5月18日 火曜日

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グラシアス、カピタン!

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グラシアス、カピタン!

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グラシアス、カピタン!

扁桃腺が腫れ高熱にうなされた金曜日の深夜、一睡もできなかったルイス・エンリケは日曜日の試合への出場はほぼ不可能だと思ったという。翌日の練習にも、もちろん参加できるエネルギーは残っていなかった。だがバルサドクター陣による必死の手当の結果、奇跡的に彼の熱は試合当日の朝には下がり、カンプノウ近くのホテルでおこなわれる合宿にも昼過ぎに合流することができた。90分は無理だとしても試合には出られそうだ、それがホテル入りとした時の彼の印象だったという。そして試合開始前30分、ルイス・エンリケを先頭にスタメンとして選ばれた選手たちがカンプノウに登場する。彼の目にすぐに入ったものは、カンプノウでの最後の試合となる彼に寄せる多くの垂れ幕だった。そしてほとんどの垂れ幕には次のように書かれていた。
“グラシアス、カピタン!”

今から25年前、ヨハン・ニースケンスがクラブを去る時にも、そして7年前にホセマリ・バケーロが去る時にも、あるいはバルセロニスタに愛された多くの選手がクラブを去ることになった時にも、そう、同じ文章の垂れ幕がたなびいたカンプノウ。
“グラシアス、カピタン!”
それらの多くの選手はカタルーニャ出身の選手ではなかった。バルサソシオによって最も愛されているカンテラ出身選手でもなかった。例えば、それはオランダ人選手であったり、あるいはブルガリア人選手であったり、そしてあるいはバスク人選手であったりした。だが、出身地など10万ソシオにとって何の問題ともならない。グランドで、汗と、涙と、血と、そして闘争心をむき出しにしてクラブのためにプレーした選手であれば、南極出身であろうと北極出身の選手であろうと関係なかった。
”私たちはブラウグラナ、どこから来たなんて問題じゃない、南からだろうが北からだろうが。我々は知っている、一つの旗が我々を団結させることを。”
それがバルサというクラブであり同時にバルセロニスタの思いでもある。

「彼はバルサの顔さ。しかもまだバルサでプレーできる力を持っていると思う。」
彼を尊敬してやまないというロナルディーニョは試合後にそう語る。アストゥリア地方からやって来たルイス・エンリケ、彼はもちろん、毎月の銀行口座残額を見ることが生き甲斐となる傾向の多い、いわゆる“助っ人”選手ではない。したがって彼がクラブを離れることを決意させたものは、すでに銀行口座にはじゅうぶん納得できるほどの数字が並んでいるからではない。これまでのように満足できるプレーが可能とならなくなったことに対する不満、ビッグクラブで要求される超一線級のフィジカルをすでに持ち合わせていないという判断、それは34歳となった彼だけではなく、多くのスター選手が一度は迎えなければならない“季節”だった。
「自分に正直でありたいと思ってきたし、今のこの時期にも、そして将来も、常にそうでありたい。」
そう語るルイス・エンリケは試合後には再びスタディアムに登場して挨拶することはしなかった。彼の性格からして、それは余計なことだったからだ。そして、まだ具体的な将来のことに関しても語っていない。だが、今から何年か後のいつか、ルイス・エンリケはこの試合のことを感激深く思い出すことになるだろう。2004年5月16日20時48分、カンプノウに駆けつけた7万3000人のバルセロニスタが最後の拍手と抱擁を送ったこの瞬間のことを。