首都という場所で生まれたクラブだからか歴史的に常に権力者と一体化してきたクラブがマドリ、そしてそれに常に抵抗してきたのがバルサ、というのは単純過ぎる構図かも知れないがあながち間違いともいえない。もしバルサが戦争反対のロゴを付けたとしたら、見事に絵になってこの構図にはまってしまうんだけれど、いかがなもんでしょう。
2003/03/22)


バルサの殿堂、パラウ・ブラウグラーナ

カンプノウはヨーロッパ最大の収容人員を誇るスタディアムであり、他のどのヨーロッパクラブが所有するスタディアムよりもシーズンを通して最大数の観客数を記録している。そのどでかいカンプノウの隣にひっそりとたつ室内競技場がある。パラウ・ブラウグラーナと呼ばれる1970年代に開設された室内競技場だ。収容人員は約8千人、シーズンを通してここでバルサの他のプロ部門、つまりバスケット、ハンドボール、ローラーホッケーの試合がおこなわれる。

パラウ・ブラウグラーナは別名“バルサの殿堂”とも呼ばれている。70年代にできたものだからそれほど歴史があるわけでもなく、かといって最新テクニックを駆使して作られた近代建築と呼べるほどのものでもない。収容人員が8千人だから特別大きい入れ物でもない。それでもパラウ・ブラウグラーナを知る人は“バルサの殿堂”と呼ぶ。

それはこのパラウ・ブラウグラーナではバルサは負けないからだ。歴史的に負けない場所なのだ。今シーズンのこの会場での試合結果を見てみるとビックリする。一昨日までの記録によれば、バスケット、ハンドボール、ローラーホッケーの各国内リーグ戦、ユーロリーグ戦含めて52試合おこなわれている。そして何と51勝1分けという結果を残している。どのセクションも1敗もしていない。余程のことがない限り、勝利を約束された場所がパラウ・ブラウグラーナ。かつてのカンプノウがそうであったように、パラウ・ブラウグラーナはいまだに勝利を約束された場所としてある。だから“バルサの殿堂”。

昨日はユーロバスケットの大事な試合がおこなわれた。もしこれに負けるようなことがあれば、ヨーロッパチャンピオンを決めるファイナルフォーへの進出はほぼ絶望的となる試合。試合終了まで3分を切っている段階でバルサは9点のハンディー戦となっていた。でも試合が終了してみると3点差でバルサの勝利。それもドラマチックな勝利の仕方だった。もちろんパラウ・ブラウグラーナに集まっている8千人の騒々しい応援が40分間続いていた。この勝利によって今シーズンのパラウ・ブラウグラーナ成績は53戦52勝1分けとなる。

観客席の中にチャビやジェラールなどの顔が見える。ここ“バルサの殿堂”は同時にカンテラ選手がバルセロニスタの一人として集まってくる場所でもある。フットボールに限らず、ハンドボールやバスケット、ローラーホッケーのカンテラ選手が違うセクションの試合によく顔をだして親交を暖める場所でもあるようだ。

ユーベ戦、ぜひここでやりましょう、ちょっと狭いですけど。
2003/03/21)


「チキート・今日の社会面」
イラク問題とアスナール首相

アスナールスペイン首相への直通電話は鳴りやまない。それはアメリカからのもであったりイギリスからのもであったりする。だが先週の日曜日にアゾレス諸島でおこなわれた三者頂上会談の夜、アスナールが乗り込んだ首相専用機ボーイング707に設置されている首相直通電話の内容はこれまでのどのものより“熱い”内容だった。

日曜日の夜10時、アスナールは専用機に乗り込みスペインへと向かった。彼は専用電話で何分か会話をした後、同乗しているスペイン人ジャーナリストが待つ記者ルームへと向かう。いつものように礼儀正しく一人一人のジャーナリストと挨拶を交わしていくアスナール。

この会議に向かう機上にも同じジャーナリストが一緒に乗り込んでいた。その時の彼らは、少し神経質そうなアスナールを目撃している。だが会議が終了し、すべて事が順調に運んだのか、今の彼は非常にリラックスしていて楽しそうでもあった。わすか15分前にはブッシュとブライアーと別れを告げたアスナールだ。イラクへの武装介入が世界平和のためと考える三人の指導者たちによる“イラクに対する宣戦布告”と言ってもいいだろう会談が終わってからまだ15分しか経過していない。すべてが予想されたように運び、あとは戦争後にどのような世論が待ち受けていようとその時はその時で責任をとればいい、やることはすべてやった、そういう思いが感じられるアスナールの表情だった。

