2007年
12月
2008年

この勢いで、クラシコへ!
(07/12/16)

VALENCIA 0 - 3 FC BARCELONA

0-1(12分) ETO'O
0-2(27分) ETO'O
0-3(60分) GUDDY

[出場選手]
VALDES, PUYOL, MARQUEZ, MILITO, ABIDAL, TOURE YAYA(DECO 64M), XAVI, GUDDY, INIESTA, MESSI(GIOVANI 44M), ETO'O(BOJAN 67M)

ライカーの勇気ある、しかも勝利するためには正しい判断のスタメン11人選手。先日のチャンピオンズの試合で最も活躍したグディを再び起用し、10番にはロナルディーニョではなくイニエスタを配置し、メッシー、エトーという現在の段階で最も効率的なデランテロ・トリデンテを形成。負傷から戻ってきたばかりのデコやサンブロッタをスタメンで起用できなかったという事情を考慮すれば、状況が生んだ産物とはいえ、最高のスタメンといって良い。そしてこのスタメンを知った試合開始1時間前、すでに勝利の予感。それでも試合は90分間戦ってみないとわからない。

“傷ついたコウモリ”たちの、試合開始早々の怒濤のような攻撃が予想されていたメスタージャでの試合。フラン・ライカー監督の「難しい試合だった」という試合後の言葉を待つまでもなく、バルサにとって最も難しい時間となることが予想された試合開始後の15分間。

バルサが3ポイントを得るには二つの原則事項があった。一つは、早めにゴールを決めること。危機を迎えているバレンシアに対する地元ファンの目が、バルサゴールと共にバレンシアベンチとパルコに向けられることになるのは明らかだった。ファンから浴びせられるブーイングと白いハンカチが、大いなるプレッシャーとなって地元選手たちを襲う。これほどバルサにとって喜ばしい試合展開はない。そしてもう一つ、それは試合開始早々の怒濤のような攻撃を防ぐこと。それは、早めにゴールを奪うことより大事なことだった。そしてバルサは前半の45分間、今シーズン最高の内容の試合展開を広げる。ボールの早さ、プレッシャー濃度、守備の固さ、攻撃展開の素早さ、どれをとっても今シーズン最高の内容だった。

■明
アウエーでの勝利
エトーの爆発
グディの貢献
マルケスの復活
デコの復帰

■暗
メッシーのクラシコ出場不可能となった負傷

もしこの試合を引き分けたり負けたりするようなことがあったら今回はやらんわい!と決めていた毎年恒例のクラシココーナー。常識的に考えれば4ポイント差で、あれっ?となれば2ポイント差で、あらま!となっちまったら1ポイント差で迎えるカンプノウでのレアル・マドリ戦に向けて。

日本時間火曜日23時59分から“クラシココーナー”スタート!


ガスパー健在!
(07/12/15)

その長いクラブ史上にあって、最悪といってもおおげさではない暗い時代を築いてくれたガスパー政権。ガスパー元会長そのものに諸悪の根源があることは間違いないものの、会長選挙の際に彼に投票した多くのソシオ(自分も含めて)の誤りでもあった。その彼は現在、バルセロナ市観光業界の会長を務めながら、サン・アンドレウという三部リーグに在籍するクラブの会長ともなっている。そして圧倒的な強さで首位を走るサン・アンドレウは、今週末バルサBを地元ナルシソ・サラに迎えて対戦する。ブラウグラーナ色を肌だけではなく、血の色にまで染めてしまっている我らがガスパーにとって、イタイタしい試合であることは確かだ。

今週末の試合について。

私はサン・アンドレウの会長であると共に、生まれつきのバルセロニスタでもある。そのことは誰もが知っているし、私もそれを隠そうとは思わない。そう、私はどこにいようがバルセロニスタ。どちらのチームが勝って欲しいか、私を知っている人々には答えは明らかだろう。バルセロニスタとして生まれ、そしてバルセロニスタとして死んでいく。それが私の人生だ。それに、私がいま会長をしているサン・アンドレウが二部Bカテゴリーに昇格して欲しいという希望とぶつかるものでもない。その目的に向かってチームは是非とも頑張って欲しい。だが、繰り返すが、私は死ぬまでバルセロニスタだ。

複雑ですね。

そう、それはしょうがない。私は自分のクラブを心の底から愛している。自分のクラブ、それはもちろんバルサしかない。そして今週末やって来るチームの監督は、私の友人でもあるペップだ。

サン・アンドレウはこれまで5失点しか許しておらず、しかもバルサBとは6ポイントの差をつけて首位を走っている。

そう、でも、バルサBはこのスタジアムでは常に良い試合をしている。昨シーズン、両チームとも二部Bカテゴリーにいたときの試合でも0−3で勝利している。だが、サン・アンドレウとしても、相手がバルサとなると、他のチームと同じように、普段とは比べものにならないほどのモチベーションをもって戦うのが常だ。会長として、多くのファンがやって来て試合を楽しんでもらえればいいと思う。ファンの人々にしても、特別な試合であることは間違いないだろう。なぜなら、サン・アンドレウのファンの80%は、同時にバルサのソシオであったりファンであったりするのだから。

