2007年
2008年
1月

バイバイ、ライカー
(08/01/30)

己を欺し続けることは精神的に良くないし、中途半端な想いを持ち続けることも健康に良くない。ライカー監督のサイクルは、すでに終わってしまっていることを認めてしまおう。いや、多くのバルセロニスタが主張したように、昨シーズンが終了した段階で、すでに彼のサイクルは幕を閉じていたのだろう。だが、ロナルディーニョやデコの復帰が可能と信じてしまった自分を含めた甘ちゃん一派は、ライカーにも再びチャンスを与えるべきだろうと思ってしまった。しかし、今となって考えれば、それは甘ちゃん的発想だった。毎月70万ユーロも稼いでいながら、今ごろ半年遅れのプレステージ生活をおくっている選手を見るまでもなく、そして“タイトルがとれないならバルサを去る”と何やらカッコいいことを言いながら、飲酒運転で深夜の一斉検査にひっかかっていたプロ精神に欠ける選手を見るまでもなく、ライカーにも再びチャンスを与えたのは甘ちゃん的発想だった。

リーグ戦より国王杯制覇を優先していることが明らかな、ビルバオ戦用スタメン11人の選択。疲労度の多い選手を休ませる意味でのローテーションが必要なのは、誰でも理解できる。だが、それは地元の試合でおこなうのが常識というものであり、ラーシングやオサスナ相手のカンプノウの試合でおこなうべきものだ。ラーシング戦では休ませるべき選手を休ませず、そしてビルバオ戦では休ませてはいけない選手を休ませてしまった。特に後者の試合では、リーグ戦よりも国王杯の戦いを優先したかのような采配と感じられてもおかしくない。シュステルやミゲーリなどが現役であった時代のように、今シーズンのバルサは国王杯制覇をシーズン救済の救命具にしようとしているかのようだ。

この1月という、まだリーグ戦の折り返し地点に入ったばかりの段階で、リーグ戦2位につけているチームが国王杯優先とするのはとてつもなく寂しい話だ。15万バルサソシオ、何百万バルサシンパをおちょくった行為と言ってもおおげさではない。
「引き分けという結果は残念だが、例え1ポイントといえどもポイントを稼いでいけばいつか首位のチームに追いつけると信じている。」
信じるのは良いことだし、それは自由というものだ。だが、ビルバオ戦後のこういうおちょくったライカー発言はいただけない。そしてこの試合の翌日、ライカー監督はスタメン出場した選手たちに完全休養日を与えた。ビルバオやビジャレアルでさえ、そして首位を突っ走るマドリでさえ練習をしているというのに、ライカーバルサは余裕のお休み。この日、とあるプロモーションに参加し、メディアの前に姿をあらわしたライカーは次のように語っている。
「現在の段階で、レアル・マドリはスペインでの最高のチームと言える。」
事実であろうがなかろうが、バルサの監督が言ってはいけないことを平然とした顔でぶちまける。

幸いなことに、今年はユーロの大会があるから、リーグ戦が終了するのは例年より圧倒的に早い。ということは、バルセロニスタが苦しむ期間も短いことになる。それでも、まだ1月というのにリーグ戦2位狙いというのは、いやはや、寂しいやら情けないやら悔しいやら、いずれにしても許せんのだ。

そして今週の木曜日、カンプノウはスペクタクルな舞台となる。勝利すれば国王杯制覇の可能性が残ることになるが、もし負けることにでもなれば、怒濤のようなブーイングと多くの白いハンカチが観客席に花を咲かせることになるのは間違いない。選手たちに、ベンチにいるライカーを中心としたコーチ陣に、そしてラポルタが最も恐れるパルコへの糾弾が見られることになるだろう。ああ、どうせなら見たい気もするこういうスペクタクル、いっそのことビジャレアルを応援してしまうか、いやいや、やはりバルサが出場する国王杯決勝戦にも行きたい、う〜ん、困った困った。


チャビ・エルナンデス、28歳
(08/01/27)

もしカンプノウで試合を見るチャンスが訪れたなら、一度でいいからチャビだけを追って試合観戦することをお奨めする。いかに運動量が多く、そして誰よりも常にボールのそばにいる選手であるかということが、一試合だけでわかるというものだ。まるで審判のように、常にボールがある位置から3メートルぐらいのところにいてボールを見つめているのはチャビだと思えばよい。1998−99シーズンからバルサAチームにデビューして以来、ほぼすべての監督から厚い信頼を受けてグラウンドを走り回ってきた選手であり、そしてこれまで決してメディアやファンからの批判が出現しなかった希少価値な選手でもある。

チャビへの批判はタブーだと言っていい。バルサカンテラ組織から順調にスクスクと育って現在に至っている選手であり、もちろんクラブ批判やチーム内部批判など一度もしたことはない。とてつもなく“まとも”な性格ゆえか、多くのスポーツジャーナリストと仲が良いときている。グディや神父さんなどが正しくも内部批判をしたあとには、必ずメディアの前に登場してきて、クラブ擁護、あるいはチーム擁護をしてくれる。クラブ内に一切の問題がないことを期待するファンに対し、安心の言葉を提供してくれるのはいつも彼だ。ファンが“聞きたい”ことをしゃべらせたいなら、チャビの右に出る者はいない。ひたすらバランスがとれていて、とても健康的。もし、フットボールが肉体的な衝突のないスポーツであり、ネットを境として戦われるテニスのようなものであったら、彼は今以上に高く評価される選手となると思う。

カンプノウにおける去年最後の試合。バティスタがゴールを決めたあと、ヤヤとデコがチャビに詰め寄り何か怒っているシーンを見た。何週間後かにゴールシーンをテレビで見るまで、なにゆえ彼らがチャビに怒っているのかわからなかった。途中までバティスタを追いかけていったチャビだが、マルケスがタックルする前後で止まってしまい、その後バティスタをフリーにしてしまっている。最後まで追いかけて、バティスタをしっかりとマークする役目はチャビにあったのだろう。もし、そうしていれば、シュートする前におこなわれた壁パスを防ぐことがじゅうぶん可能となっていた。それを知っていたからこそ、ヤヤとデコが怒ったのだ。それでもメディアからのチャビ批判は起こらい。そんなことがあっても、例え、ロナルディーニョやデコに対する批判はあっても、チャビにはない。これまで多くのこういうシーンがあったにもかかわらず、チャビには批判がなされない。それは、タブーということもあるし、あるいは得な性格ということなのかも知れない。

イニエスタはデコから多くのことを学んで現在に至っている。だが、チャビはデコに学ぶのではなく、彼の影で生き延びてきていると表現した方が合ってる。相手選手からボールを奪うということは、決して3メートル離れたところで審判のようにボールを見つめることではなく、相手選手にピッタリとくっつくことであり、そして同時に足を突っ込むことだとデコは示してくれる。だが、ユニフォームが汚れたり負傷の危険がある“タックル”という単語はチャビにはない。スポーツ精神に富んだ彼に“戦術的なファール”という単語もない。それでもデコがデコとしての仕事をしている間は、チャビにも輝きがみられた。何と言ってもボールを奪われない選手であり、平行パスが多いことが彼の特徴でもあるから、パスミスということも少ない。だが、昨シーズンから奪うボール数を遙かに超えて奪われるボール数が多くなっているデコが隣にいるとなると、話は別だ。他の選手が光らないと、自動的にチャビも光らない。彼はイニエスタと違い、発光性を持つ選手ではない。

中盤でのフィジカルな戦いが必要とされるフエラでの難しい試合や、チャンピオンズでの大事な一発勝負の試合には向いていない。すでに勝負が決まり試合そのものを“殺す”必要が生じた後半20分あたりからの出場が理想的な選手。その選手を初めて見てから15年、バルサAチーム入りしてから10年、そして彼はもう28歳となった。偉大な選手にして、時には貴重な控えとなる選手、チャビ・エルナンデス。

