4月14日

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私はドクトール・クレ

私の名はドクトール・クレ。私の素晴らしくも明晰な意見を聞こうと、今日も私のオフィスには多くのバルサソシオから電話がかかってくる。リンリ〜ン、リンリ〜ン、うん、またソシオからの電話だろう。
「もしもし?」
「ドクトール・クレ、コルーニャ戦ではなぜ多くのソシオが静かに家路についたのでしょうか?」

そう、これはいい質問だ。確かにカンプノウでの試合でありながら、しかも2−4という惨めな結果でバルサが負けながら、それでも白いハンカチ一枚もお目にかかれなかった。だらしがない結果を残したあとに起こる恒例のブーイングも大したことのない試合後の風景だった。インテリジェンスにあふれる人は多分こう言うだろう。
「ブーイングや白いハンカチよりもさらに恐ろしい抗議表現、それはまったくの無関心さを装うことだ。」

バルサがソシオのクラブであり、世界中に散らばるバルセロニスタのクラブであることを端的に示すこと、それは彼らの“叫び声”によりクラブに変革が起きてしまうことだ。それは否定的な状況であればあるほど如実に見て取れる事実となる。今シーズンのバルサを見てみればさらにそれは明らかになるだろう。カンプノウに咲いた白いハンカチと辞任要求の叫び声がガスパーを解任させ、同時にバンガールもシッチェスの自宅へと追いやった。

だが今は誰を辞任させればいいのか。白いハンカチや抗議の意思表示をすれば再び臨時会長が第二の臨時会長を生み出し、臨時監督が第二の臨時監督を生み出すかも知れない。それは可能だと知っているバルサソシオだ。だが第二の臨時会長や監督がやって来たとしても、今の状況に変化が起きることはあり得ないということも知っている。したがって“無抵抗”に“静か”にカンプノウをあとにするしかないのだ。それが私ドクトール・クレの明晰な状況分析というものだ。ちなみにこれを医学用語では“諦め”と言う。

いかなるクラブであろうと必ず訪れる“高揚期”と“衰退期”。我らがバルサの迎えているここ何年かの状態はまさに後者であることは間違いない。それもこれもすべて我らがガスパーのおかげであることも間違いないところだ。だがそれでも世の中は動き続ける。このような状況を利用しようとするソシオがいたとしても不思議ではない。カンプノウでいつも会う常連のソシオが先日私にこう語ってくれた。
「多くのソシオが今何をしているか知っているかい、ドクトール・クレ?こんな状況でソシオが少しでも良い思いをしようとするために、多くのソシオがしていること知っているかい?それはね、ソシオカードを商売にすることさ。試合日に旅行者に売ってお小遣い稼ぎをすることさ。」

もちろん聡明な私はその事実を知っている。多くのソシオではなくてほんの一部のソシオであることも知っている。だがそういうソシオとは別に、多くの若いソシオはいまだに諦めずバルサを心の底から応援していることも知っている。若い大学生による学生運動が常に社会状況を反映するように、バルサの若いソシオもまた常にクラブの状況に無関心ではいられない。そして彼ら若いソシオは苦しむことを学んでいくと同時に、楽しさをも発見していく。バルサの楽しさ、希望、それはどこにあるのか。それらと遭遇したい人はパラウ・ブラウグラーナに足を運べばよい。バルサバスケットチームが、ハンドボールチームが、そしてローラーホッケーチームが、国内のライバルチームといわず、ヨーロッパの強敵チームをバッタバッタとなぎ倒す試合を見に行けば良い。

中央の新聞といわずカタルーニャの新聞を読んでもラジオを聴いてもテレビのニュースを見ても、そこで語られることはバルサの衰退と地獄の状況だけだ。中央のそれとカタルーニャ地方のそれとの違い、それは前者が嬉しそうに書いたり語ったりしているのに比べ、後者は苦々しく書いたり語ったりしていることだけで内容は同じ。つまり、バルサの衰退と地獄と危機と崩壊。まるで我々バルセロニスタは世界の中で最も不幸な人間であるかのような、それはまるでイラクの民衆よりも不幸せな人生を送っているかのような論調。だが待て、それは少しオーバーというものではないか。我々バルセロニスタは生命の危機にあっているわけでもなければ、住む家がなくなったわけでもない。単なる“落ち込み期”を迎えているだけだ。ちなみにこの現象を医学用語では“そんな大げさな”とも言う。

キッタハッタの世界ではなく、そんなに深刻にならずに常に希望を持っていける環境に住む幸せなバルセロニスタだ。しかも我々はユベントスというオモチャもまだ持っている。そのオモチャの次にはチャンピオンズ制覇という、どでかいオモチャが手に入るかもしれないのだ。ひょっとしらその前に白ペンキで塗ってある生意気なオモチャもグチャグチャにできるかも知れない。バルサは重傷ではあるが危篤状態ではないと診断する、聡明なドクトール・クレ。私の言葉を信用しなさい。