これから始まる首相との会話をどのようにスムーズに開始すればいいか。一人のジャーナリストがいつものようにありきたりな質問から始める。
「現在の心境はどのようなものですか?」
それに笑顔を絶やさずこたえるアスナール。
「すべて順調にいった感じだ。非常に満足している。バルサはアラベスと引き分けた。バレンシアはビルバオに負けた。そしてマドリは首位を走っている。」
首相が飛行機に乗り込んだ瞬間にかかってきた電話は、リーグ戦の結果がどうなったかという報告の電話だった。

ブッシュがフットボールに興味があるとは思えない。その証拠に彼は、ホワイトハウスとアスナール首相の公邸であるモンクロアにビデオコンフェレンスを設置し、週末でもこのビデオコンフェレンスを通じてアスナールとの会話をいつでも好きな時におこなおうとしている。だがブッシュが知らないことが一つだけある。それはこのビデオコンフェレンス設備の隣には普通のテレビも置かれていることだ。アスナールのチームが週末におこなう試合を中継してくれるテレビだ。

LA VANGGUARDIA 紙(2003年3月18日)
MADRID
CRISTINA SEN 記者
2003/03/19)


エンリック・レイナ・マルティネス会長

ガスパー政権を構成していた多くの理事会メンバー、彼らはもちろんいつの日か会長の席に座ることを夢見ていた人々だ。そしてその会長になるためには、やはり会長選挙で勝利することが第一条件となるのは当たり前。でも今回の会長は決して会長選挙で選ばれた人ではないし、前回の会長選挙に出ようとした人でもない。たまたま、そう、それはゴールの嗅覚を持った9番の選手が必ず“必要な瞬間に必要な場所”にいるように、彼もまた“いなければならない”ところにいたから会長になってしまった人のようだ。

彼が臨時会長となってから彼に関するコメントがいくつかメディアに登場している。臨時会長とはいえ、バルサ歴史書の中には“第○○代クラブ会長エンリック・レイナ・マルティネス”として登場するわけで、その割には紹介記事が少ない感じだ。ヌニェスやガスパーと比較すると地味なキャラクターからかも知れないが、それでもそこはそれ、やはり並みの人ではない。

貧しい家庭で育った彼は、わずか12歳の時に工場労働者として社会にでる。そして15歳の時に建設業界の会社に入社し、それから3年後には150人の部下を持つ立場となるそうな。よくある“立志伝”に出てきそうな話しではあるから細かいところはボツにするとして、とにかく彼は夜の暇な時間を利用して大学で法律を学ぶことになる。大学は卒業することなしにやめてしまうものの、彼としては初めての自分の会社を設立する。弁護士事務所、そこが彼が最初のボスとなる世界だ。そしてこの事務所で将来に建設業界に打って出ることを可能とする何人かの有力な人物と知り合うことになる。

この事務所の“客”であった何人かの人たちと建設会社を設立した彼は、バルセロナ市役所やカタルーニャ州役所関係の仕事を通じてコネを広げていく。そして何十年とたち、現在ではカタルーニャにおける大実業家の一人となるレイナだ。

彼はバルサのそれとは別として、これまでいくつかの“会長職”に座ってきている。カタルーニャ州商工会議所の会長、バルセロナ建設業界会長、バルセロナ博覧会会場会長、等、等。面白いのはこれらの“会長職”に選挙で選出されたのではなく、いつも何かのアクシデントで頂上に登ってしまうことだ。例えば、時の会長が健康を崩し長期入院することにより彼が臨時会長として、またある時は、時の会長が脱税容疑で警察につかまったりしたため彼の登場となったり、またある時は、選出された会長がもっと大きな世界に飛躍するためにその職を辞退したために彼におはちがまわってきたり、とにかくそういう運命にある人らしい。“必要な瞬間に必要な場所”にいなければ、そういう運命もやって来ない。彼は常にそういうところにいる人物のようだ。

