12月21日 日曜日

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あれから1年・・・その1

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あれから1年・・・その2

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あれから1年・・・その3

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あれから1年・・・

去年の今日、つまり2002年12月21日、この日ガスパー当時会長は緊急記者会見を招集し次のように語っている。
「我々クラブ理事会はバンガール監督続投を決定した。」
マジョルカ戦での勝利が、誰しもが予想できなかった0−4という圧倒的な勝利が、それまでクラブ理事会が描いてきたすべてのシナリオを書き換えバンガール続投という思いがけない結論を生み出すことになった。

ジョアン・ガスパーの従兄弟でありクラブ理事会メンバーの中ではガスパーにとって数少ない信用できる人物であったフランセスク・クロスはこの日ブエノス・アイレスにいた。ビアンチ獲得のためにガスパーが個人的にアルゼンチンに送り込んだ使者がクロスだった。個人的にもビアンチと親しかったクロスはすべての書類制作も自分でおこない、しかもビアンチとの合意にはすでに達していた。このシーズンの残りと翌年1年の契約期間で合意に達しており、月曜日出発のバルセロナ行きの飛行機のチケットもすでにビアンチの手元に渡っていた。あとは、ガスパーからの連絡を待つだけ、そう、最終的なOKの連絡を待つだけとなっていた。

この時点でビアンチは二人の選手獲得を要請している。一人はガブリエル・ミリートであり、もう一人はセバスティアン・バタグリアだった。結果的に前者はサラゴサへ、後者はビジャレアルに移籍することになるが、ビアンチはこの二人とロマン・サビオラという二人のラインを確保すればバルサの反撃は可能となるだろうとクロスに語っている。

ビアンチは自宅のテレビでマジョルカ戦を観戦している。結果はバルサの圧勝というものになったが、それでもバルセロナ行きのチケットをキャンセルする可能性はないだろうと信じていた。

日曜日の早朝、クロスが待ちに待っていたガスパーからの電話が入ってくる。もちろん最終的なゴーサインの連絡だ。だが彼が受けた指示はまったく予想できないものだった。
「私はバンガールの続投を決めた。だからビアンチのことはなしにしてくれ。」
それを受けてクロスは次のようにガスパーに訴えている。
「最終的な結論はクラブ理事会総体で出さなければならない。あなたの個人的な判断ではなく、クラブ理事会の結論としてだしてくれ。ポル・ファボール!」
クロスがまだブエノス・アイレスぬ来る前におこなわれた理事会会議では圧倒的多数で“バンガール更迭、ビアンチ獲得”という賛成を得ていた。したがって理事会会議さえおこなえば、再びその結論に達するという思いがクロスにはあった。だからクラブ理事会の結論を要求したのだ。

ガスパーはその日の午後、つまり日曜日の午後にフアン・カルロス・ホテルに出席可能なすべての理事会メンバーを招集し、緊急会議を開いた。不思議なことに、ガスパーにとっては不思議でも何でもなくクロスにとってはとてつもなく不思議なことに、それまでバンガール続投に強い反発を表明していた人物たちまでがガスパーの主張する続投案に賛成するという結果になる。会議終了後に再びガスパーの報告を受けたクロスには、もうどうすることもできなかったことは言うまでもない。そしてそれから二日後、ビアンチはボカと契約することになる。

その後の歴史はすべてのバルセロニスタが知っていることだ。バンガール続投を発表した1か月後に、セルタに敗北したバンガールバルサはついに沈没し、ガスパー自体もそれから1週間後に辞任に追いやられた。

もし歴史のお茶目ないたずらがなく、バルサがマジョルカ戦に敗北し予定通り月曜日の飛行機にビアンチが乗っていたらバルサのその後はどうなっていたか、それは誰にもわからない。だが可能性として考えられること、それはロマンは今シーズンもバルサに残っていただろうし、サビオラも毎試合出場していただろう。先日おこなわれたトヨタカップでもボカは優勝していないかも知れない。フラン・ライカーも当然ながら晴れのバルサベンチには座れなかっただろう。そしてどちらが良かったかどうか、それも誰にもわからない、だから歴史は面白い。