ところで、あなたの友人であるペップは前回の試合で退場となっており、今回の試合ではベンチに座れない状況になっている。

もし彼がパルコに座りたいなら、何の問題もなく私の隣に席をとってあげよう。もし必要なら、ベンチに直接つながるトランシーバーも貸してあげよう。試合中に退場になったということは、彼には熱い血が流れていることを証明していると思うね。もし、私が監督としてベンチに入ったら、10分もかからず退場となってしまうだろう。もう何十年も前の話だが、ジョレッタ・デ・マルというチームの責任者としてこのナルシソ・サラにやって来たとき、審判に文句を言い続けたということで試合中に退場になったことがある。まあ、そんなことはともかく、ペップが良い監督になってくれることを心の底から祈ってる。彼はまだ若いし、何よりも私と同じ100%バルセロニスタだ。

ペップはバルサAチームの監督になれると思うか。

統計的に言えば、これまでバルサで選手として活躍した選手が監督として成功する確率は低いようだが、ペップには監督として成功する幸運が訪れて欲しい。いつか、バルサのベンチに座ってくれたとしたら、これほど嬉しいことはない。

ラポルタも来たいと言ったらパルコに招待する気はあるか?

彼にはそんな時間はないだろう。だが、もし来たいと言うのならもちろん招待するさ。何と言っても、サンドロ・ルセーと同じように、彼もサン・アンドレウの選手としてプレーしたこともある人間だからね。

最後に、本当のところ今週末の試合はどちらを応援するのか?

良い試合をしたチームに勝って欲しい。これ以上何を言えばよいのか?私はサン・アンドレウの会長だし、マニュアルにしたがって言えばサン・アンドレウに勝って欲しいと言えばいいのだろうが、私はマニュアルどおりには生きていない。誰にも嘘はつきたくないし、自分に正直に生きていきたい。繰り返すことになるが、私は死ぬまでバルセロニスタ、自分の生涯クラブはバルサ。そしていつも自分のクラブが勝って欲しいと願っている。もしサン・アンドレウが負けたとしたら、満足しているなんてことは絶対言わないが、同時に、不満足かというとそうでもない。私はこういう人間なんだから、いまさら変えるわけにはいかんのだよ。

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バルサバスケの危機
(07/12/14)

バルサというクラブのシンボルの一つと言っていい“カンテラ寮”としてのラ・マシアが、2009年にその務めを終えることになった。1979年に“カンテラ寮”として誕生したラ・マシアがその30年の歴史に終止符を打ち、シウダー・エスポルティーバに引っ越すことが決定したからだ。800万ユーロを投資して建設されるカンテラ寮は6千平米の広さを持ち、最大120名の若きフットボール選手を収容することができるという。環境的に恵まれた地域で近代的な設備が整ったカンテラ寮が誕生することはメデタイことでありながら、20年間この寮を横目に見ながらカンプノウに通った身としては少々寂しい、が、それはしかたがない。。

ラ・マシアから育った若きスポーツ選手はフットボーラーだけではない。バスケやハンドボールなどの若手選手もここで育っている。そしてイニエスタやメッシー、ボージャンなどと共に、世界的に名を知られるようになったラ・マシア育ちの選手の中に、バスケ選手のパウ・ガソルやカルロス・ナバーロがいる。だが、残念ながら、彼らに続くカンテラ選手が出てこないバルサバスケ部門。

中南米出身のフットボール選手が夢見るのは、いつかヨーロッパのビッグクラブでプレーすることであるように、ヨーロッパ出身のバスケ選手が夢見るのは、いつの日かNBAでプレーすること。ラ・マシアから育った何人かのバルサカンテラバスケ選手にしても、もちろん夢見るのはいつかアメリカに渡ること。そのためには、ヨーロッパ最大クラブの一つであるバルサバスケチームで活躍することが、最初の一歩となる。だが、今シーズンのバルサバスケを構成する選手たちを眺めてみると、一人としてカンテラ育ちがいないことがわかる。バルサバスケに詳しい友人に言わせれば、おそらくバスケカンテラ組織が充実してきてから初めてのできごとだろうという。ということは、実に40年ぶりの現象だ。

ラ・マシアが生んだ最大のヒーローは、言わずもがなパウ・ガソルだ。その彼がバルサを離れ、アメリカに渡ったのはもう何年も前のこと。だが、彼が不在となっても、バルサバスケのシンボル的な存在が消えることはなかった。17歳の時からバルサAチームでプレーしているカルロス・ナバロ、そしてパウ・ガソルの弟のマーク・ガソルの二人が、ラ・マシア育ちの代表的な選手として活躍していた。そのカルロス・ナバロは、今シーズンからガソルがプレーするメンフィスに移籍している。マークの方といえば、昨シーズンからジローナのチームにレンタルされプレーしている。今シーズンはてっきり戻ってくるものと思っていたら、彼にはバルサに戻る意思はないということで、ジローナに残ってしまった。クラブ側が今シーズンから期待の選手としてマークの名をあげていたのに、なにゆえ戻すことができなかったのか。それはレンタルしたときの契約条項に“マーク側の意思を第一に尊重する’というバカな項目があるからだそうだ。