それでも彼もまたガスパー独裁政権を支持してきた人物には変わりがない。だからくれぐれも延命工作などは考えてはダメだ。会長選挙は絶対必要、会長席という魅惑の椅子に惑わされないように。
2003/03/18)


サンティアゴ・ベルナベウ

レアル・マドリのスタディアムに付けられている名前はサンティアゴ・ベルナベウ。元マドリの選手であり、現役引退後35年間という驚異的な期間にわたってクラブ会長を務めたサンティアゴ・ベルナベウを讃えてこの名前がスタディアムにつけられたのは知られている。でも彼個人のことに関してはこれまで歴史専門家によってはほとんど研究されたことがなかった。彼もまた生前ほとんど過去を語らない人だったらしい。噂として語られてきたこと、それは正真正銘のファシストでありアンチ・カタラン主義を持った人物であるということだった。

先日買った月刊誌サピエンスという雑誌に彼のことが詳しく紹介されていた。二人の歴史家が何年もかけてサンティアゴ・ベルナベウ個人の歴史を調べその経歴を載せている。

サンティアゴ・ベルナベウ、志願してファシスト軍に参加、カタルーニャ地方への攻略戦にも率先して参加している。独立意識の強いバスク人やカタラン人を憎み、かつての“大東亜”構想ではないが“大スペイン”構想を夢見た軍人だったらしい。バルサ百年史にもでてきているけれど、当時のバルサの会長がファシスト軍に殺される事件に関わっているかどうか、そこには触れられていない。

その彼の名前が付けられたベルナベウに巣くう彼の“息子”たちがいる。もちろん思想的な意味での“息子”たちだけれど、ウルトラ・スールと呼ばれる過激応援団組織だ。まあ、どこのスタディアムにもいる右翼系の暴れ者たちで、ウルトラ・スールもご多分に漏れずナチズムの思想を持つ多くの構成員たちによって運営されている。そのボスがオチャイタという40歳前後の悪いヤツ。スペインフットボールを長いこと見ている人だったら誰でも知っている有名人だ。今のバルサのカピタンがまだ白いユニを着ているとき、最後の年にはボールに触るたびにコイツからの罵声が飛ぶことになる。これまで何回も警察沙汰になるような事件をおこし、クラブからは何回もパージされているのにいまだにベルナベウに出入りしている。

先日ベルナベウでおこなわれたミラン戦で再びコイツが登場してきたのにはビックリした。試合後に元マドリのレドンドに対してメダルのようなものを贈呈するセレモニーがおこなわれ、大観衆が見守る中でコイツの手によってそれがレドンドに渡されるのがテレビにうつっていた。オッチョコチョイのラウールまでが顔をだそうとしていたのには笑ってしまったけれど。

もちろんベルナベウという名前のスタディアムでおこったこの“事件”は問題となっている。いわゆる民主主義団体や反ナチ組織がこのような“暴挙”を許したクラブを批判している。子豚の頭がグランドに登場しただけで2試合閉鎖という“暴挙”がおこなわれるとするなら、ナチズムの合法的グランド乱入は200試合の閉鎖が当然だ。
2003/03/16)


弱気な奴らめ!

ユーロバルサがレバクーゼンに勝利しグループ1位を決めた翌日、多くのジャーナリストがバルサの選手に投げかける質問は
「準々決勝ではどこのチームがいいか?」
当然ながらそういう質問となる。そしてそれに答えるほとんどの選手が、どこがいいかというよりも
「スペインのチームと当たりたくない」
そう答えている。

準々決勝はグループ1位と他のグループ2位との勝負。1位のチームの優位さは、アウエーが最初の試合であり最終的に勝負を決める第2戦は地元というところにある。準決勝は抽選となるから最初がアウエーだか地元だかは運次第。決勝戦はイギリスだからこれまた優位もクソもない。だから準々決勝は唯一といって良いほどグループ1位のチームにとって優位になる試合だ。

それでもバルサの選手たちはマドリやバレンシアは嫌だと言いやがる。確かに試合を見る方にとっても、普段から見慣れているスペインのチームよりも外国のチームの方が新鮮味があっていいことはいい。それでも、そう、それでも、それ以上に、あのマドリに礼を返す絶好のチャンスじゃないかい。バレンシアに礼を返してもいい。でもどちらかというと、やはり去年のオトシマエをつける方がいいに決まっている。だから断然マドリを選ぶべきなんだ。しかも今回の第2戦は、去年と同じようにまたサン・ジョルディの日にカンプノウでやるんだ。