■ビルバオ戦招集メンバー
バルデス、ピント、サンブロッタ、オラゲール、プジョー、トゥラン、ミリート、アビダル、シルビーニョ、エドゥミルソン、イニエスタ、チャビ、デコ、グジョンセン、ジョバニ、メッシー、ボージャン、アンリの18人。(お国ご奉公中のエトー、季節外れプレステージ中のロナルディーニョ、試合前恒例負傷中のエスケロ、長期負傷中のジェルケラ、そして短期負傷中のマルケス以外全員集合)


国王杯
(08/01/25)

ヨーロッパ・レコパ(カップ・ウイナーズ・カップ)の大会が消滅すると同時に、各国国王杯の大会そのものの価値が薄れてしまったのは否めない。それでも価値がまったくないというわけではない。ヨーロッパ・チャンピオンズ、各国リーグ戦に次ぐ三つ目の“重要な”タイトルであることも確かであり、そしてなによりも、もし国王杯制覇ということになれば、少なくとも一つのタイトルを獲得したシーズンとなる。当然のことながら、このタイトル獲得により、褒められたシーズンと総括されるかどうかは別のことだが・・・。

国王杯の制覇、あるいはレコパの制覇という“輝かしき”付録で、これまでどれだけクラブが救われてきたか、それはバルサの歴史を見れば明らかだ。テリー・ベナブレス解雇のあと監督に就任したルイス・アラゴネスが、シーズン終了後かろうじてバルセロニスタ過激派の“集団リンチ”から救われたのは、国王杯制覇のおかげだったし、クライフ監督就任の最初の頃、彼の首がつながったのはレコパや国王杯制覇のおかげだった。2008年国王杯優勝というのが、フラン・ライカーの最後の置きみやげとして評価されることになっても不思議ではない。

ビジャレアルの本拠地であるマドリガルは、ライカー監督にとって良い思い出のあるスタジアムとは言えない。唯一勝利したのは、彼が健康上の問題で不在となり、テン・カテが指揮をとった試合のみとなる。根拠のない“テン・カテ神話説”がなにやら真実味をおびてくる成績だが、個人的には“テン・カテ神話説”などまったく信じていない。ちなみに、監督に戻りたかったとしてアヤックス監督に就任した彼が、わずか1年チョイで再びコーチ業に返り咲いたことは不思議なことだ。

ホーム・アンド。アウエーの戦い。したがって180分間の戦いだ。最初の90分間マドリガルでの戦いで、スペクタクルなバルサの復帰など誰も望んでいない。この手の戦いでの大基本となるのは、できる限り失点を防ぎ、そして1ゴールでも良いからとにかくゴールを奪うこと。それが、カンプノウにおける残り90分間の戦いを有利に展開すための大基本だ。セビージャ戦やラーシング戦で見せた“知的”なバルサで良しとしよう。少なくとも、カンプノウ90分間の戦い前夜が、希望ある前夜となってくれれば、それでじゅうぶんOKだ。

国王杯の決勝戦を観戦することは、そのタイトルの重要性を遙かにこえて、ファンにとってはとてつもなく楽しいものとなる。外国のスタジアムに応援に駆けつけることを考えれば、比べものにならないほど楽な国内移動をおこない、2万人、あるいは3万人前後のそれぞれのクラブのファンの人々が集まる大フィエスタ。そこがベルナベウであればさらに最高だ。その楽しい決勝観戦が実現するのであれば、そこに至るまでの各試合での内容などどうでも良い。4月16日、この決勝戦に行けるのであれば、試合内容なんぞクソくらえだ。

実現しないであろう、バルサスタメン11人。

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カンプノウに到達せずの巻
(08/01/23)

ラーシング戦。冷たい風を受けながらチャリンコに乗って、いざ、カンプノウへ!と勢いたって向かうものの、家を出て5分としないうちに、それまで来た道を引き返してしまった。ラジオのイヤホンからマドリディスタアナウンサーの絶叫が聞こえた瞬間に。

ゴール デ マドリ!
ゴール デ マドリ!
ゴール デ マドリ!
アレティ ゼロォォォォォ!
レアル・マドリ ドォォォォォォォス!

去年の最終戦“23-D"事件の傷口がまだ開かれたままの負傷者であり、おまけに怠け者でモチベーション不足となっている誰かさんと同じように、こういう状況だとカンプノウでの“復帰”は難しい。自分と同じように自宅を出発しカンプノウへ向かった人々のうち、1万前後怠け者バルセロニスタが途中でUターンしたと予測。カンプノウ観衆6万人、いつもより1万人は少ない。

と言うわけで、テレビ観戦。こういう試合内容、正直言って決して嫌いというわけではない。ひたすらお粗末で、どこまでも渋く、そして退屈な試合でありながら、必死に3ポイント稼ごうというチンケな姿勢は、ある意味微笑ましい。攻撃を!攻撃を!あくまで攻撃を!というボヘミアン的なポリシーで知られるチームでありながら、それでも実のところ“知的さ”も持っているという感じがするではないか。ラーシング相手に、それもラーシングAチームではなく、控え選手の多いBチーム相手にこういう試合内容はいただけないという気はするものの、それでも、まあ“知的さ”が感じられるのは良いことだ。ライカーバルサはこういう戦い方をしてミランを破り、チェルシーを破り、そしてヨーロッパチャンピオンになったのだ。

勇気凛々バルセロニスタ6万人。その立派なバルセロニスタの一部からジョバニに対してブーイングが飛ぶ。18歳の、しかもカンテラ育ちで今シーズンAチームに上がってきたばかりの選手に対してのブーイング。怠け者バルセロニスタだから胸張って大声では言えないものの、勇気凛々バルセロニスタが常に“バルセロニスタ世論”を代表しているわけではない。アホもいればバカもいるしお調子者もいるのだ。何に対してブーイングがされているのかも知らず、野次馬根性を発揮して一緒に楽しんでしまう輩も多いことを、これまでの経験で知っている。気にすることはないさ、ジョバニ。アンチ・ドラッグの親善試合で意味なくブーイングされた、チキ・ベギリスタインという選手もいることを知るがよい。何が楽しいのか、ブーイング命のバルセロニスタもいるのだ。

ポイント差が少なくなればなるほど、カンプノウへの道は近くなる。いつまでも幸運の女神がマドリに舞い降り続けるわけではない・・・と信じ、春が来るのを今か今かと待ち続けるのでありました。


控えめにホセ・ピント入団
(08/01/21)

ピントという名から、すっかりポルトガル出身の選手だと以前から疑いもせずに思い込んでいたが、それはとんでもない勘違いで、アンダルシアはカディス出身の正真正銘のスペイン人だった。1975年11月8日生まれというから、すでに32歳のベテランポルテロ。そして、各メディアの紹介記事を読むと、なかなかの苦労人らしい。確かに22歳でプロデビューを果たし32歳となる今日まで、スポットライトを浴びた期間は非常に短い。

1994年、19歳でベティスに入団。当時二部Bカテゴリーに在籍していたベティスBで4年間プレーし、すでに22歳となった1997年のシーズンに、わずか1試合だけベティスAチームでプレーしている。そして翌年の1998年、ビゴにあるセルタに移籍。このシーズンもわずか1試合だけ出場しているが、セルタ選手2年目となる1999−00シーズンから徐々にではあるものの出場機会が増えてくる。9年半にわたって在籍したセルタ選手として、最も華やかなシーズンとなったのは2005−06シーズン。リーグ戦37試合出場し許したゴールが28。このシーズンはバルデスやカシージャスを抜いて、リーグ戦最少失点ポルテロに贈られる“サモラ賞”を獲得し、ポルテロというポジションではスペインリーグでの頂点に立った。

