サビオラ Saviolaおまけ

1981年12月11日、経済的に貧しい人たちが多く住むコレヒアーレス村の一角で、マリア・アントニア・サビオラは予定日より1か月も早い出産に苦しんでいた。しかも彼女にとって初産であった。1か月待ちきれずに生まれてきた男の子は、2kgちょっとの体重で未熟児にちかかった。

両親にハビートと呼ばれるようになったその男の子は、大事に大事に育てられた。彼らにとって初めての子であったからというよりは、予定日より早く世の中にでてきてしまったことによる、健康に恵まれない子であったからという意味の方が強かったようだ。とにかく健康に人一倍気をつかって育てあげられてきた。だがそれにも関わらずハビートが15か月になったとき、背中にいくつかの黒いあざがでているのを父のカッチョが見つける。わけの分からないまま医者に連れていったものの、医者もはっきりしたことをいわない。違う病院を訪ねても、結果は同じだった。「原因不明の病状」。ハビートは日がたつに連れて食事がのどを通らなくなり、みるみる体が細くなっていくようだった。

村にはスサーナという、その村唯一の大学出の女性が住んでいた。村人は何か困ったときには彼女を訪ね、いろいろと相談にのってもらっていたという。困り果てたハビートの両親は、藁をもつかむ気持ちでスサーナを訪ねた。

この村唯一のインテリであるスサーナがハビートの背中を見るなり、大きな声で叫んだという。「これは山羊の足だ!」。

スサーナが言った「山羊の足」というのは、やまいの名前だった。現代医学では治療のしようがないという。「これを治せるのは祈祷師しかいない」。現代医学に見放された両親に迷いはなかった。「よし、祈祷師に見てもらおう」。こうしてスサーナに紹介された祈祷師にかかったハビートは、あっという間に回復したという。

両親からはハビート、正式名称をハビエル・サビオラというこの少年はその後健康に育ち、すでに16歳になっていた。6、7歳の頃からどこに行くにも常にサッカーボールを手放さなくなっていたこの少年は、地元のフットボルクラブを転々とし、いつの間にかリーベルの少年部でプレーするようになっていた。1、2年前からリーベルの試合がある時には、ボール拾いもやらせてもらえるようになっていた。そうかつてのマラドーナが彼と同年代の頃、やはりそうしていたように。

将来バルサに来ることになるこの少年を、早くもマラドーナの再来として見る人々がいる。ラモン・ディアスもその一人だ。

1979年、まだサビオラが生まれる2年前、ディエゴ・アルマンド・マラドーナは東京で主催された「ジュニアー・ワールド・カップ」でアルゼンチン代表のユニフォームを着け、最優秀選手に選ばれている。そして同僚のラモン・ディアスは8ゴールを決め、得点王に輝いていた。

そのラモン・ディアスがサビオラ16歳の時、リーベルの監督を務めていた。リーベルの下のカテゴリーでプレーしていたサビオラを、ラモン・ディアスは見逃さなかった。1998年10月に入ると、1部の練習に参加させるようにしていた。そしてサビオラ16歳、突然の1部デビューの日がやってくる。

1998年10月18日、リーベルの相手はヒムナシアというチーム。この試合2−2で引き分けに終わるものの、途中出場したサビオラ自身、1ゴールを決め、2点目のアシストを記録する。そしてこの試合以来、徐々にスタメン出場を勝ち取っていくことになる。

それからすでに3年たっている。サビオラはアンダー20ワールドカップ(ジュニアー・ワールド・カップが名称変更)で、準決勝を勝ち残り10ゴールを記録している。ラモン・ディアスの記録を破り、今までの最高得点記録とされているアダイルトン(ブラジル人)の10ゴールに並んでいる。

アルゼンチンの、まったくタイプの違う2人の名将が彼についてコメントしている。

ルイス・メノッティ「エリア内でのロマリオによく似ている。インテリジェンスも兼ね備えたゴールハンターだ。しかし、まだ若い。ヨーロッパに行くのであれば、彼の横に常にイニシアティブをとる大スター選手がいて、徐々にヨーロッパの水になれさせるような環境があれば最高だろう」

カルロス・ビラルド「中盤から上がってきてゴールを決めるのがサビオラのパターンだが、9番としてもじゅうぶんにやっていける選手だ。いわゆるゴールの嗅覚を持っている。外見からは想像もつかないぐらいの肉体的能力にも優れている。スペインの選手では、ラウルに似ているだろう」

そして今回の大会でオランダ代表の監督を務めたファン・ハール「彼の活躍はそれほど驚くべきことではない。以前から非常に良い選手だと思っていたからな。ただ一つの心配は、バルサでのプレッシャーに耐えられる精神的な強さがあるかどうかだろう」

サビオラは、デビューしたての頃のことを次のように語っている。
「それはね、初めてファンの人にサインを頼まれた時のことなんだ。試合後、12、13歳の子が寄ってきてサインしてくれと言う。でも緊張で手が震えててうまくできなかった。僕がサインを頼まれるなんて。その時は本当にそう思った。両親はいつも謙虚さを忘れちゃいけないと僕に言ってきた。僕もそう思う。だから、将来どんなプレーヤーになろうと自分は変わらないと信じている」

そう、サビオラは決して謙虚さを忘れてはならない。過去カンプノウには3人の「時代を作る」若手選手が入団している。シュステル、マラドーナ、そしてロナルド。
シュステルは8年もバルサにいたとはいえ、彼の特異な性格もあって最後の2年は会長や監督、そしてファンとのもめ事でバルサを後にした。
マラドーは病気と負傷の不運にみまわれ、次第にバルセロナで「白い粉」を覚えていった。そして常に彼と一緒だったゴリラ・ガードマンたち。
ロナルドは、典型的なブラジルマネージャーの政治的手腕によりバルサを去っていった。

サビオラにこれらの過去を繰り返させてはならない。