したがって個人的な希望としては、何としてでもマドリがグループ2位に入ることが第一条件。でも問題は残っている。我がユーロバルサと違い、マドリやバレンシアというユーロ二流チームはまだ準々決勝進出さえも決定していない。へたすりゃ、グループ二次リーグでポシャンという可能性もある。そしてさらにへたすりゃ、ボルッシアなんていうチームとの、まるで去年のパナシナイコス対戦並みのビックリ準々決勝になってしまうかも知れない。まあ、それでも本当はどうでもいいんだ。ユーベでもローマでもアーセナルでもアヤックスでも本当はどこでもいいんだ。勝つのは間違いないんだから。

噂に聞いていたミラン、そう、リバルドがいるミラン。いかにどうでもいい試合であったとはいえチャンチャラおかしい。主軸を3、4人欠いただけであのザマだ。その試合に勝った翌日、つまりチャンチャラミランに勝った翌日、マドリの選手で離婚寸前のブラジル人が偉そうなことをほざいていた。
「準々決勝がバルサとだったら素晴らしい」
10年、いや、1週間早いっちゅうの。我がユーロバルサは圧倒的な差でグループ1位を決めているけれど、君らはまだ決勝リーグにでられるかどうかもわからないんだから。
2003/03/14)


ビクトル・バルデス

昨日の試合に久しぶりにビクトルが呼ばれていたのは嬉しいニュース。もう彼のことを“過去”としちゃってる人もいるかも知れないが、ビクトルは近い将来、それもかなり近い将来にバルサのゴールを守る守護神となるキーパー、と信じている。

彼が二部に落とされてから、もうすっかりニュースの対象とはなっていない。でも確実に成長しているキーパーだ。二部から一部チームに上がる以前、そして一部から二部に落とされた以降、その両方の彼のプレーをミニ・エスタディで見る機会に恵まれている。彼が才能あるキーパーであることはカンプノウでの少ない試合でもかいま見ることができる。経験をもっとも必要とするポジションでありながら、そして多くの批判がありながらも強烈なキャラクターを見せてくれた頼もしいキーパーだった。スペインアンダーレベルでは彼とレイナが代表となっているのも忘れてはいけない。

オランダ人キーパーコーチのホックはとてつもなく評判のいい人みたいだ。キーパー職に関して非常に論理的であり、しかも才能ある選手を成長させていく能力があるとの評判。でも個人的にはどうもこの人を信用していない。彼がバルサのコーチとなってからすでに6年目。一時期のヘスプを除いて他の誰一人として定キーパーとなって活躍した選手がいない。バイア、ヘスプ、アルナウ、レイナ、ドゥトゥエル、ボナノ、ビクトル、エンケ。ドゥトゥエル、ボナノ、エンケを獲得したのはホックだ。そしてこの三人以外にも、6年間で多くのキーパー獲得の話が上がっていた。ブフォンやトルドを獲得候補選手にあげることは誰でもできる。でもミッケモノを獲得するには、やはりそれなりの才能がいるだろう。だがホックにはその才能がないと見た。

アルナウを育てたのもレイナを育てたのもビクトルを育てたのもすべてバルサ少年部のコーチ陣。ホックとは関係ない。関係あるのは彼らが一部に上がってきてからのこと。そしてその結末は誰もが知っている。すべて中途半端な形で終わってしまっている。だが監督が責められることはあっても彼が責められることはない。これまで一度たりとも批判の対象となっていないホックに、個人的には大疑問だ。

でも、そんなこととは関係なく、ビクトルは成長している。しかも監督はアンティックだ。ディフェンスを前にあげるのを信条とするアンティックフットボールではキーパーの足のテクニックは重要な要素となる。At.マドリにいたモリーナのようなキーパー、それがアンティックの理想とするキーパー。そしてその必要性を満たすのはビクトルであり、決してボナノじゃあない。ボナノが正キーパーとして活躍している間にビクトルはしっかりと彼の良いところを盗んでいかなければ。ボナノのもっとも良いところ、それは正真正銘のプロ精神だ。ビクトルもそれをしっかりと盗んでさらに大きくならねば。
2003/03/12)