だが、ピントのポルテロとしての長い経験を眺めると、非常に苦労の多い選手だったことがわかる。ベティスに在籍していた5年間、一部チームにはトニー・プラッツという絶対スタメンのポルテロがおり彼の出場を拒んでいたし、セルタに移籍してみても、そこにはドゥトゥエルがおり、彼の入団後しばらくしてカバージョがやってくる。常に控えポルテロという立場に置かれていたそのピントに、絶対スタメン選手の称号がおくられることになるのは、セルタが二部リーグに落ち込んでしまった2004年からだ。そして、スペインリーグ126試合を経験しサモラ賞まで獲得しながら、今シーズンはエステバン・スアーレスの控えとしてベンチに座ることが多いシーズンとなっていた。

「セルタには約10年間在籍したが、1回としてスキャンダルな発言や行動はしたことがない。例え控えポルテロという扱いを受けても、決して監督にその理由を問いつめたことはないし、毎日の練習にモチベーションを欠いたこともない。バルサに入団してもバルデスの控えとなるのは覚悟しているが、彼やチームの助けとなる仕事ができればいいと思っている。」
バルサに入団することが決まってからも、そう控えめに語るピント。セルタではかつてカピタンマークまでつけた選手である彼に対し、多くのセルタファンがバルサでの成功を祈っていると地元メディアが伝えている。

セルタという二部リーグでプレーしているチームの控えポルテロから、やはり控えポルテロとしてバルサというビッグクラブへレンタル。そのレンタル期間は今シーズン残り半年のみ。だが、レンタル料50万ユーロというのは、言い方を変えれば移籍料に等しい。なぜなら、もしバルサがピントの更なる残留を希望したとしたら、1ユーロもセルタに支払うことなく自動的に残留が決まるという。ちなみに、バルサに残ることになろうが、セルタに戻ることになろうが、ピントにとって変わらないことがある。それは、彼の音楽活動だ。ヒップポップミュージックの世界にしっかりと染まっている彼は、2006年に自らプロデュースした最初のアルバム“Wahin Makinaciones”を世に出し、現在もまた音楽活動を続けている。

もし、バルデスの控えであるジョルケラが長期負傷しなければ、間違っても実現しなかったであろうバルサ入団。外見だけを見れば“バルサのシーマン”みたいだが、実力的にもジョルケラよりは期待できそうだ。

スエルテ、ピント!
ブエナ・スエルテ!


ボージャン母
(08/01/19)

マリア・ルイサはレイダでは看護婦をしていた人だが、バルセロナに引っ越してきてからは専業主婦となっている。とは言っても、やはりただの主婦ではなく、フットボール界の中で大いなる将来を期待されているボージャンの母親。息子がまだバルサインフェリオールカテゴリーでプレーしている時には、ボージャン父と共に観客席から息子の姿を見守り、今シーズンからは、カンプノウ観客席を埋める一人となっている。この短いインタビューの中では触れていないが、彼女が一つだけ息子に厳しく要求していることがある。ファンの人々の目に触れる場所では、決して携帯と iPod を使用しないこと。ファンの人々が憧れの選手に直に触れることのできるわずかな空間、それは合宿ホテルからバスに乗るまでの空間であったり、バスを下りて飛行場に向かう空間であったり、飛行場からホテルに向かうバスに乗るまでの空間であったり、そしてバスを下りてホテルに向かうというようなわずかな空間。何でもないことのようだが、アイドルの選手が出てくるのを今か今かと待ち受けるファンの人々を決して無視しないようにという、そのような願いを込めての要求だという。

あなたの息子さんはまだ短い人生の中でも、最も幸せな時期を迎えていると言ってもおおげさではないでしょう。メディアやファンの人々から大いなる注目を浴びている、そういう息子を持つ一人の母親としてどういう心境か?

ある才能に恵まれ、それを実際に職業として生かすことができるということは素晴らしいことであり、そして非常に幸運に恵まれていることだと思います。でも一人の母親として何よりも嬉しく思うのは、自分の息子のようにごく普通の子が、ごく普通に育って、ごく普通の生活をして、それでもなおプロフットボールという、誰しもが望みを達成できるわけではない難しい世界に足を踏み入れることができたことです。

ただ、フットボールの世界は、まるでジェットコースターのように上に行ったり下に行ったりと変化の激しい世界。現在のロナルディーニョを見るまでもなく、良いときは多くの賛美が贈られ、悪いときはとてつもない批判が浴びせられる。そういう厳しい世界に生きる息子を持つ母親は大変苦労が多いと思うが?

息子にしても私たち両親にしても常に原点を忘れないこと、そのためにはいつも地に足をつけた生き方をすることだと思います。頂点に立ったときには喜びも多いでしょうが、常に冷静に現実を直視すること。それは、思うように結果がでない時にも同じようにおこなわなければならないことだと思います。

冷静と言えば、あなたの息子さんはまだ17歳だというのに、これだけ多くのメディアに注目を浴び、カメラの前に登場する場面でも非常に落ち着いた感じを受けますが、それは彼のキャラクターなのでしょうか?

自然のままでいること。まだ短い人生ではあるけれど、彼の態度は常にそういう感じです。テレビのインタビューに応えている彼は、家の居間でくつろいでいる彼とまったく同じです。母親の私が言うのだから間違いないでしょう(笑)。そして同時に、彼の自然な態度そのものが、私たち夫婦が自然に生きている日常生活そのものをあらわしてくれていると思います。

それでも内部ではプレッシャーを感じているでしょう?

彼の言葉を借りれば、プレッシャーがあればあるほど、そしてスタジアムに人が多ければ多いほど、自然とモチベーションが沸いてくるそうです。そういうところは母親の私とは正反対の性格をしているようです(笑)。確かに、彼が小さい頃からほとんどの試合を観戦していますが、劇的な逆転ゴールとか、試合終了間際のゴールを何回も決めているのを見ています。それを見ている私の方は、緊張感でいつも手に汗にぎっていますが(笑)。

学生であると同時にフットボール選手でもあるという、そのバランスをとるのは時間の問題だけをとってみても大変なことだと思うが?

午前中は練習、午後は学校という生活リズムですが、本人はけっこう気に入っているようです。ただ、バルサAチームに入ってからは時間的に他の学生の半分しか授業にでられないので、彼らの1年分の課程を2年間かけて終了することになっています。学校を離れた日常生活では普通の学生と同じように、空いた時間を利用して勉強しているようです。例えば、試合前日のホテル合宿や、フエラの試合での移動の時間、ホテルに缶詰になる時間が非常に長いですから、その時間を利用して勉強しています。勉強を済ませたあとに試合にのぞむと、頭がスッキリしていいと当人が言っていました。

インタビューの最後に、3、4年後のボージャンに望むものは?