ここ20年間だけのバルサバスケの歴史を見る限り、皮肉なことにその全盛期はガスパー時代の2002−03シーズンとなる。リーグ優勝、国王杯優勝、そしてクラブ念願のユーロリーガ(フットボールに例えるならばチャンピオンズ)優勝というトリプレッテを達成したシーズン。だが、翌シーズンにラポルタ政権が誕生してから、観客数の減少という傾向が起こり始める。トリプレッテを達成したシーズンの平均入場者数が7300人、そしてその数はシーズンごとに減少し、今シーズンのこれまでの平均入場者数は、4000人を切るところまできてしまった。

バスケ部門の年間予算だけを見れば、決して恥ずかしい数字とはなっていない。1700万ユーロという年間予算費は、他のヨーロッパビッグクラブのそれと比較してみても、10本指に入るものだ。だが、残念なことに、かつてのヌニェス政権やガスパー政権時代のような“バスケ部門専門理事会”が、ラポルタ政権には存在しない。ラポルタ会長自ら認めるように、現理事界はフットボール部門を最優先としている。そのモチベーションの欠如が“ロナルディーニョ”というようなクラックと呼ばれる選手や、“プジョー”のようなチームカラーを肌に染めたカンテラ選手不在状況を生み出し、メディアチックさもなければ、アイデンティティーも感じさせないチームとなってしまっている。

さて、2年後には“かつてのカンテラ寮”となってしまうラ・マシアはどのような道を歩むのか。最初に寮移動案が発表されたのは今から約2年前ぐらいだが。それ以来、何人かのソシオやいくつかのペーニャが“ソシオやペーニャの親交場”として開放することを提案してきた、だが、最終的にそれは認められず、会長専用オフィスとなる可能性が大のようだ。つまりラポルタ会長専用オフィスとなってしまう。もし2年後にそれが現実となったあかつきには、お祝いとして子豚の頭を庭に投げつけてやるのだ。


ブラジルカンテラ
(07/12/12)

セビージャ戦、サラゴサ戦、レバンテ戦、あるいは最近のリヨン戦やエスパニョール戦ですでに答えは明確となっている。今日の段階で、少なくとも今日の段階で、10番はイニエスタが最適だ。それにもかかわらず、我らが監督フラン・ライカーはかつての10番を優先して起用した。ここ2試合、ベンチスタートという任務を与えられ、途中から出場してきても何の変化も見られなかった選手でありながら、わずか2、3日の練習で珍しく気を入れてやっていたという理由だけで、かつての10番をスタメンで出場させている。

3ポイント獲得のコルーニャ戦。エトーやデコが想像以上に回復して戻ってきていること、そして逆転もできるんだぞ!という肯定的な要素をのぞけば、いつものように退屈な試合。かつての10番には上昇カーブなど少しも見られないことや、メッシーの否定的な部分だけが目立つ試合であり、ボージャンが加わって来るまで、まったく火花が感じられない退屈な試合となった。相手はカテゴリー降格ラインにピッタリとはまっているコルーニャであり、まして地元カンプノウでの試合。すでに見つかっている答えをもとに戦っていたとしたら、決して“難しい”試合などにはならなかっただろう。しかも次回のカンプノウの試合は1位のチーム(金曜日開催説はなくなり、99%の確率で土曜日)との戦いであり、その前にはメスタージャでのクーマン相手の試合、19位相手の試合を“難しい試合だった”と試合後に語るライカーは、これらの試合を何と表現するつもりだろうか。

再び地元での試合。消化試合となっコルーニャ戦翌日の練習では、早めに切り上げようとしてライカーに引き留められ、嫌々ながらテレテレと走り込んでいた元10番に危機感などもちろんない。自ら復活の努力をしない選手に復活などやってくるわけがない。復活などあり得ないかつての10番について語るのは時間のムダ。今日の話題は、世界に広がるブラジルカンテラについてだった。

ラジルという国における最大の“国内重要産業”は、フットボール選手育成にあるといっても大げさではないようだ。たまたま見たある雑誌の中で次のような統計が発表されていた。2007年10月段階で、ブラジルのフットボールクラブから、何らかの形で世界各国に移籍していったブラジル国籍選手の数が1045人だという。1000人以上のブラジル人選手が、アジアや中東、あるいはオーストラリアやヨーロッパ、そして中南米各国でプレーしていることになる。果たしてブラジル各クラブに納められた選手移籍料というのはいくらになるのか、それは想像もつかない。

これだけのブラジル人選手が世界各地に散らばっているわけだから、金持ちフットボールクラブが多いヨーロッパ各国各クラブにも当然ながら大勢いることになる。やはり2007年10月現在、チャンピオンズの戦いに参加しているエリートクラブの中に在籍するブラジル人選手の数は98人だという。2008年1月になれば、ミランに入団しているアレックス・パトが新たに登録されてくるし、インテルのアドリアーノも戻ってくれば、ピッタリ100人ということになる。チャンピオンズでプレーしている選手たちを国籍別に分ければ、もちろんブラジル人が一番であり、2位につける64人のフランス人選手数に大きく差をつけている。ちなみに3位は53人のスペイン人、4位は41人のポルトガル人(ポルトガルは外国人にとってEUパスポートを最もとりやすい国として知られているから、元外国籍という選手が多くいるのだろうと個人的に予想)、そして38人のドイツ人、32人のアルゼンチン人と続く。

