リケルメ RIQUELME

わずか400平方メートルの敷地に建てられたビージャ・サン・ホルヘという名の集合住宅がある。ブエノス・アイレスの近郊に1966年に建てられたものだ。集合住宅といえば聞こえは良いが、薄いレンガを積み立てて漆喰を塗った壁にトタンの屋根をのせただけの掘っ建て小屋といった方が正解かも知れない。明日の生活を考える余裕もなく、今日という一日をどのように生き延びるかが問題という貧しい人々が住んでいる。

フアン・ロマン・リケルメはその「集合住宅」でリケルメ家の長男として1978年6月24日に生まれている。その後マリアーナ、ダミアン、ベアトリス、ホアナ、ルイス、アレハンドロ、カレン、セバスティアン、ディエゴが生まれ10人兄弟という大所帯となるリケルメ家だ。貧しいリケルメ家で、12人の人間が食べていかなければならないという厳しい現実があった。それでもリケルメ家の大黒柱であるルイス・エルネストは頑張る。自分の息子たちに空腹感を与えなかっただけではなく、すべての息子たちに義務教育を終了させるようにしている。もちろんロマンもその義務教育を終了することができた一人だった。

十代の半ばをむかえたロマンの朝は早い。6時に起きて20ブロック離れた鉄道の駅まで歩いていく。ドン・トルクアト駅から電車に乗りサアベドラ駅で降りる。そしてそこから練習場までのバスを拾う。自宅から2時間あまりをかけて練習場に通う毎日だ。クラブはアルヘンティーノス・ジュニオーズ、もちろん彼の所属するカテゴリーは少年部。だがロマンは目立たない。同年代の少年たちと比べてロマンはあまりにもまだ小さすぎたのだ。体格的に恵まれていなかった彼は、同年代の少年たちによるカテゴリーの中ではあまりにも体力的に貧弱だった。そのロマンが急に成長するのが16歳をむかえるあたりだ。身長が急激に伸び、肉体的にも負けないようになってきた。1996年、そのロマンに目をつけたのがビラルド率いるボカ・ジュニオーズだった。

ロマンについに一部リーグでデビューする日がやって来る。1996年11月10日、2万5千人を収容したボンボネーラでウニオン・サンタ・フェ相手の試合で待望のデビューを飾るロマン。デビュー戦にしては素晴らしい出来だった。ボンボネーラの観衆たちがロマンコールを送ったことがそれを証明していた。試合終了後のインタビューに答えて彼は次のようにコメントしている。
「監督のビラルドは知っていることだけをやればいいと言ってくれた。そして彼の言うとおり、自分がこれまで練習してきた通りのことをしただけ。早く家に帰ってスポーツニュースを見ないと。本当にデビューしたのかテレビ画面で見てみたいんだ。今は夢の中にいるみたい。デビュー戦で無事プレーできて、しかも勝利したなんて信じられない。」

普通のサクセスストーリーだと、デビュー後「快調に飛ばすリケルメ」となるが、彼の場合はそうはならなかった。チーム自体の調子が悪かったこともあり、ベテラン選手を使って試合を戦おうとするビラルドだ。リケルメの出番はその後わずかなものになる。シーズン終了後、ボカ不調の責任をとって辞任した後をエクトール・ベイラという監督が務める。彼はビラルドにも増して、経験豊かなベテラン選手を起用して戦っていこうとする監督だった。したがってリケルメはもとより、パレルモも出番がほとんでない状態となる。

リケルメにとってもパレルモにとっても否定的な状態に急激な変化が訪れるのは、1997年への11月のことだった。エクトール・ベイラは辞任に追い込まれ、代わりにカルロス・ビアンキが監督に就任した。彼自身、カルッチオのローマでの監督失敗という汚名を返上するチャンスであると共に、ボカの再建を任されることになるビアンキ。その彼にとって、リケルメはもちろんパレルモにボカの将来を見るのにそれほど時間がかからなかったようだ。特にリケルメの場合、アンダー20での活躍に注目していた一人だったからだ。