もう彼しかいないのです

バンガールが監督就任した時にバルセロニスタにおこった“彼を信じるかどうか”という疑問、あるいは彼が好きか嫌いかという趣味的問題。だがアンティックに関してはその両方とも存在しない。すでに彼を“信じるかどうか”ということでもなく、“好き嫌い”という好みの問題でもなくなっているからだ。両方に共通して存在していたもの、それはすべての疑問や好みを超越して応援しなければという感情。彼らの成功はバルサの成功を意味するから、だからすべてを越えたところで応援。

これまで一度たりともアンティックの監督就任話がシーズン前になかったことからも証明されているように、彼は決してバルセロニスタ好みの監督でもなければ、メディアが騒いで噂に上る監督でもなかった。したがって何かの間違いで彼がシーズン前に監督候補にのぼったとしたら、ほぼ間違いなくバンガールに対する疑問と同じものが話題になったんだろう。“彼を信じるか信じないか”、あるいは“好きか嫌いか”、そういうアンケートもおこなわれたのは間違いない。

彼がバルサベンチに座ってから多くのことが変わった。バルサ内部の問題、バルサと取り巻く雰囲気、選手たちのおこない、あらゆるものに変化が起きた。それと同時に“結果”にも変化が起きた。その“結果”がここ何試合か肯定的なものではなくなってきている。それでもアンティックに対する“疑問”は起きないし“批判”も当然ながら起きない。今のところ、そう、今のところそれは起きない。“結果”のみを要求されているアンティックバルサによほどひどい“結果”が訪れない限り彼の地位は安泰だ。

オサスナ戦でサビオラを代えたアンティック、バジャドリ戦でリケルメを代えたアンティック、ほんの2、3行の“疑問”がメディアを通しておこなわれるものの、だが大事には至らない。バンガールの後を継いだ監督名がラドミール・アンティックではなく、例えばガチガチ・カペーロだろうとオールド・ロブソンだろうと、どんな名前の監督であったとしても“疑問”は起きていなかっただろう。そういう状態なんだバルサは。それほどひどい状態にあるバルサなんだ。

あのバジャドリ相手の、どう考えても面白い試合など期待できないバジャドリ相手の試合に、7万近いバルセロニスタが集まってきている。5人も6人もの選手をゴール前においての試合が予想されたバジャドリ相手の試合にこれだけの人々が試合にかけつけている。もう細かいことや七面倒くさいことは考えず、ひたすらアンティックバルサを応援しようとするバルセロニスタ。必死であります。
2003/03/10)


もちろんお変わりないです

最近やたらとクライフがテレビ対談だとかラジオ対談に顔を出している。今週だけで3回も見たり聞いたりしてしまった。もちろん彼はお変わりごさいません。いつものヨハンです。

今は具体的に何をしているのかと聞かれて答えるヨハン。
「ムルシアで作られるゴルフ場の設計をしている。」
彼がゴルフに凝っていることは知られているけれど、ゴルフ場の設計まで手がけるほどゴルフに関して詳しくなっているとは知らなんだ。もちろんそういう質問が飛ぶ。
「私の父は生前、アヤックスのグランドの芝の整備を手がけていた。そして私はこれまで生涯を通じて芝の上で時間を過ごしてきた。」
これが彼の答え。芝に詳しいからゴルフ場設計なんか朝飯前という。それがヨハン。

いずれの対談番組でもバルサ会長選挙の話しが中心となる。何といってもバルセロニスタの半分が“クライフィスタ”であり、残りの半分が“ヌニスタ”、つまりクライフ派とヌニェス派によって見事に半分に別れているのが現在のバルセロニスタ。したがって彼の発言はどのようなソシオよりも重たい言葉となるのはしょうがない。だからヨハンはヨハン。

だが“責任”を取らないのがヨハンでもある。口はだすが、会長にも理事会員にもディレクターにも、そしてもちろん監督としてもバルサには戻らないと語るヨハン。今のところ、どの会長候補にも後押しする気はないとも言う。だがチキだけは別だ。チキ・ベルギンスタイン、彼がディレクターとなれば助言も協力も惜しまないと語る。助言や協力ははするが、最終的決断をするのかチキであるとも語る。つまるところ、チキが成功すればヨハンのおかげ、チキが失敗すればチキの責任という、いつものパターンだ。これがヨハン。