ユーロ2008大会参加落選組となったイングランド代表の低調さは、チャンピオンズに参加しているクラブが4つもあるというのに、この大会出場に登録されているイングランド人選手が26人しかいないという数字に示されている。11人のスタメンにイングランド人選手が1人もいないという傾向が、いくつかのクラブで見られるが、この数字を見る限り不思議なことでも何でもないように思えてくる。

チャンピオンズ決勝戦では、一人もブラジル代表選手がいない、次のようなバルサ最強メンバーで戦うべし!


エトーの復帰
(07/12/09)

8月29日に開催されたガンペル杯で負傷し、9月1日にドクター・クガットによって手術を受けたサムエル・エトー。手術後、クガット氏からは3か月前後のリハビリが必要と宣告された。そして手術日から約3か月後の12月4日、ようやくドクター許可が下り、いよいよ復帰が可能となったサムエル・エトー。

このエトーを含め、今シーズンもバルサには多くの負傷者が続出している。1か月以上のリハビリが必要だった選手だけでも、サンブロッタ、トゥレ・ヤヤ、マルケス、デコなどがいるし、1、2週間だけのリハビリで済んだ、あるいは済みそうな選手でも、トゥラン、グジョンセン、ミリート、ジョバニ、アビダル、アンリときりがない。何シーズンか前に続出した“半年病”事件ほどではないにしても、原因のわからない負傷が今シーズンも続いている。だが、その中にあって、エトーの負傷原因だけは明らかになっている。その原因は、夏休みの“取り方”の誤りにあったとされている。

プレステージが開始された初日から、エトーとジョバニだけは他の選手とは違うリズムで、すべての練習をこなしていたという。夏休み明けであるにもかかわらず、すでに二人とも体ができあがっている状態となっていた。ジョバニの場合は簡単に説明がつく。なぜなら彼はメキシコU20の大会に出場し、ほぼ夏休みをとらないまま、つまりフィジカル的には前のシーズンから続いている状態だったからだ。だが、エトーの場合はバルサ医師団には説明のつかない出来上がりぶりだった。そして体力的には100%という印象を与えているのに比べ、不思議なことに普段のエトーの動きとは何か違うものがあったという。いつもの彼に見られるリズムの急激な変化や素早いダッシュ、そして火花を散らすような鋭い動きがなぜか見られない。その理由をバルサ医師団が知ることになるのは、プレステージが開始されてから1週間後ぐらいたったころだったという。

疲れた体と精神面に休養をあたえるための夏休みに、エトーはとんでもないハードな練習スケジュールを消化していたという。7月に入ってマジョルカ入りした彼は、かつてマジョルカ選手時代に知り合ったトレーナーを専属契約し、炎天下のもとハードな練習スケジュールを組んでいる。パウ・アルベルティというトレーナーが組んだ練習スケジュールは、1日3回の行程からなっていた。朝は砂浜での走り込み、昼はジムでの増強トレーニング、そして午後は芝が敷かれているグランドでの各種トレーニング。このプログラムをもとに2週間以上のトレーニングに励んだ彼は、プレステージに参加する頃には、フットボールをするスポーツ選手というよりは、当時大阪でおこなわれていた世界陸上大会に参加する選手のような筋肉状態となっていた。

エトーとしてみれば、長期負傷を負った昨シーズンのこともあり、スタートから完璧な体調で飛ばしたかったのだろう。手術した周りの筋肉をさらに強固にするために、夏休みの一部をハードトレーニングにあててしまった。だが、本来であるならば、手術後に作り上げられた筋肉の疲労をとらなければならなかったにもかかわらず、さらに疲労を加えることになってしまった。体力的にはすっかりできあがってプレステージに参加してきたわりには、彼らしい動きの良さが見られなかったのはそのせいだった。

疲労している筋肉を助けるために、その運動では普段は使われない筋肉が応援にかけつける。足首を捻挫したときに、それをかばうように歩き続ける結果、他の筋肉が痛み始めることと同じだ。そして、ガンペル杯での急激な体勢の変化と共に放ったシュート、これが結果的に、間違った夏休みの“取り方”のツケを払わされることとなった。

手術後、2か月過ぎたあたりで復帰の噂がたったことがある。11月はじめのレンジャース戦にはどうにか間に合うのではないか、そういう噂だった。昨シーズンの負傷時のように、エトーの主導権の下に復帰時期が決められるようだったら、今回も11月のその頃には試合出場も可能だったようだ。だが、今回だけはバルサドクター陣とライカースタッフがしっかりと主導権を握り、エトー復帰日をプログラムしていた。3か月という期間を決して下回ってはいけない。エトーの意見がどうであれ、3か月たたなければドクター許可は下りない。そして12月、ようやく彼にその許可が下りることになる。