バルサAチームでプレーするようになってから、彼を取り囲む環境はそれまでのものとは比べもににならないほど賑やかになっています。それでも彼は、母親の私が言うのもなんですが、以前と変わらず素直に、そして自然に生きています。時間さえあれば我々の田舎であるリニョーラに顔を出し、昔からの友人たちと親交を暖めていますし、周りの環境がどうであれ彼自身は何も変わっていないようです。数年後も今と同じようなボージャンでいること、そしてなによりもあらゆる意味で健康であること、私が望むのはこれだけです。


メッシーになりたい!
(08/01/17)

ジュリーの偉大さが、彼がいなくなってから緩やかな上昇カーブとはいえ、徐々に認識されつつある。メッシー不在のいま、彼の代わりに右サイドデランテロを務めるのがジョバニ優先となっていることからも明らかだ。イニエスタは二つのポジションを同時に務めるほどスーパーマンではないし、ボージャンは右サイドの選手はなく、また、右方向に進む傾向が強いアンリを起用したとしたら、ラインを越えて観客席に向かってしまうだろう。したがって、ジョバニにとっても自然なポジションとは言えないものの、ライカーチームを構成している選手を秤にかけると彼となってしまうようだ。もし、ババンジーダというかつてのカンテラ選手がこの時代にバルサBでプレーしていたら、あるいはサンタマリアがいたとしたら、彼らもまた起用されていたかも知れない。それほど、右サイドの選手が不在していることになる。

そのジョバニが目標とする選手はメッシーだといつかのインタビューで語っていた。目標を持つことは良いとして、残念ながら彼はメッシーにはなれない。サンチアゴ・コンポステーラへの巡礼を50回繰り返そうが、伊勢神宮参拝を100回おこなおうが、ジョバニはメッシーにはなれない。左サイドのジュリーとなれば理想的だろうが、ポジション的に空きがないのであれば右サイドのジュリーを目指すしかない。足下へのボールを要求する選手ではなく、空いたスペースでいきいきとしたプレーを試みるタイプの選手へと成長するのが理想的だ。

バルセロニスタの間で異常人気となっているボージャンに比べれば、ジョバニは普通人気と言える。あの“スター気取り風”に見える仕草もマイナス面となってしまう。だが、問題は、クラブ関係者にもあまり良い印象を持たれていないことだろう。

バルサインフェリオールカテゴリーでプレーしているとき、父親とその取り巻き連中が必ずと言っていいほど観客席に陣取っていた。実際に会話してみるとそうでもないものの、単に外見だけで判断するとあまり雰囲気の良い連中ではなかった。いかにも“隣に住む若夫婦”という感じで夫婦そろって和気あいあいと観戦していたボージャン両親と比べると、まったくもって損なイメージを受ける連中だった。その損な連中が、ジョバニの年俸大幅引き上げ交渉でクラブともめているらしい。クラックなみの年俸を要求するジョバニ側と、Aチームに上がってきたばかりの選手としてのごく常識的な年俸オファーをだすクラブ側。そこへ来て、レアル・マドリも含め、イングランドのありとあらゆるクラブに“ジョバニ商品買いませんか?”というセールスをおこなっていると言われる選手代理人。良い噂を聞かないこの代理人と共に、ジョバニ周辺もまた良い噂が流れない。

第二のババンジーダやサンタマリアになる可能性も捨てきれない選手でありながら、第二のメッシーになれるかも知れないと誤解評価するクラブがあらわれるかも知れないまだ18歳の選手。クラブとしては、今年の夏こそまさに売り時だと考えてもおかしくないし、もう1年様子をみようという判断をしても不思議ではない。ジョバニがバルサでやっていけるかどうか、それはひたすらオラゲールなみの学習能力があるかどうかにかかっている。何と言っても、彼のあとには間違いなくバルサAチーム入りしてくるであろう、ガイという大物選手がいる。しかも、ボージャンと同じようにファンに好かれるタイプの選手。果たしてジョバニの将来はいかに?


ペドロ・ロドリゲス
(08/01/15)

“新加入選手が多い中で数少ない居残り組に入るペドロ。バルサBに上がることはあっても、Aチームにまではたどり着かない選手だろうが、ロホ監督からの信頼は厚いようだ。”
と、ラ・マシアのHPで2006年9月にこのように紹介したペドロ・ロドリゲス。予想は見事に外れ、ライカーバルサの一員としてムルシア戦でデビュー、メデタシ、メデタシ。`だが、彼の名はペドロであり、ペドリートではない。

昨シーズン、彼の同僚としてペドロ・ガルシアという選手が加わってきた。結果的にはわずか半年しかバルサに在籍しなかった選手だが、ペドロという選手が二人になってしまったため、若手の方のペドロ君がペドリートと呼ばれることになった。ポルトガル語圏でロナルドという名の若い人をロナルディーニョと呼ぶのと同じことだ。したがって、新人ながら22歳のペドロ・ガルシアはペドロ、前からいるものの若いペドロ・ロドリゲスのがペドリート、まあ、自然の成り行きと言えばそうなる。そして今シーズン、22歳ペドロ・ガルシアはすでにクラブを離れ、バルサBにはペドロと呼ばれる選手は彼一人しかいなくなり、ペドロ・ロドリゲスをペドリートなどと呼ぶ必要はなくなった。バルサオフィシャルページでのバルサB登録選手紹介でも、ペドロ・ロドリゲスとなっている。だが、気の利かないクラブ関係者は、ペドリートとしてカンプノウデビューを飾らせてしまった。
“エトーに代わってペドリート”
こういう選手交代を発表するアナウンスが流れると同時に、カンプノウ6万観衆の“一部の人々”から大きな笑い声が上がる。そして彼が最初にボールを触った瞬間、再び笑い声と共にからかい気味の拍手が送られた。翌日の、とあるバルサファンブロッグで、この風景を恥ずかしく思ったという人々が多くいたから、あくまでも“一部の人々”としておこう。

コメディドラマでのまぬけ役となるとペドリートという名が多いからか、ハイジの友達のペドロをを想像してしまうからか、いずれにしてもペドリートという名はスペイン人の笑いを誘うようだ。もし、ペドロというこの選手を知っていれば別だったのだろうが、カンプノウ6万観衆の9割以上の人々は彼の存在を知らなかっただろうし、突然出場してきたコメディアンみたいな名をした選手に対し、あのような反応をしてしまったのだろう。ペドリートではなくペドロとして紹介されていれば、また話は別だったかも知れない。

ペドロの登録名を調べるためにバルサオフィシャルページに行ったついでに、日本語ページを拝見。ムルシア戦後の選手のコメントというところで、ボージャンが次のように語っている。
「今日の右サイドは、3トップの中でも僕が好きなポジションだ。」
まさか、そんな。これまで彼を4、5年見続けてきて、右サイドに入っているボージャンにはお目にかかったことがないし、このムルシア戦でも窮屈そうにプレーしていた。彼の最も自然なポジションは当然ながら9番だが、左サイドの選手としても良いところを見せている。カステジャーノページに戻り、果たして彼は何と言ったのかを探索。
“En las tres posiciones de ataque me encuentro muy a gusto”
つまり、デランテロのポジションならどこでもかまわない、と言ったに過ぎず、右という単語も出てこなければ、サイドという単語もでてこない。これを日本語ページにあるような訳としてしまうのは、誤訳というより勝手に作り上げてしまった発言と言える。

ムルシア戦4−0の勝利。どんな素晴らしい試合を展開しようが12月23日の傷口はふさがらない。セビージャ戦に勝利しようが傷口はふさがらない。10連勝ぐらいの快進撃を見せて初めて痛みが和らぐことになるだろうが、それでも傷口はふさがらない。

まるでチャンピオンズの試合を戦うかのように、国王杯セビージャ戦前日にからホテル合宿するライカーバルサ。シーズン開幕当初からこういうやる気のある姿勢を見せていてくれたなら・・・。

セビージャ戦招集選手
バルデス、オイエル、サンブロッタ、プジョー、ミリート、トゥラン、アビダル、シルビーニョ、マルケス、チャビ、イニエスタ、デコ、グジョンセン、ジョバニ、アンリ、ボージャンの16人(国王杯はベンチ内5人まで)。


オオカミと少年、そして時代の要請
(08/01/13)

