2月3日

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インテリ戦士・ソリン

ソリンを個人的に知らないライバルの選手たちは、彼の風貌から“ハード”なものは見て取れても、その裏にあるインテリジェンスまでは予想できないだろう。だが彼は、闘志にあふれ妥協を許さないプレーをするフットボール選手であると共に、グランドを離れると一人のインテリジェンスにあふれた若者でもある。

1976年、いわゆる中産階級に属する家庭のもとに生まれたソリンは、パルケというクラブでフットボール幼少時代を過ごしている。アルゼンチン各地方からフットボール選手として将来を夢見る子供たちが集まってくるクラブだ。そして同時にアルヘンティーノス・ジュニアオルスのカンテラ的な組織のクラブでもあった。ソリン、18歳になったとき彼はこのアルヘンティーノス・ジュニアオルス一部でデビューを果たすことになる。1994年のことだ。

彼はジャーナリズムの勉強をしながらアルヘンティーノス・ジュニアオルスで20試合プレーしている。彼のファイトあるプレーに目をつけたアンダー20の監督であったホセ・ペケルマン、彼はカタールでおこなわれたジュニア・ワールドカップでソリンをチームのカピタンとして召集し、アルゼンチン代表を優勝に導いている。そしてその大会で彼の目をつけたのがイタリアのユベントスだった。

リッピー監督率いるユベントスでソリンはわずか5試合しかプレーしていない。まだ若すぎたのだろう。だがフットボール選手としての経験を積むにはいいクラブであった。なぜならチャンピオンズの優勝にも遭遇することができたからだ。だが彼がフットボール選手として爆発するのはこのユベントスではなく、そのあと移籍していくリーベルだった。

リーグ優勝3回、リベルタドーレス優勝1回を獲得するリーベル。奇妙な因縁と言うべきか、トヨタカップではユベントス相手に敗戦しているソリンだ。リーベルではブルゴス、ガジャルド、オルテガ、クレスポ、アルメイダ、そしてフランチェスコリなどが彼の同僚であった。これらの豪華なメンバーの中でソリンは押しも押されぬ存在と成長していく。そして彼の新たな同僚としてサビオラやアイマールという若者が加わってきた。

アルゼンチンの不況問題は、多くのフットボールクラブに多大な打撃を与える。もちろんリーベルというクラブも例外とはならない。また、ブラジルのクルゼイロというクラブにアメリカ資本が介入し多くのスター選手を集めようとしていた時期でもあった。クルゼイロはソリンを買う。リーベルには彼を押しとどめるほどの資金力はもちろんなかった。
「世界最高クラスのラテラル選手を獲得したい。もちろんラテラル選手の宝庫であるアルゼンチン人選手なら最高だ。」
これがソリン獲得を狙ったクルゼイロの監督の言葉だった。

ディフェンス選手としてはすべての必要な要素を持っている。相手選手の前をいく瞬間的なスピードを持ち、当たりに負けることは滅多にない。マンマークをやらせても相手にピタリとくっつき、まるで呼吸さえさせないかのようだ。だが彼の持つスピードはディフェンス面だけに留まらない。左サイドからのスピードある攻撃参加も彼の魅力の一つであり、ゴール前での競り合いでのヘディングの強さも定評がある。そしてグランドの中でのファイトあふれるプレーと共に、インテリジェンスのある選手として知られているソリンである。ガルシア・マルケスやヘルマンの本を好む読書家であり、アルゼンチンの経済情勢、社会情勢を誰よりも公に鋭く批判してきた一人だ。

リーベルに在籍している時に、彼はFMラジオで番組を制作し同時にパーソナリティーとしてマイクの前に座っている。それはアルゼンチン文学について語り、アルゼンチンの社会状況を鋭く批判する番組だった。そしてこの番組で流れる音楽はもちろん彼の愛するローリング・ストーンズの曲。

ラッチオにレンタルされることになるソリンだが、彼の権利を所有しているのはクルゼイロ。だが、クルゼイロもかつての経済的余裕はすでにない。したがってソリンの高い年俸を支払う能力もなくなっている。その上ラッチオの経済的危機、これらのことが相まってバルサレンタルへのきっかけとなる。ラッチオを離れることは事実上決まっていたソリンだが、1月の試合では彼がいつもおこなうこと、つまり全力を出しきって試合を戦うこと、負傷を恐れず果敢にすべてを出し切ること、普段のソリンのプレーが見られた。バルサに第二のプジョーが登場する。