「メッシーとエトーが戻ってくれば・・・」
というような想いを抱いていた昨シーズンと同じような状況下でチームに戻ってくるエトー。チーム内にいくつかの問題が生じ、ゴール不足、あるいは相手デフェンサに対するプレッシャー不足を抱えているチーム状況は、まさに昨シーズンと同じだ。だが、あの時、エトーは復帰はしてきたものの、復活はしてこなかった。シーズンが終了するまで、負傷前のエトーは戻ってこなかった。今回も時間が必要だ。コパ・アメリカから戻ってくる2月あたりに、少しでも本来のエトーの復活が実現すれば良い。


ルイス・エンリケの回想(下)
(07/12/07)

モウリーニョ
監督としてではなくコーチとしてしかモウリーニョを知らないのが、個人的には残念なことだと思っている。とてつもなく素晴らしい人間性を持った人であり、知的なイメージを持ったコーチだった。いつか監督になるために修行を積んでいたのだろうが、そいうことをおくびにも出さず、ひたすら監督のサブとしての役目を全うしていた。ロブソンが監督になると同時にバルサにやって来て、そしてロブソンがクラブを離れた以降も、バンガールの下で働くことを決意したのも、彼から多くのことを学ぼうと思ったからだろう。

思ったことをストレートに言うタイプ。バンガールとうまくいったのは、そのキャラクターがあったからだろうと思っている。バンガールは決してバカじゃない。いや、それどころか非常にインテリジェンスに富んだ監督だ。歯に衣を着せぬ感じで自分の意見を語るモウリーニョの存在が、彼にとってはとても貴重だったのだろう。いつだったか、バンガールが自分にこう言ったことを覚えている。
「モウリーニョは受けの良いことを言うタイプではなく、本当に思ったことをそのまま言う男だ。こういう人物は信用するに値する。」

そしてコーチ業から監督に変身したモウリーニョを見たとき、ああ、やはりこの人は凄い人だなと思った。何が一番凄いかって、すべての選手が監督を尊敬しきっている雰囲気を感じたからだ。監督のために一生懸命やっている選手たちがいるということほど素晴らしいことはない。グループを統率する才能と、インテリジェンスを備えた監督であり、少なくても何本指かに入る世界屈指の監督だと思う。

ベルナベウでの試合
自分でもベルナベウでのクラシコでは、かなり良い試合をしたと思っている。でも、もっともっとベルナベウで試合をしたかったと今でも思っている。ああいう雰囲気の中でプレーするのは最高だ。バルサの選手として最もモチベーション高く、そして興奮する試合。何万人ものメレンゲたちが自分に対してブーイングし、観客席に近づこうものならツバまで飛んでくる環境。もう、最高だ。だから、あのスタジアムでゴールを決めようもんなら、自分にとって人生最高の瞬間と言ってもおおげさではなかった。

ルイス・フィーゴ
セルダーニャという避暑地でバケーションをとっていたフィーゴから電話を受けたのは、まだ彼自身も決断しかねている時期だった。
「自分にとって、そして家族にとって、最良だと思う決断をとればいいんじゃないかな。もっとも、ここ以上にファンに親しまれる場所は見つからないだろうとは思うけれど。」
そんな感じで話した覚えがある。最終的に彼はマドリに移籍することになるけれど、ある意味で人が良すぎたのかも知れない。彼の代理人を救うためにも他に方法がなかったのだろう。ベルナベウでの最初の記者会見での彼の表情を覚えているかい?あの苦しげな表情を見たとき、ああ、ヤツはもうどうしようもなくなってマドリに行ってしまったんだなと感じた。

人間的には素晴らしいヤツ。このフットボールの世界で知り合った数少ない魅力的な人間でもあるし、今でも親友だと思っている。しかも彼ほどバルセロニスタに愛された選手も珍しい。それだからこそカンプノウでのああいう反応が生まれたんだろう。バルセロニスタの心の傷も、時間の経過と共に癒されていけばいいと思う。

現在
フットボールをすることにはもう興味がない。つい先日も、バルサのベテランチームの一員としてプレーする羽目になったけれど、ケガしてしまったし、もうフットボールはダメだ。いま最も興味あるスポーツは自転車やマラソン。これらのスポーツに親しんでいる瞬間が、まだ自分は若いじゃないかと思うとき。フットボール選手としての最後のシーズンなんか、朝起きるのがとてつもなく苦しかったし、体のどこかが必ず痛んでいた。でも、今はそういうこともない。自転車で長距離走ろうが、マラソンを完走しようが、翌朝はスッキリしているしどこも痛まない。ちなみについ先日フィレンツェでのマラソンに出場して、ついに3時間を切ることができた。2時間57分58秒、これが自分の最高タイム。

将来
自分が望んだときにフットボール界を去ることができたように、やはり理想的な時期にその世界に戻りたいと思う。急がず焦らず、でも着実にその世界へ戻れる準備はしているつもりだ。もっとも、こればかりは自分に興味を抱いてくれるクラブからのオファーがないと話にならない。でも、いつの日かフットボールの世界に戻ることは間違いないと思う。それは金のためではなく、メディアの前にでてチャラチャラするためでもなく、やはりフットボールが好きだし、選手としてではなく他の方法で楽しめることが可能だと思うから。その方法とは、自分的には監督としてフットボール世界に戻ることだと思う。