選手の“負傷”に関して、クラブ内の関係者やメディアがこれほど騒ぎまくったことがあっただろうか。負傷は本当のことであり疑いの余地はなしと主張する人々と、それに疑問符を投げかける人々。
「ロナルディーニョとデコの負傷に関して疑いの目を持つ選手は、この場で手を挙げて欲しい。」
セビージャ戦当日の昼食の場で、選手たちを前にそう語ったフラン・ライカー監督。もちろん、手を挙げた選手は誰一人としていなかったという。だが、監督自ら選手を前にしてこう語るということは、彼らの“負傷”そのものに疑いの目を持っている選手がいたということだろう。そしてライカーはムルシア戦前日にも、記者会見をとおしてバルセロニスタに訴えている。
「彼らは負傷しているからこそ試合招集されていないわけで、負傷を疑うようなことはしないで欲しい。クラブを取り巻くすべての人々の団結が必要な今こそ、我々を信じて欲しい。」
まったくもって、異常な事態。“負傷”した当人たちが一度として口を開かず、ドクター連中や監督が“負傷”を正当化しようと必死になっている醜い風景。この人たちはたぶんイソップ童話の“オオカミと少年”を読む機会がなかったのだろう。

去年の4月、eleconomista.es という経済問題を扱うウエッブページが、フットボール選手の2006年年俸ランキングを発表している。1位はついにベッカムを抜いてロナルディーニョとなり2400万ユーロの年収。バルサからの年俸が850万ユーロ、ボーナスが500万ユーロ、そしてスポンサー関係(食料品、自動車、運動服、ビデオゲームなど)からの年収が1500万ユーロ。つまりフットボール選手としてグランドで稼いでいる年収は、そこを離れたところでの約三分の一となっている。バルサに、そしてバルセロニスタに大いに貢献してくれた彼だが、彼もまたバルサというクラブの選手になったことで、大いなる利益を手に入れることに成功している。他人事ながら、それはそれで喜ばしいことと思うと同時に、果たしてフットボール選手として稼ぐユーロより、そこを離れたところで稼ぐユーロが多くなった選手が、モチベーションというものを持ち続けることができるのかどうか、そこらへんを知りたいもんだ。

“負傷”が原因でムルシア戦にも次のセビージャ戦にも招集されないR10。ムルシア戦が1月12日、セビージャ戦が15日。そして彼はこの両日ともそれぞれ違うスポンサーとのプロモーション活動が予定されている。モナコでおこなわれたセビージャ相手のスーペル・コパの当日にプロモーション活動をしていたことで問題となったのは記憶に新しいが、リーグ戦・国王杯戦当日にもそのような活動予定が入っていることをクラブは知っていたのだろうか。ライカー監督はそのことを知っていたのだろうか。プロ選手としての契約をまっとうしている選手たちは、その試合当日に“負傷”中の同僚がそんなことをやっていると知ったら、どう思うのだろうか。

もし、クラブがそのことを知らなかったのであれば、それは彼らの怠慢だし、知っていて許したのであれば、ソシオ代表としての任務を果たしていない無責任な連中ということになる。もし、ライカー監督が前もって許可を与えたのであれば、それは八方美人監督を通り越して十六方美人監督となる。だが、グループ内でのこういう無規律さは、ライカーバルサにとってこれが初めてのことでもない。それは多くのバルセロニスタが知っている。

だから、モウリーニョに人気が集まる。クライフバルサ末期のメチャクチャな戦い方に嫌気がさし、戦術的にも戦力的にもしっかりとした監督を望んだからこそ、ロブソン入団が決まったときには多くのバルセロニスタは両手を広げ歓迎した。ロブソンの守備的なフットボールに嫌気がさしたからこそ、オランダ人監督バンガールに大いなる期待を抱いたバルセロニスタ。あまりにも窮屈で軍隊チームのような雰囲気に嫌気を感じたバルセロニスタは、自由を大切にするセラ・フェレールの監督就任に拍手を送った。時代の要請(それは、もちろんフットボール的に成功することは約束しない)に基づけば、来シーズンは内部をしっかりと厳しくコントロールするタイプの監督となる。だから、モウリーニョ、さあ、ライライ。


辞めたソシオ7千人
(08/01/12)

毎年この時期になると、いつもの銀行にソシオカードが送られてくる。なにゆえ自宅に直接送ってこないのか、そこらへんが不思議なところだが、ソシオ年間費の引き落としをしている銀行にどういうわけか送られてくる。

ソシオ番号は毎年変わる。3000番ぐらい数字が少なくなることもあるし、今年のように1500番ぐらい若くなる年もある。もちろんその理由は、ソシオを脱会する人々が毎年いるからだ。最近ソシオになった知り合いのソシオ番号が14万だったか15万だったか忘れたが、その人の番号が今回は7000番ぐらい若くなっていると言うから、昨年から今年にかけて、少なくとも7000人がソシオを脱会したことになる。自分の場合が1500番ぐらい、知り合いの場合が7000、するってえと、ここ最近入会したソシオの人々の脱会が多いことになる。まるで明智探偵のような素晴らしい推理。

ソシオになるかならないか、あるいはソシオを脱会するかしないか、そういうことはまったくもって個人的な問題。バルサというクラブを愛するが故に、その証としてソシオになるという立派な人もいれば、単にソシオカードを他人に見せびらかしたいというお茶目な発想をもっている人もいるかも知れない。毎試合チケットを買うために並ぶのが面倒くさいという理由だけでソシオになった我らグ〜タラ組もいるし、パリの決勝戦の前売りチケットをゲットするためにインスタントソシオになった友人もいるし、まあ、理由は人それぞれで、どうでも良いのだ。個人的には、ソシオであることに特別な思い入れはないし、その必要がなくなったらその瞬間に辞めてやろうと思っている。

だが、特にソシオ番号が若い人々はなかなかソシオを辞めない。つまり、もう何十年もソシオをやっているベテラン組は余程のことがない限り、ソシオを辞めないようだ。個人的に想像するに、我らがグ〜タラ組などと比べると、ソシオであるということに対する思い入れがまったく違うのだろう。かつての難しい時代を生きてきた人々には特別に意味のあることであるかも知れないし、そういう政治的なことを抜きにしても、すでに人生の一部となっている人々も多いかも知れない。したがって、彼らがソシオを辞めるときはこの世からおさらばするとき以外にはないようだ。そしてそういう多くの人々が持つ夢は、かつての己の体の一部となっていたものをカンプノウにまいて欲しいということだと言う。だが、これは技術的になかなか難しいことなのだ。誰しもがグランドのそばに席をもっているわけではなく、多くの人々はフェンスから離れた2階とか3階席に陣取っているから、自分の場所から灰をまき散らしてもグランドには届かない。その問題を一挙に解決してくれたのが、クラブ内各施設やベンチにまで近寄ることができる“カンプノウツアー”という企画だった。

このツアーに参加し、グラウンドに案内されたときに、すました顔でサラッと灰をまき散らす。これをやった人がとてつもなく多かったらしい。そう、祖父母や両親の最後の頼みを実行するために、このツアーを利用した人が多かったらしい。だが、それは“多かった”という過去形で書かれているように、今では不可能なこととなってしまった。ツアー内容が変更され、グランドの中に入れなくなってしまったからだ。なにゆえ変更されたのか、それはあまりにも多くの灰がまかれたためライン際の芝がいかれてしまったからだという。“敵”も見てみないふりをしてきたものの、もう限界に達したということらしい。

こういう神をも恐れぬ不届きなことは、とぼけた顔して早めにやったものの勝ちだ!
とは言うものの、遅れてやって来た者の中にも知恵者がいるもので、グランドに近寄れないのなら空から攻撃とばかり、ヘリコプターをチャーターしてカンプノウ上空を飛び両親の最後の頼みを実行したという、たまげるほどスケールのでかい親孝行息子がいたらしい。う〜ん、A案がダメならB案、それもダメならC案、やり方はいろいろあるものだ、と、ライカーも学ぶべし!


