1月27日



判決が下る日

今日はカンプノウにおいて、ソシオによるバルサ選手に対する判決が下りる日だ。罪状は「真夜中のパーティー」に関するものではない。あくまでもラージョ戦の惨めな敗北に対してのものだ。

マドリッドから伝わってきた「真夜中のパーティー」の噂は、バルセロニスタにとってはそれほど重要な問題ではない。クラブ首脳陣が否定し、選手たちが裁判沙汰を辞さないとまで言っている今、なにゆえ彼らを疑わなければならないのか。そんなことはどうでもいい。バルセロニスタの怒りの原因はそんなことではなく、先週のラージョ戦での敗北にあるのだ。

選手の登場と共に起こるであろう、観客席を埋めたファンからのブーイングが裁判の開廷を知らせる。今日はまずブーイングだ。選手にとって難しい1週間であったのなら、ファンにとっても難しくとも不愉快な1週間であったことを表現する自由はある。そのブーイングに対するバルサの選手の答えは、これまでおこなってきたサラゴサ戦やセビージャ戦でのように良い試合をすることしかない。それしかブーイングに対し、戦う方法はないのだ。

バルサの選手たちにとって、今週は本当に難しい週となてしまった。一昨日レシャックが「マドリッドから伝わってきた噂に関しては、我々としては解決済みの問題となっている」と発言したにも関わらず、昨日あるメディアに登場した新たなきな臭いニュースによって、バルサの選手たちは再び不愉快な思いをさせられることになる。そのメディアとはカタルーニャ紙の一つであるエスポーツ紙だ。彼らが言うには「問題となっている選手に対し、バルサ首脳陣は経済的な制裁を加えた」というものであった。だがレシャックはその噂をキッパリと否定する。
「選手に対する制裁は一切あり得ない」と何回も繰り返して語らなければならなかったレシャックだ。

ここにきてバルサの選手たちは、彼らの敵はマドリッドにあるのではなく、地元のバルセロナにあることを再認識する。「真夜中のパーティー」のニュースをいち早く流したテレマドリのディレクターが、そのニュース源をバルセロナからのものだというのは正しいのかも知れない。彼らはニュース源をカタルーニャテレビのTV3と、エスポーツ紙のジャーナリストからのものと語っている。

レシャックは昨日、再び選手たちを集めて話し合わなければならなかった。彼にとってはもう終わった問題であったはずのテーマを、再び掘り起こさなければならなかった。選手たちとレシャックが到達した結論は次のようなものだった。
「今日の試合に勝利し、この問題をバルセロナから追い払う」
我々バルセロニスタは、今日の彼らをブーイングで迎えるだろう。だが試合が始まったら「クラブがすべてのことに優先する」という本来のバルセロニスタに戻り、チームの勝利に向けて応援しなければならない。

●メンバー予想

ジョルディ「父に監督はさせない!」

「もし父がオランダ代表やどこかのクラブの監督になると言ったら、僕は断固として反対する」とジョルディ。最近おこなわれたオランダの週刊誌「ヨハン」で語っている。

ジョルディは続ける。
「いまだに父の現場復帰を望む人々がいるという。だが彼らは私の父がすでに2回も死にかけたことを忘れているのではないだろうか。もし彼がベンチに戻ったとしたら、クライフ家に続く幸せな年月はよくて2年ぐらいしかないだろう。僕は少なくともまだ彼に20年は生き続けて欲しい」

「僕の心は今でもカタルーニャにある。僕はある意味で言えばカタラン人だし、僕の彼女もカタラン人。そしてカタランの子供をいつか持ちたいと望んでいる。」

父のヨハンがバルサの監督をしていた時にバルサでデビューをかざり、今はアラベスの14番を背負うジョルディ。
「クーマンは僕にとって兄のような存在だった」

当時を振り返るジョルディは、もちろん父が辞任に追い込まれた時のことも忘れてはいない。
「今でも解けない謎がいくつかある。父が辞任になる前後のことだけれど、ガスパーが僕に契約延長の話しで連絡してきて、1分もかからないような感じで合意にたっしたんだ。そしてそれからしばらくして、それはなかったことになったという連絡が入ってきた。それだけじゃない。その後マドリのカページョが家に電話してきて、マドリに来ないかという。もちろん父は反対した。父の意見では、そして僕も同意見だったけれど、彼は『クライフ』という名前の選手が欲しかっただけなんだ」

1996年の夏、ジョルディはマンチェスターに移籍する。
「マンチェスターに向かう飛行機が厚い雲を通り過ぎて工場だらけの街が見渡せた瞬間、はっきり言って僕は思ったね。『くそったれ、これは判断ミスだ』。こんなところに人間が住めるんだろうか、と飛行機が着陸するまでずーと自問自答してしまった」