今のバルサみたいに4−3−3というようなシステムを採用しているチームは少なく、ほとんどが4−4−2というような感じだけれど、やはり自分が監督を務めるチームは攻撃的なものとしたい。左右にエストレーモがいて攻撃をモットーとするチーム。一人のフットボールファンとして、そしてバルサのソシオの一人として、ライカーバルサのような攻撃的なフットボールに誇りを感じている。ファンの人々に誇りを感じさせるようなチーム作りができたら最高だ。


ルイス・エンリケの回想(上)
(07/12/06)

「自分が要求するレベルに、もはや到達していないことがわかったから。」
ルイス・エンリケはこの言葉を残して現役引退をしている。今から3年ちょっと前のことだ。10年以上エリートコースを歩んできた彼は、フィジカル面の劣りとメンタル面の疲労を感じ取り、自ら要求する最低レベルに到達していないことを悟った。だが、現役引退後の彼の行動を見てみると、現役時代と変わらないような肉体の痛め方をしていることがわかる。最初は趣味のサーフィンを通して、そして次の目標はハーフマラソンからフルマラソンへと移り、そして同時に自転車ロードレースや遠泳を含めたトリアスロンの世界へと突入していく。だが、それでも、いつかはフットボールの世界へ戻ることを意識しているようだ。その彼が11月の末に、カタルーニャのある地元紙を通じて、過去のことに触れている。

レアル・マドリ時代
監督のホルヘ・バルダーノがラウドゥルップ、ミチェル、そして自分を含めた3人の選手を一時的に招集外とする時期があった。マドリというチームが難しい時期を迎えている頃の話。なにゆえ我々3人が招集外となり続けたのか、それは何週間かたってから知ることになる。バルダーノに近い選手の一人がそれを彼に進言したというではないか。ロッカールーム内が揉めている時期であり、選手同士がうまくいっていない環境にあったのは確かだ。だが、もちろん我々はそのやり方が不満だった。選手同士に問題があるのなら、我々自身が話し合って解決すれば済むことではないか。そのことを監督に進言したある選手に言ったところ、翌日から合同練習にも呼ばれず、グループと離れたところでの三人だけの練習となった。多くの楽しい思い出があるマドリ時代だが、これは最も悲しい思い出の一つ。

バルサへ
5年間在籍したマドリの最後となったシーズン、自分の代理人が他のクラブから来ているオファーに関して相談しに来た。一つはイングランドのクラブから、もう一つはイタリアのラッチオから、そして国内ではバルサからのオファーが来ているという。
「ラッチオのオファーが経済的に一番優っている。イタリアに行ったらどうだ?」そう勧める代理人。
「バルサからオファーが来ているって?それならバルサに行く。」
1秒とかからないほど決意は早かった。バルサなら何かうまくいくんじゃないか、そんな気がしていた。

クラブ副会長ガスパーの動きを知ったマドリ理事会は、契約延長交渉を提案してきた。バルサが用意している年俸額の倍はするオファーだった。経済的には非常に魅力的なオファーだったが、それでも答えはノーだった。
「ありがとう。でも、自分はバルサに行く。」
自分の心のクラブは何と言ってもスポルティング・ヒホン。だが、二番目はどこかと聞かれれば、バルサ以外なかった。なぜだか知らないが、子供の頃からそうだった。バルサとの契約を済ませて最初に電話連絡をとったのは、自他共にバルセロニスタと認める兄へだ。
「いまバルサ入団の契約を済ませたばかりだ。これで誰にも遠慮せず、素直にバルサを応援することができるようになっただろ!」

マドリでは最後のシーズンをのぞき、楽しい時期を過ごすことができたと感謝している。多くの友人たちを残してシャトル便に乗ってバルセロナへ。そしてメディアからの最初の質問が、次のようなものだった。
「元マドリ選手であるあなたを、バルセロニスタが暖かく迎えると思うか?」
そんなことは何の問題ともならないと信じていた、事実、バルサのユニフォームに初めて袖を通した瞬間から、多くのバルセロニスタに励まされる幸運に恵まれた。感謝しても感謝しきれないバルセロニスタへの想い。

ロブソン時代
自分と同じようにこのシーズンに入団してきたピッツイと一緒に、新監督であるロブソンに挨拶に行く。監督室に入る我々二人。
「誰かね、この人たちは?」
ロブソンが隣にいたモウリーニョに質問した。
「おい、このおっさん、俺たちのことを知らないようだぜ・・・。」
ピッツイに小声で笑いながら話しかける。やれやれ、ピッツイは前シーズンのヨーロッパ最多ゴレアドールだ。そして自分はつい先日までマドリの選手。もっとも、二人とも夏休みを利用してビーチにいた時間が多かったので真っ黒になっているから、そのせいで誰だかわからなかったのかも知れない。という笑い話はいまでも逸話になっている。

