10月20日 月曜日

■1チャンネル(1.0MB)
バルサ百周年記念番組に出演した元気な頃のマヌアル・バスケス・モンタルバン。1974年に初めてバンコックに行ったときのことを語っている。ひろったタクシーの運転手にどこから来たのと聞かれた彼が、バルセロナからと答えると、あっ、クライフね、と言われ、それから10年後に再び同じ地を訪れたときにもやはりタクシーの運転手にどこの人かと聞かれ、バルセロナと言ったら、あっ、マラドーナね、という答えが返ってきたと楽しそうに語っていた。

■2チャンネル(0.5MB)
人々は失望感を、監督は不安感を、そして選手たちは敗北感でいっぱいになり、試合が終了してみればこれまでの期待感は消え失せていた。

■3チャンネル(1.0MB)
試合終了後の記者会見でしゃべりまくっているフラン・ライカー監督。いつもの明るい彼と違い、表情も厳しい。

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一人の偉大なバルセロニスタの死

親しい人々にはマノロと呼ばれていた64歳になるマヌアル・バスケス・モンタルバン、2003年10月18日、バンコク国際空港で心臓発作によって倒れほぼ即死状態だったと伝えられている。カタルーニャが生んだ最大の文学者の一人であり、最も優れたインテリでもあり、鋭い分析で名を博したジャーナリストでもあり、そして何よりもクラブの状態がどうであれ心の底からバルサを応援する偉大なバルセロニスタでもあった。

バルサ100年史(第三章・28)によれば“グルセッタ事件”を次のように伝えているマヌアル・バスケス・モンタルバン。トゥリンフォ」という雑誌に「カンプノウにおける愛と戦争の夜」と題して、掲載されたコメント。

「試合再開後、グルセッタは座布団を取り除くために、何回も試合を中断しなければならなかった。しかし、それは意味のないことだった。2千、3千の座布団が投げ込まれていたからだ。そしていつの間にか、最初の何人かの観客がグラウンドに進入してきた。それは審判に暴力を振るうためのものではなく、選手達に<もう止めろ>と説得しに来た人々であった。やがてグラウンドは5千人にものぼる人々によって埋められた。グルセッタは突然、控え室めがけて、そう、まるで100メートル競走の選手のような勢いでグランドを走り抜けていく。誰も彼には触らないし、また追いかけもしなかった。なぜなら、グランドはすでに、お祭り会場と化していたからだ。1万人、2万人と膨れあがった人々による<バルサ! バルサ! バルサ!>の叫びと共に、クラブの旗が振られ、FC.バルセロナ首脳陣や時の政府関係者が陣取る貴賓席に近づいていく。そしてその貴賓席の中にも、涙を流しながら<ついに!ついに!>と、囁かれるのが聞こえる。」

<ついに>の後に続けられる言葉<自由><解放>は、決して口に出してはならない時代であった。
(以下略)

オーストラリアでの講演旅行を無事終え、バルセロナへと急ぐマヌアル・バスケス・モンタルバン。バンコック経由がバルセロナへの最短のコースだった。この日おこなわれるバルサ・コルーニャ戦に間に合わせようと帰国を急いでいたマヌアル・バスケス・モンタルバン。だがついにこの試合には間に合わなかった。一人の偉大なバルセロニスタの死に合掌!