97年ワールドカップアンダー20の大会はマレーシアでおこなわれた。アルゼンチン代表にはレオ・フランコ、ウオルテール・サムエル、ディエゴ・プラセンテ、パブロ・アイマール、リオネル・エスカローリなどと共にリケルメも召集されていた。グループEに入ったアルゼンチン代表は首位をオーストラリアに譲るものの、グループ2位につけて次のラウンドに進んでいた。スター選手としてオーエンを抱えるイギリスを敗り、次の準々決勝ではブラジルとあたる。そしてブラジルにも2−0と勝利し準決勝に進むことになるアルゼンチン代表。リケルメはここまで素晴らしいプレーを続けていたが、ブラジル戦での負傷により準決勝には欠場。だがアルゼンチン代表はアイルランドを敗りウルグアイ相手の決勝戦に突入した。決勝戦には負傷も癒えて出場することができたリケルメ。アルゼンチン代表は彼の活躍などにより2−1でウルグアイを敗り優勝を飾っている。この時のリケルメの活躍をビアンキは見逃していなかった。

ビアンキが監督におさまりリケルメが活躍するボカ・ジュニオーズは再生を果たす。リーグを制覇し、コパ・リベルタドーレスも獲得し、日本でのコパ・コンチネンタルでもマドリを敗り世界一のタイトルを手にした。

ボカの会長であるマクリとの個人的問題がありながらも、フットボール選手としては順調に成長してきたロマン。だが私生活で大打撃を受ける。2002年4月、ロマンの弟の誘拐事件が発生する。30万ドルを要求してくる誘拐犯グループ。アルゼンチは政治状況が悪化し、治安は日増しに悪くなる一方だった。有名人の家族を狙っての身代金誘拐事件が何件か起きていた矢先の出来事だった。その後しばらくしてロマンの弟は解放されるが、リケルメ家は身代金を払ったことを肯定もしなければ否定もしない。いずれにしてもロマンにとってこの事件は大ショックだった。自分の愛する家族が日々危険にさらされている状態でフットボールどころではなかったからだ。

この1年前にバルサと契約寸前までいった彼は、この事件をきっかけとしてアルゼンチンでのプレーを拒否しヨーロッパクラブへの移籍をボカ会長に要求する。リケルメとボカの契約はわずか1年しか残っていないこと、そしてクラブは大赤字を抱えていることなどが直接的な理由となり、ボカ側としてもどうしてもリケルメを売らなければならない状態ではあった。1年前には2400万ユーロの移籍料を要求していたボカだが、今ではその半分ちかくの1300万ユーロまで移籍料が下がることになる。

リケルメにとって、そして多くのバルセロニスタにとって待ちに待った日がやって来る。2002年7月7日、ボカとバルサ、そしてリケルメ代理人が一同に集合してのバルサ移籍に関する最後の詰めを話し合う会合が持たれた。9日に予定されている定例記者会見での爆弾発言としたいガスパーは、メディアに対しこれまでにない秘密主義をもってこの会合をおこなう。場所はローマのExcelsior Hotel 。バルサ側から統合ディレクターのペレス・ファルゲール、弁護士のインホス、ボカ側からはクラブ理事会のホセ・シリーロとエドゥアルド・ラガーノ、そして弁護士のパブロ・クルセーラスが参加。会合に参加していないボカ会長のマクリとバルサ会長のガスパーは、交渉の進み具合を電話報告で受けている。

午後から始まったこの交渉が一段落を見たのが夜遅く。マドリッドにいたリケルメの代理人ダニエル・ボロトニコフはクラブ間の合意が着いた段階で、最終便に乗りローマに飛びこの会合に参加した。契約書作りなどでこの会合は翌日の早朝まで続き、関係者が軽い睡眠をとったあと次の日の午後から再開された。長い長い交渉がついに終わりを見る瞬間がやってくる。1年間にわたって状況が変化し続けたリケルメ獲得がついに現実になる瞬間がやってきた。

移籍料は2回の分割払いでトータル1300万ユーロ、契約期間は5年、年俸は250万ユーロとなりそうだ。