バンガール時代
たぶん、自分が間違いを犯したのだろう。サンタンデール戦に控え選手扱いとなった自分に、監督のバンガールがその理由を説明しようとやってきた。だが、自分には彼の言葉を聞く意思も耳も持っていなかった。
「何も聞きたくない。」
バンガールに対して自分がとった態度の中で、最初で、そして同時に最後となった誤りだった。スタメンにでられなかったことで、あまりにも熱くなりすぎていたバカ者の誤りだった。その後、何試合か干されることになった。

バンガールはどこまでも真っ直ぐで実直な人だった。何か選手との問題があれば、必ず当事者を呼んで直に対話をおこなう監督だった。決して第三者を間に入れて会話をしようとしない監督だった。そして話し合いで誤解や誤りが見つかれば、決してそれまでの過去のことなど気にしない監督でもあった。自分の誤りに気がつき、バンガールに謝罪に行ってから、彼は何事もなかったかのように試合に戻してくれた。

誰もが知っているように、多くのバルセロニスタと彼とはスムーズな関係にならなかった。メディアの前に登場する彼の姿勢に誤解が生じやすかったこともあるだろうし、独特な語り口やあの声も原因となっていたかも知れない。誤解が生じやすいタイプの人だ。だが、それでも本当の彼は全然違うタイプの人。どこまでも心が広く、そしてセンチメンタルな人だった。


学習能力
(07/12/04)

バルサAチームにイニエスタが上がってきたのは2002−03シーズン、彼がまだ18歳の時だ。そして現在23歳となってライカーバルサのリーダの一人となって活躍するまでの道のりは、決して急なカーブではなく、穏やかな上昇カーブを描いてのものだった。その上昇カーブは2004−05シーズンをスタートとする。多くの長期負傷者がでたことにより12番目の選手として、途中出場がほとんどではあったもののほぼ全試合に出場したシーズンだ。穏やかな上昇カーブがこのシーズンから始まった。そして決して急ぐことなく、だが着実に、多くのことを学んでいくことになる。

アイドルのラウドゥルップとは時代を同じくしていないものの、ペップ・グアルディオラとは一緒に練習する幸運に恵まれた。カンテラ時代はピボッテ、あるいは第二プンタとしてプレーしていた彼だから、多くのことをペップから学ぶことができただろう。創造的なセントロカンピスタとしての下地が固まったところで、デコとの出会いが彼をさらに大きな存在とすることを可能にした。ファールの仕方、ボールの奪い方はもちろん、熱い血も少しだけ分けてもらうことに成功し、より理想的なセントロカンピスタに成長。そしてここのところ起用されている左エストレーモというポジションでは、まさにラウドゥルップ的な活躍さえ見せている。もうかれこれ8年、あるいは9年ぐらい前から見続けている選手だが、今では攻撃的なセントロカンピスタとして、世界五本指に入る選手に成長しているし、多くのものを受け入れることを可能とする、その器の大きさにビックリする。

同じように何年も前から見続けているレオ・メッシー。だが、彼の場合はイニエスタと異なる。メッシーの基本的なスタイルは、彼を初めて見た14、5歳の時とまったく変わっていない。

持って生まれたとんでもない才能と、それをさらに磨き続ける努力のたまものとでも言うのだろうか。メッシーは誰の影響も受けず、ひたすら己の道を走り続けてきたような選手だ。それだけでバロン・デ・オロ候補者選手にまでなったのだから、それはそれで凄いことだ。だが、欲を言うならば、かつて同僚だったジュリーから多くのものを学んで欲しかった。もし、フラン・ライカー監督がメッシー優先策をとらなければ、少なくともそれなりのことを学ぶことが可能となっただろう。右エストレーモとして必要なプレッシャー能力と守備能力、そして空いているスペースの活用能力を兼ね備えていたジュリーから、学ぶものは多くあったはずだ。だが、スタメンを約束されたことで、その学習は何か必要のないものとなってしまったかのようだ。バルサ右サイドの弱さを右ラテラルに入るサンブロッタやプジョーだけのせいにはできない。己の道を行くメッシーと守備能力に欠けるチャビが右サイドにいる限り、誰がラテラルを守ろうが、その選手に対する負担はとてつもなく大きいものとなっている。だが、それでもメッシーを責めることはできない。マイナス面よりプラス面が比較できないほど多い選手であり、何よりも相手デフェンサをゴチャゴチャにする能力を持ったバルサ唯一の選手だ。

それにしても、彼のPKの蹴り方はどこで学んだのだろうか。クーマンのそれとは違う感じがするし、どちらかというとかつてのサレンコとかメンディエッタの蹴り方に似ている気がする。ひょっとしたらこれもまた、誰の影響も受けず、彼の持って生まれた能力のおかげだけなのかも知れない。恐るべし、レオ・メッシー。

ボージャンもイニエスタと同じように、決して急ぐことはない。今の段階でスタメンで出場するかどうかということは二の次であり、ゆっくりじっくりと経験を積むことが重要だ。そして、イニエスタが多くのことをデコから学んだように、彼もまた多くの選手から、多くのことを学んでいかなければならない。ジムに行ってフィジカル面を強くすることをロナルディーニョに学ぶと良い。まったくスピードの異なるカテゴリーに上がってきたばかりの若者であり、週2回の試合をこなす体力はない。いや、90分を走り回る体力もないかも知れない。スタメンを勝ち取るのは来シーズン、あるいは2年後でじゅうぶんだ。今のところ、一試合25分から30分というのが理想的だろう。そしてグランド内のことはエトーから多くのことを学ぶことができるだろう。彼にとってエトーほど学ぶことが多い選手はいないはずだ。