クライフ、バルサ、そして改革(下)
(08/01/10)

ヨハン・クライフが目指したバルサフットボールの革新を理解することは、決してやさしい作業とは言えない時代だった。とてつもなく個性的で魅力あふれるフットボールでありながら、ファンの望む勝利とタイトル獲得につながらない状況をどのように理解していいのか、ファンはもちろんのこと、その答えを出し得るメディアも非常に少なかった。1980年代後半、あるいは1990年前半、スペインではファンの間ではもちろんのこと、メディアの間でもいわゆる“フットボール理論”は存在していなかった。フットボールのシステムやテクニック、あるいは監督の持つフィロソフィーに関する議論が生まれてくるのは、クライフが創造した“ドリームチーム”やアリゴ・サッキが作り上げた“グランデ・ミラン”誕生以降のこととなる。いまここで触れられている時代は1990年4月、まだファンやメディアの間では目に見える“結果”のみが、議題の中心となる時代だった。

だが、それでもクライフが試みた革新は着実に実現化しつつあった。ヨーロッパフットボールの世界では、アリゴ・サッキ・ミランの全盛期でもあったこの時代、彼はまったく似ても似つかないスタイルで戦おうとしていた。例えば、ミランは二人のセントラルを守るかのようにデフェンサ最後の砦となるリベロを配置し、左右にはラインに沿って行ったり来たりするカリレロがいる、いわゆる5−3−2というシステムだった。それに対し、クライフのアイデアの基本となるのは3−4−3というシステムだった。そしてこのシステムが生きるか死ぬか、その鍵を握ることになるのが、左右に大きく開いたエストレーモという存在となる。

クライフシステムにおけるエストレーモの役目ははっきりしていた。スペースを獲得すること。相手デフェンサにゴール前にあいたスペースを作らせること。そのためにはラインを踏むような形で左右に大きく開いた形でエストレーモ選手を配置し、デフェンサ間のスペースを可能な限り広くさせること、このことのみが彼らの役目だった。彼らの位置するところから相手ゴールに向かって20メートルが勝負のスペースであり、エストレーモ選手に守備の任務は与えられていない。もし、エストレーモというポジションを得意とする選手がいなかったとしたら、スピードがあり、パス能力とゴールの嗅覚に少しでも優れている選手があてがわれることになる。ムンディアルの得点王リネッカーやサリーナスが9番としてではなく、エストレーモ選手として働かされることになった。ファンやメディアからの多くの批判がありながらも、クライフにとっては当然の起用法となっていた。

「デフェンサを一人削り、そのぶんセントロカンピスタ、あるいはデランテロにあてれば、より攻撃的な試合展開が可能となる。」
単純にして明快なクライフの発想。一人のセントラル選手、左右のラテラル選手という、わずか三人のデフェンサ。だが、それでもセントラルの前に守備的なピボッテを配置すれば、攻められている状況では事実上二人のセントラルが存在することになる。だが、クライフがアイデアするピボッテは、決して守備的能力を持ったタイプの選手ではなく、ボールを供給する能力と流れを読み取ることのできる創造的な選手でなければならなかった。最初に選ばれたのがルイス・ミージャであり、彼のあとにはペップ・グアルディオラがこのポジションについた。このペップは足が速いわけでもなく、ジャンプ能力に富んでいるわけでもなく、フィジカル的に強いわけでもなかった。だが、瞬時の判断能力と、ボール配分の天才的な能力は誰にも負けないものを持っていた。

あらゆる意味で常識を打ち破るかのようなアイデアが具体化してくる。フェレール、フアン・カルロスという左右のラテラル選手は170cmにも満たない小柄な選手だった。2年後に登場してくるセルジにしても、彼らと同じようにまた小柄な選手だった。彼らに共通するもの、それはスピードがあることと、相手選手をマークすることの絶妙な才だった。ポルテロの前に一人立つクーマンにしても長身ではない。しかもスピードがあるというよりも、まったくないと言った方が正しい。ポジショニングの的確さとリーダーシップに優れ、デフェンサの最後の要となる彼もまた、クライフシステムの中にあって重要な存在となる。ユベントスの控え選手となっていたラウドゥルップを、東側の国で活躍していたものの、多くのバルセロニスタには名も知られていなかったウリスト・ストイチコフを獲得していく過程で、徐々にクライフの理想とするチームが形勢されていくことになるが、この1990年4月の段階では“ドリームチーム”は卵にしか過ぎなかった。もし、この国王杯の決勝戦に敗北することがあるようなら、その卵は時期を早くしてつぶされることになり、そして新たなスタイルを形成しようとする監督がバルサにやって来ることになっていた。ルイス・メノッティ監督の再現だ。

だが、メノッティのバルサ復帰案は消えてしまった。レアル・マドリ相手の決勝戦でクライフバルサは2−0で勝利し、国王杯を手に入れた。と同時に、クライフは監督延長契約も自動的に手に入れることになる。それは、ヌニェス政権にとって、クライフバルサにとって、バルセロニスタにとって、そしてもちろんバルサにとって、クラブ史上最高の時期を迎えることを可能とした。レアル・マドリはこのシーズンにはリーグ優勝を獲得するものの、その後4シーズンにも渡ってリーグ優勝の座をバルサに譲ることになる。4シーズン連続リーグ優勝とクラブ史上初のコパ・デ・ヨーロッパの制覇。そして、クライフバルサが残したものは、勝利とタイトルというファンが単純に喜ぶ“結果”だけではなかった。

守備的なフットボールを試みるチームのみがタイトルを獲得できるという大方の発想に対し、攻撃的な、それもフットボール史上希に見る攻撃的なスタイルでのフットボールでも、頂点に立つことが可能であることを証明した。その魅力的なフットボールを楽しむのは、バルセロニスタだけではなく、クラブファンとは無関係の人々にも同時に喜びを与えることに成功している。そしてそのフットボールスタイルが多くの人々にとって、バルサというクラブのチームカラーとして頭の中に残り始めることになる。

1960年から1990年までの間に2回しかリーグ制覇していなかったバルサ。そのバルサが1990年から17年目を迎える現在まで、2回のチャンピオンズ、8回のリーグ優勝を飾っている。このタイトルを獲得することに貢献した監督はすべてオランダ人であり、彼らの持つ独特のフィロソフィーがバルサの成功を可能としたのだろう。そして1990年4月5日の、多くのバルセロニスタに忘れられつつある国王杯決勝戦での勝利こそが、現在のバルサのチームカラーを誕生させたのだ。
“魅力的な戦いを展開し、そして勝利すること!”

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クライフ、バルサ、そして改革(上)
(08/01/09)

“魅力的な戦いを展開し、そして勝利すること!”
バルサというチームの持つ魅力を簡潔に表現すると、この一言に尽きるかも知れない。時代の流れの中で歴史に名を残していく“時の”クラブ会長に関係なく、やはり時代の流れの中で就任してくる“時の”監督にも関係なく、クラブのチームカラー、あるいはフィロソフィーが“歴史的”にそのことを要求してきた。だが、多くのバルセロニスタが誤解していることがある。この“歴史的”といった場合の歴史とは、決して100年以上のクラブ史総体を示すのではなく、ここ20年前後の近代史を指す。そしてこの近代史のスタートとなるバルサ監督は、もちろんヨハン・クライフとなる。昨年の暮れ、マルカ紙に掲載されていたサンティアゴ・セグロラ氏の長編コラムをそれらしい日本語にしてみよう。

ヨハン・クライフが作り上げた輝かしき“ドリームチーム”の過程で、歴史的な試合であったにもかかわらず、人々の記憶の中から消え去ってしまうものがある。1990年4月5日、危機感にあふれるクライフバルサがレアル・マドリ相手に国王杯の決勝戦を戦っている。当時を生きた人々の間でも、忘却の彼方に押しやられてしまっている試合でありながら、だが、この日こそ“ドリームチーム”が歴史の一ページの中に生き続けることを可能とした日だった。