でも金の話になるとどうも冴えが見られません。ペセテロがマドリに行ったのはヌニェスのせいであり、決して金とは何の関係もない話しだとも言う。当のペセテロがマルカ紙に経済的問題ももちろん関係あった、そう語っているにも関わらずだ。しかもフットボール選手は金では動かない、こうまで言っちゃってくれちゃうと、もう降参です。それはヨハンではないから。

こういうシッチャカメッチャカな人物だということはわかっていても、そこはそれ、やはりヨハンは天才ヨハンであり、バルサの歴史の中には一番目か2番目に“クラブに対する多大な貢献人物”として記録される方。本当は話の内容なんかどうでも良くて、まあ、ばか話が聞ければそれで楽しい。
2003/03/07)


ガンバレや、リケルメ

“最初良ければ終わり良し”と言うけれど、リケルメの場合は最初が悪すぎた。監督が望んで獲得した選手ではなく、バルセロニスタやそれを受けてのメディア攻勢がガスパーを動かしたというのはすでに知られていること。しかも監督も例の監督だからして、
“彼は私が望んで獲得した選手じゃないのだ”
てなことまで公にほざいてしまう。これでプレッシャーを受けるなというのも、落ち込むなというのも無理な話だ。まるで、親に望まれないで生まれてきた子供みたいなもんだ。

サビオラも似たようなパターンでバルサに入ってきたけれど、当時の監督はバルサ職員も兼ねているような人だったからして事情がチョイと違う。アウエーでは使われることが少なかったけれど、カンプノウではそうはいかなかった。もちろんその期待に応えたサビオラを評価しなくちゃいけない。ところがリケルメは今のところナカナカ応えてはくれない。新しい監督になっても、ひたすら結果だけを期待されてきた監督だから“水に合わせる”余裕などありゃしない。チョイとだけ出場チャンスをもらっても代打向きの選手でもなさそうだ。

オサスナ戦で最初からでたリケルメはひどかった。水がいっぱい侵入しちゃってる長靴を履いてるかのような感じでピチャピチャとプレーしていた。0分から80分ぐらいまでリケルメは淡々と、一人だけ別世界に入っているようにマイペースでやっていた。ロスタイムを含めた最後の10分程度だけリケルメがリケルメとしてプレーしたような印象。

サビオラにしても彼にしても、力強い味方はバルセロニスタだ。これまでのところ“凄すぎる!”という感じのプレーを見せてくれないリケルメだけれども、カンプノウでは大の人気者。いつか“水が合えば”活躍するクラックだという信頼感を、そう、いまのところその信頼感は絶大。だが、その信頼感も永遠ではない。多くのプレッシャーを感じているであろう状況で、しかもプレー時間が少ないところから常に最高のラストパスをだそうとしちゃあいけない。それではデ・ラ・ペーニャの二の舞になること請け合いだ。彼には多くの時間を与えるべきだと思う。4年だか5年契約できている選手。だから時間を与えるべきだ。南米からきてもいきなり活躍する選手もいれば、多くの時間をかけて徐々にとけ込んで活躍してくる選手もいる。リケルメはどう考えても後者の方だろう。

ベンフィカにいったジェオバンニが向こうのメディアに登場していた。そしてビックリ発言をしている。
「バルサファンやメディアにビビッてしまった。その点、ここは落ち着いてプレーできる。」
リケルメがそんなビビッたヤツだとは思えない。でももっと自己主張しないと。ボールがきたらワンタッチパスなどクソ食らえだ。誰にも渡さず一人で行くベシ。玉離れの良いリケルメやワンタッチでボールを離すリケルメなんか魅力半減だ。
2003/03/04)


再び、ヌニェスの遺産

サン・ジョアン・デスピという、バルセロナの外れから車で15分ぐらいのところにある近郊の街があります。10年以上前にカタルーニャの地方局であるTV3がバルセロナ市内からここに引っ越してきて注目された街です。そしてこの街の将来の発展を予想したのか、これもまた偶然のなすワザか、ヌニェスは1980年代の終わりにクラブの資金でここの有り余っている土地を買い占めてしまいます。この土地の使用は将来の“バルサスポーツ都市”を作るためです。このバルサスポーツ都市の実現はヌニェスが会長を務める前からのバルサ関係者の夢の一つ。そしてヌニェスが買い占めた土地は総面積30万ha(いったいどのくらいの広さかいな?)、それを940万ユーロで買い取りました。

