ロッケンバック Rochembach

ファービオ・ロッケンバック、1981年12月10日生まれ。182cm. 81kg。

ロッケンバックはポールト・アレグレから200kmちょっと離れたソレダーデという人口3万人の町で生まれ育っている。この町はドイツ人の移民が多く住んでいることで知られている。ロッケンバックも、そういうドイツ移民の家族の一つだ。だがロッケンバック家の中には、4代前のドイツから移民してきた祖先に関する資料は存在していない。ロッケンバックという名字とゲルマン系を臭わせる肉体的風格が、かろうじてドイツ移民だったことを偲ばせている。

ファービオの父ジュアーレス(44歳)を抜きにして、フットボール選手ファービオ・ロッケンバックを語れない。彼はキーパーとして17年間もプロ生活を送った選手であった。だが彼が転々とした諸クラブは、決してビッグクラブとは呼べないところばかりであったという。だからこそ許されたのかも知れないが、父はクラブを変わるごとに息子のファービオを一緒にプレーさせた。もちろん息子のカテゴリーは少年クラスである。そしてコーチはいつも父であった。それが今でも父の自慢である。

父は息子に、自分と同じように小さなクラブでプレーさせたくはなかった。ファービオ15歳の時、偶然インテルナシオナール・ポールト・アレグレがジュニアー選手募集をしているのを知った。父にもちろんためらいはない。すぐにポールト・アレグレにファービオ少年15歳と向かう。

募集には400人の夢見る少年が、それぞれ両親と一緒に来ていたという。テストは4、5日かけておこなわれた。将来バルサに来ることになる少年は、もちろんこのテストに合格する。

2000年の5月、つまり去年までファービオはジュニアーのチームでプレーしている。だがこの年の6月インテルナシオナール・ポールト・アレグレの一部のコーチをしていたゼ・マリオが彼を一部に抜擢する。6月11日、一部でのデビュー戦を飾る。ファービオ18歳であった。これから彼は一挙に爆発する。

アンダー20の南アメリカ大会で最優秀ミッドフィルダー賞をとった後、彼の所属するクラブは5年間のプロ契約を急いで結んだ。インテルとミランのスカウトが彼を狙っていることが分かったからだ。

彼が一部でデビューを飾ってからちょうど1年たった2001年6月、ファービオは早くもセレクションAでデビューする。場所は日本でのカナダ戦。この試合(コパ・デ・コンフェデラシオネス)後も、3試合の国際試合の経験を積む幸運にみまわれた。

バルサの歴史において、ファービオのようなデビューしたての選手を獲得した例はない。例えば若くしてバルサに来たシュステルは、すでに国対抗ヨーロッパカップで一躍有名になってからのものだし、19歳でバルサに来たロナルドにしてもすでにオランダで活躍してからの移籍だった。

もしファービオがバルサで活躍し国際的な選手となったら、それはひとえにバルサスカウトたちと、レシャック、そして大金を投じたバルサ首脳陣のおかげであろう。特にレシャックは、ファービオがインテルナシオナール・ポールト・アレグレで一部に抜擢された直後に、彼を直接何回も見た上で非常に気に入り、バルサへの入団を指導部に薦めている。そして去年の12月には、すでに移籍に関するクラブ間の基本的合意にたっしていた。そして今年の5月、バルサのドクター、ジェセップ・ボレールの立ち会いのもと、ブエノス・アイレスでメディカルチェックを受けている。

ブラジルセレクションの新監督となったエスコラリーはファービオについて次のように語っている。
「1年間のリーグ経験しかないにも関わらず、バルサは良い選手を選択し獲得したと思う。彼の肉体的能力は驚くものがある。相手をマークする能力も備えているし、プレーに何よりもダイナミックさがある。走り始めたら止まることを知らないし、また誰も止められない。しかもボールさばきは、もちろんブラジル人。
彼をかつてのドゥンガと比較する人がいるが、ワタシはドゥンガ以上だと思っている。ドゥンガはポジションの取り方が彼より勝っているかも知れないが、ファービオはその他に良いものを数多く持っている。プレーする面積の広さ、ロングシュートの強さ、そして多くのポジションをこなせる器用さ。ドゥンガの完成品が彼さ」