1989−90シーズン、クライフにとってバルサとの2年契約が終わるシーズンとなっていた。監督続投という可能性は、クライフ監督就任2年目にして、すでに大いなる危機を迎えている。それは、この国王杯決勝戦の前に、当時会長ヌニェスが何回もルイス・メノッティと交渉に入っていることを見ても明らかだった。このシーズン、イタリアワールドカップに参加するスペイン代表チームが可能な限りの準備期間がとれるように、試合スケジュールは息次ぐ間もないほど詰まっている。1990年4月、リーガは最終段階に入った。そしてこの時期、クライフバルサは大いなる危機状況を迎えていた。レアル・マドリの5シーズン連続リーグ優勝も目の前にきており、バルサにはリーグ優勝の可能性はすでに失せていた。レアル・マドリのデランテロであるウゴ・サンチェスはほぼ一試合に1ゴールという恐るべき数字を残そうとしていたし、勝利数、ポイント数、そして獲得ゴール数、すべての数字が記録書に残るようなダントツのリーグ優勝目前という状況だった。その後“キンタ・デ・ブイトレ”と呼ばれることになる、レアル・マドリの最盛期でもあった。

それに比べ、バルサはまったくもって低調な時期を迎えていた。1960年から数えれば、リーグ優勝を遂げたのはわずか2回しかないクラブでもある。クライフが選手としてバルサにやって来た1973−74シーズン、そしてテリー・ベナブレスが監督を務めた1984−85シーズン、この1990年までに至る30年間で、リーグ優勝のカップを手にしたのはわずか2回だけ。この30年間だけを見てみれば、At.マドリがリーグ優勝した回数はバルサを上回っているし、ビルバオやレアル・ソシエダにしてもバルサと同じ回数の優勝カップを手にしていた。

クライフ、マラドーナ、シュステル、リネッカーなどというクラック選手に加え、監督にはエレニオ・エレーラ、リヌス・ミッチェル、ルイス・メノッティ、テリー・ベナブレスなどという名将を擁しながら、チームがうまく機能する継続性に恵まれず、成功は常に断片的なものでしかないという否定的な歴史を作り上げていた。クラブそのもののアイデンティティーに欠けていたが故に、常に方向性が定まらないクラブと断言しても不思議ではなかった。クラブ理事会に対抗する野党陣営や、その影響を受けたいくつかのメディア、そして結果のでないチームに対して怒りの声をあげると共に、あきらめの気持ちを持ち続けるバルセロニスタ。チームに襲いかかる多くのプレッシャーは、決して良い方向に向けての助けにならず、何十年と続いている負け犬根性、あるいは犠牲者意識がクラブを包み込んでいた30年間でもある。

1980年代、あるいは90年代の最初、カンプノウに集まるバルセロニスタの数が3万人前後というのは、多くの試合で見かけられる風景だった。あのフットボールの殿堂と呼ばれたカンプノウは、試合ごとにすきま風が吹いていくかのようだった。そのような日常的といってもいい状況を徐々に変える原点となった1990年4月5日。

1988年、ヨハン・クライフはバルサの監督として就任してきた。そのクラブの長い歴史の中にあっても、限りなく大きく、そして深刻な危機感がクラブを覆っていた時期での監督就任だった。この2年前、つまり1986年、この年に戦われたコパ・デ・ヨーロッパ決勝戦での敗北がクラブに大打撃を与え、そしてその傷は時間の経過と共に癒されるどころか、さらに悪質なものへと変化していた。多くの選手たちがヌニェス政権退陣を要求する、いわゆる“エスペリアの反乱”事件が起き、そしてソシオたちといえばヌニェス派と反ヌニェス派に見事に分裂してしまうという最悪の状況だった。

クライフ獲得はヌニェス政権に残された唯一の延命作戦だったのだろう。選手として5年間バルサに在籍しながら、2つのタイトルしか獲得していないクライフであり、クラブを去るときは、ソシオやメディアから大いなる批判を浴びせられた彼でありながら、ベルナベウクラシコでの0−5という歴史的大勝利が、ソシオ間で“クライフ神話説”を作り上げていた。暗いニュースばかりで埋め尽くされていた各メディア紙に、そしてドラマチックな変革を望んでいたソシオに、なにがしかの希望を与えてくれる人物、それはクライフしかいなかった。ヌニェスはそのことを誰よりも知っていた。

だが、何と言ってもレアル・マドリ“キンタ・デ・ブイトレ”の全盛期だ。マドリカンテラ組織から上がってきたブートラゲーニョ、ミッチェル、サンチスなどに加え、メキシコ人クラック選手ウゴ・サンチェスがゴールを決めまくっている時期だった。クライフバルサ1年目、レコパ(カップ・ウイナーズ・カップ)を征するものの、リーグ優勝の希望は早くから消えてしまうシーズンとなった。それは2年目も同じで、シーズン折り返し地点を過ぎたあたりで、早くも可能性が少ないものとなっていた。結果の出せないクライフバルサに対し、クラブ首脳陣だけではなく多くのバルセロニスタも不満を抱き始めていく。ほとんどの試合で、デフェンサは3人しかいない。白線を踏むような位置にエストレーモが左右に配置されている。デランテロセントロはいるのかいないのかさえファンにはわからないようなシステムだった。時たま見せる非常に魅力的なフットボールが展開されても、ファンの望む結果がついてこない。フラストレーションがたまっていくバルセロニスタ。


レージェス・マゴス(東方の三賢王)
(08/01/07)

1月5日、東方の三賢王(バルタサール王、メンチョン王、そしてガスパー王!)がスペイン各地にやって来て行進をおこない、これでやっとスペインではクリスマスが終了する。言ってみれば、サンタクロースが三人まとめてやって来て、子供たちにプレゼントをあげるようなもので、恵まれた家庭に育っている子供たちは、6日の朝に目覚めると、多くのプレゼントがベッドの周りに置かれているのを発見することになる。さて、この日やって来た東方の三賢王がバルセロニスタの子供だけでなく、大人のバルセロニスタにもプレゼントしてくれた贈り物は・・・それは勝利の3ポイント、試合内容はアクビがでるほど渋いものながら、どうしても欲しい3ポイントをプレゼントしてくれた。

この勝利を翌日のパンフレット紙は“エトー発言の勝利”だとか、“エトー精神の勝利”あるいは“ライカーの敗北”などとうたっている。いかに大型バーゲン期間がスタートしたばかりで浮かれてしまっているとは言え、このバカさ加減、どうにかならぬものか。

試合前日のエトー発言を適切にまとめると次のような内容となる。
「勝利すること、それが一番大事なこと。そのためには、一人の例外もなく全員が汗をかき、力が尽きるまで走り回り、負傷を恐れず足を突っ込み、全員が勝利を信じて戦うこと。」
この発言内容がメインであったにもかかわらず、やれ、ワンタッチフットボールはダメだとか、スペクタクルなフットボールなんてどうでもいいとか、試合内容なんかどうでも良く、とにかく勝つことという様に曲解されてしまった。そして試合の翌日、試合内容がお粗末であったにもかかわらず、勝利することができたマジョルカ戦をもって、“エトーの勝利”などと的外れなタイトルを紙面に掲げてしまう。だが、現実的には、エトーの希望する試合内容とはほど遠いものだったはずだ。

汗をかいたり、常に走り回ったり、執拗に足を突っ込んだ選手がいたとしたら、それはマルケス、ミリートを中心とするデフェンサの選手だけだろう。エトーやグジョンセン、あるいはイニエスタにしても大した汗はかいていなかっただろうし、足も突っ込まなければ走りもしないジョバニやチャビは問題外。したがって“エトー精神”などとはまったく関係ないところでの勝利だった。クラシコでの敗北理由を、R10だとかデコだけのせいにすることはドラマチックすぎる。
クラシコ?
おっといけない、また偏頭痛と不整脈に襲われてきた。