クラブカンテラ組織から誕生した3人のデランテロ選手たち。ボスマン判決以来、こんなことが可能となるクラブは今のところバルサしか存在しない。


デルビー
(07/12/01)

ここのところ、元バルサの選手だった人が監督をしているチームとの対戦が続いている。それもほとんどがカピタンマークを腕に巻いた元バルサ選手たちだ。別にそれだからどうだというわけではないものの、この一連の元バルサ選手・現対戦相手監督という人々の名前を追ってみよう、

第12節 ラウドゥルップ監督率いるヘタフェとの試合。ここではルイス・ミージャがコーチをしているから、このチームは監督だけではなくコーチまでが元バルサ選手であり、そして同時に二人ともレアル・マドリに移籍した“裏切りもの”コーチングスタッフ。

第13節 ビクトル・ムニョスが監督をしているレクレとの試合。元バルサのカピタンでありながら、不思議とバルサと対戦している風景が多い人だ。イタリアはサンプドリアの選手として、バルサと2回ほど決勝戦でプレーしているし、監督としてもこれまで多くのチームでバルサと対戦している。

第14節 エルネスト・バルベルデが監督をしているエスパニョールとの試合。

第15節 バルサとはまったく関係ない人が監督をしているデポル戦。

第16節 クーマンが監督、コーチがバケロという、とんでもないコーチングスタッフとなっているバレンシアとの試合。監督、コーチともバルセロニスタには忘れることのできない元カピタンだ。いつの日か、このセットがバルサベンチに座っていたとしてもおかしくない。

第17節 ベルナルド・シュステルが監督をしているレアル・マドリとの試合。

さて、デルビー戦の相手のエスパニョール監督バルベルデ。クレメンテが監督をしている時代に、彼はエスパニョールでプレーしている。そしてヨハン・クライフがバルサにやって来ると共にエスパニョールからバルサへ、つまり、住むところの引っ越しが必要のない移籍をしている。左右どちらもこなす器用なエストレーモであり、スピードとテクニックが売り物選手だった。だが、残念ながらバルサでは成功していない。その原因を“Mis futbolistas y Yo”という自著の中で、クライフが次のように説明している。
「フットボール選手としてはもちろん、一人の人間として素晴らしい選手だった。だが、一度足りとしてリラックスしてプレーすることができない選手だった。練習で見せる素晴らしさの半分もグラウンドで示すことができなかった。スピードがあり、合格点がつけられるシュート能力があり、パスセンスにも恵まれていた。だが、グラウンドにでると萎縮してしまうかのようだった。バルサという大きなプレッシャーがかかるクラブでプレーしていたからかも知れない。その証拠にビルバオに移籍してから彼ならではの活躍を見せている。才能豊かな選手だっただけに、バルサでは幸運に恵まれなかったのが残念だ。」

そしてそのバルベルデと最も対照的だった選手として、ペップの名をあげている。
「何度も説明しているように、バルサというクラブでプレーすることは、非常に難しいことだ。このクラブで成功するためには、自分に対する自信というものを最低限持っていることが必要とされる。その意味でバルベルデと最も対照的だったのがペップだった。若くしてデビューした試合でも、まるですでに何年間もこのチームでプレーし続けているかのような雰囲気を漂わせていた。フットボール的な才能を持つことが大事であることはもちろんだが、強固なパーソナリティーを持つことは、それと同じように重要なことだ。」
その意味で言うならば、ボージャン・蹴るキックは17歳という年齢ながら、強固なパーソナリティーを誰よりも持っている青年だ。

デルビー戦は彼にとって両手の指の数を超えるほど経験してきている試合だ。もちろんAチームでの経験はこの試合が初のものとなる。だが、インフェリオールカテゴリーでのエスパニョール戦で、すでに何試合かの劇的なシーンを作り出してくれた主役だ。その中でも個人的に最も印象深い3年前のデルビー戦。それは敵地のサン・アドリアのグランドまで足を運んで見に行ったリーグ最終戦。エスパニョール・インファンティルAは引き分けでもリーグ優勝、バルサ・インファンティルAはどうしても勝利の3ポイントが必要な試合。1対1というスコアーでロスタイムに入った瞬間、ボラーニョスのセンターリングに合わせたボージャンの劇的なヘディングゴールが決まった。そしてすぐに審判の笛が吹かれ、バルサ・インファンティルA劇的な逆転リーグ優勝!

考えてみれば、去年の年明け時にはカデッテAでプレーし、春を過ぎたあたりでフベニルAでプレーし、年が暮れる頃にはバルサBでプレーするようになった選手だ。それから1年後の今、彼はバルサAチームの選手として初のデルビー戦を戦うことになる。恐ろしきかな蹴るキック、スエルテ!


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