それから10年チョットたった現在、バルサはクラブ念願の“スポーツ都市”をその土地に建設中。第一期工事は今年中にでも終わり、それから第二期工事がおこなわれ最終的に完成をみることになるのは2004年とも2005年ともいわれています。

経済的に苦しいクラブがどうやってここに10面近くもあるグランドやマシアに代わる若手の宿泊施設を作るのか、それは必要ない部分の土地を売ってそれを建設費に充てるというアイデアです。30万haの土地のうち4万haがすでに売りに出されています。“バルサスポーツ都市”に使用される面積は14万?F程度のもの。したがってもともと16万haは何にも使わられず残っていることになります。

わずか4万haの土地がいくらの価格で売られたのか、それは何と4600万ユーロ。10年以上前に買ったときは30万haで940万ユーロの土地が、いまじゃあ4万haで4600万ユーロ。さすが土建屋親分の考えることはホテル王二代目とはチョイと違います。昨シーズン中にすでに2万haが売られ第一期工事用資金に、第二期工事資金用にはつい先日同じように2万haが売られました。

しかしこの金額は建設資金としては非常に高すぎるのではないか、そういう疑問を持つ“反ガスパー”の人が現れたとしても不思議な額ではないです。工事中と言え、まだ具体的な建設費が発表されていないのもおかしな話です。昨シーズンが黒字経営で終わったのも、今シーズンもやはり黒字となりそうなのも、どうやらこの辺の金がグチャグチャと回り込んできているのではないか、普通の人はそう考えます。

まあいずれにしても土建屋の大将が土建屋的発想でクラブに財を築き、それをホテル王二代目が美味しいところだけいただいているという感じがしないでもないですが、それでも“バルサスポーツ都市”は着々と進行中です。
2003/03/02)


ヌニェスの遺産

22年間も会長をやっていればいろいろと悪い噂がでてきてもおかしくない。国の首相もクラブ会長も同じで、長ければいいというものではない。悪い噂はいろいろあるものの、それでもバルサ史上クラブにもっとも貢献した会長の一人だという評価は変わらない。そしてヌニェスの22年間の会長としての功績は、クライフが監督に就任していた“バルサ黄金時代”を築いたということだけではなく、もっとも評価されている点はやはり経済的な部門の功績だろう。

クラブの会長に就任してからしばらくはチームの成績こそパッとしなかったけれど、それでも借金を抱えていたクラブの建て直しにはすぐに成功した人物。そして借金返済以来、いつまでも大赤字経営が続く宿敵マドリを横目に財政的にはヨーロッパでも1位2位を争うクラブへと成長させていった。そして彼の財政的遺産は今でも残っている。その代表的なものが二つ。一つはテレビ契約、もう一つは土地の所有。

彼が会長を辞任するチョイと前に結ばれた、2003−04シーズンからのテレビ契約。これはずいぶん先を見ての契約だった。当時はまだフットボールバブルがパンパンと上昇していた頃だから、価値がさらに上がる将来にテレビ契約を結ぶべきだと批判された“問題のテレビ契約”だった。

ヌニェスがすでに予想していたのかはたまた単なる偶然か、フットボールバブルはいつの間にか弾けていく。だがこのヌニェスの獲得したテレビ局との契約内容はいっさいの変更は認められないように固く固く作られていた。だから今のフットボール界では非常識に高額な契約となっていてもテレビ局は値下げを要求できない。その額、なんと年間7200万ユーロ、5年間契約。つまりバルサには来シーズンから毎年7200万ユーロの放映権が入ってくる。

しかもこの契約の恐ろしいところは、契約条項の中にはチャンピオンズに参加できない場合でも、UEFAカップに参加できない場合でも、そして二部に落ちようがなにしようがこの金額が補償されているところだ。そしてもしこの金額より15%多いオファーが他のテレビ局から来た場合、バルサは一方的にこれまでの契約をうち切り新たなスポンサーを獲得できることになっている。恐ろしやヌニェス。恐ろしや土建屋大将。

長くなったので土地の所有問題は次回で。
2003/03/01)