マジョルカ戦に負けなかったのは、ひたすらデフェンサ陣が頑張ったからであり、勝利できたのはレージェス・マゴスがプレゼントしてくれたから。まだ何にも変わっちゃあいないライカーバルサだし、そんな簡単に信頼度が回復するわけがない。まだまだ神頼みが必要だ。


激動の1月
(08/01/05)

今月は週2回の試合が予定されている。週末にはリーグ戦、週中には国王杯というスケジュールでバルサは9試合を戦う。もっとも、来週と再来週の週中で戦われる国王杯1/8に勝ち抜けばの話であり、不幸にも敗退という結果にでもなれば、7試合だけですむ。いずれにしてもこみいったスケジュールとなっている1月なので、幸か不幸かわからないものの、監督を代えている暇などないバルサだ。

16チームが勝ち抜いてきている国王杯。その16チームすべてが一部リーグ所属のチームというのが凄い。バルサ、ヘタフェ、ビジャレアル、レクレ、バジャドリ、セビージャ、At.マドリ、ベティス、サンタンデール、マジョルカ、エスパニョール、バレンシア、ビルバオ、レバンテ、サラゴサ、マドリ、この16チーム。そして、まだ16チームも残っている段階ですべてのチームが一部リーグ所属というのは珍しいことではないかと思っていたら、やはり40年ぶりの出来事らしい。

1月14日金曜日12時抽選。シードなしの総当たり抽選。したがってバルサ・マドリという対戦も可能となった抽選だ。そして抽選の結果、相手はセビージャとなった。楽観的発想でいけば、年内最後の試合の“落とし前”をつけるのは先の楽しみとなったということになるし、悲観的発想でいけば、返り討ちにあうこともだいぶ先のことか、あるいはその可能性もなくなったことになる。

大会が始まる14日前には、それぞれの代表に合流しなければならないというFIFAの規約を守ろうとすれば、バルサにはすでにエトーとヤヤがいないはずで、カノウテ、ケイタ、コネがいないセビージャということになる。だが、どうやらエトーは代表合流を1週間延ばすことに成功したようで、フエラでのセビージャ戦には出場できることになるらしい。そして、もしバルサがこの試合に勝ち抜けたとすると、準々決勝はレクレとビジャレアルの勝者を相手の試合となる。ラッキーなのは、両試合とも地元での試合が2試合目となることだろう。とにもかくにも激動の1月。今週末のマジョルカ戦に勝利できなかったり、セビージャ相手の試合で勝ち抜けないような状況がやって来たとしたら、それこそバルセロナは、どでかい津波が襲ったような騒ぎとなることは間違いない。まさに激動の1月がやって来た。クラシコでの敗北以来、何も明るい材料が見つからないバルサだから、今はお祈りあるのみ。ひたすら、ひたすら、神頼み。

マジョルカ相手の神頼みチーム招集メンバー。
バルデス、オイエル、プジョー、ミリート、トゥラン、マルケス、アビダル、サンブロッタ、ヤヤ、エドゥミルソン、チャビ、デコ、グジョンセン、イニエスタ、ジョバニ、アンリ、エトー、そしてボージャンの18人。


未完の大器オイエル・オラサバル
(08/01/04)

このオイエルという、18歳の若きポルテロがなにゆえバルサに入団してきたのか、その理由を理解するのは非常に困難な作業だ。リーグ戦折り返し地点を通過したばかりのペップバルサは、24失点とリーグ2位に位置するチームとしては非常に失点数が多い。その失点数の多さをポルテロだけのせいにすることはできないものの、“普通”のポルテロが“普通”にファインセーブを何試合かに1回か2回やるように、もし彼もまたそういうファインセーブを“普通”にしていれば、四分の一、あるいは五分の一程度のの失点を防ぐことができただろうと思う。ミニエスタディの試合をこの目で、フエラの試合をテレビでほぼ全試合見てきて、多くのミスだけは目立ったものの、ファインセーブというのをまだ1回も見せてくれていないポルテロというのも珍しい存在だ。

オイエル・オラサバル、その苗字からしてすぐにバスク人とわかるが、イルンというフランス国境に近い街で生まれ育っているからフランス語もいけるらしく、トゥランとはフランス語で会話しているという。彼の代理人はやはりバスク人のビセンテ・ビウルン。リーガを長いあいだ見ている人には懐かしい名前だろう。80年代後半から90年代にかけてビルバオやエスパニョールのポルテロとして活躍したあのビウルン。その彼が親友の一人であるウンスエに、オイエルという“商品”を紹介し、売り込みに成功することになった。
“まだ磨かれきってはいないものの、とめどもなく光り輝く原石であり、いつの日かスビサレッタ二世誕生として期待される、大いなる将来性を持つ身長190センチの大型ポルテロ。”
売り込みパンフレット紙のコピー内容はこんなものと勝手に想像。まだ光る原石ではあるものの、あまりにも磨かれていなかったため、二部Bカテゴリーに在籍していたレアル・ウニオンというチームでプレーした昨シーズンは、控えポルテロの身だった。

誇大広告商品だったのかも知れないし、まだ磨き方が足りないのかも知れない。何と言っても“未完の大器”なので、ヒット商品だとしても時間がかかる。個人的には、バルサBカテゴリー以下のポルテロではミーニョとかマシップというポルテロが将来性があると思っているが、プロのバルサポルテロコーチたちは、オイエルにかけているようだ。いずれにしても現在の段階で、オイエルはジョルケラの代わりとは間違ってもならない。2008年1月4日現在、ライカーバルサにはビクトル・バルデスという、一人のポルテロしかいないことになる。したがって、冬のメルカードでポルテロだけは補強すべし。

国王杯アルコヤノ戦。最も光った選手ビクトル・サンチェスを下げたうえ、その後マーク・クロッサスを右ラテラルに配置する不思議さ。90分間プレーすることになった負傷上がりのプジョーと、やっと後半に入ってから登場してきたバリエンテ、その二人を左右逆に配置する不思議さ。前半後半とも黄色と言わず赤と言わず、とにかくカードをもらうことに奔走していたかのようなデコの行動の不思議さ。スリリングな2008年がスタート。

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さて、2008年
(08/01/03)

果たして、テレビカメラをとおしてのクラシコの試合はどんなもんだったのだろうか、という興味はいまだにあるものの、見る気にならないから一度たりとして見ていない。年末にはいろいろな局で何回も録画中継をやっていたが、とてもとても気分的に見られたものではない。まあ。当然ながら、試合前にR10がやっていたチンタラとした練習風景は写っていないだろうと想像する。クラシコという大事な試合前の練習でありながら、普段以上にああいうチンタラな練習をする根性はただ者ではないし、それを許すスタッフテクニコもただ者ではない。大晦日に徹夜フィエスタをやってグチョングチョンとなり、再び“不可思議な負傷”を理由に国王杯をパスした行為も、やはりただ者ではないことを証明している。

まったくもってファンの期待を裏切ってくれた2007年が終わり、新たな年が到来。だが、根本的には何も変わらないでスタートしているラポルタチキライカーバルサ。したがって、昨年と同じように、いやそれ以上に、今年もまた多くのバルセロニスタには次のようなものが必要とされるであろう。

何はなくともまず強い精神と健康な肉体を持つこと。鉄のように丈夫な心臓を持つと同時に、熱くなった頭を自動的に冷やしていくことを可能とする早期気分転換のテクニックも重要だ。逆境に陥っても決してあきらめることを知らぬ精神と、アッケラカンさがあればさらに良いだろう。もちろんユーモアを忘れてはいけない。もし、1年間にわたって、いや少なくとも今シーズンが終わる残り半年間、暗い気持ちとモヤモヤとした気分で過ごしたくないと思うなら、ユーモアの精神は大事な武器となるであろう。

厳しい2008年。それでも日の出はフラウグラーナ。あらゆる武器を駆使して生き延びろバルセロニスタ!バモス!

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