エンケ ENKE

ロベルト・エンケ、1977年8月24日に旧東ドイツの街ジェナで生まれている。現在ドルトムンドで監督を務めているサマーや現役選手として活躍中のバラックなどと並び、数少ない旧東ドイツ出身の選手。その彼が2002年6月3日、バルサのオフィスで3年契約を結んだ。2002−03シーズンの最初の、言い換えれば第二次バンガール政権における最初の補強選手となる。

エンケは1996−97シーズンから3年間にわたりドイツのボルッシア・モンヘングラバッハに在籍。その時パトリック・アンデルソンと一緒にプレーしている。だが3年目のシーズンに、彼の所属していたクラブは2部落ちという事態をむかえる。そのような状況の中で、エンケがデビューしてから密かに彼に注目をしていた一人の人物がここで登場する。同じドイツ人で当時はポルトガルのベンフィカで監督をしていたジュップ・ヘインケスだ。彼は何回となくリスボンから電話連絡をとり、ベンフィカに来ないかと強く要請する。
「いつかは外国でプレーするのが夢だった。それもスペインかイタリアで力を試したかった。ヘインケスからベンフィカに来ないかと言われたときには、それでも、つまり希望の国ではなかったけれども、ベンフィカという一流チームだったからドイツを出る良いチャンスだと思った。」
1999−00シーズンにベンフィカに移籍することになるエンケ、21歳だった。

彼がベンフィカに入団した年には正キーパーとしてアルゼンチンのボッシオ、控えとしてポルトガル人のヌノがいた。ヘインケスの当初のアイデアではエンケを控えキーパーとしてベンチにおき、徐々に経験を積ませようというものだった。だが彼のプランはいきなり変更を余儀なくされる。プレステージでの大活躍で、シーズン開始と共にスタメン出場となった。エンケは期待を裏切らない活躍をみせる。シーズンが始まってから最初の5か月間で4回のペナルティーを止めている。翌シーズンはさらなる活躍をし、シーズンが終わってみればポルトガルリーグの最優秀選手に選ばれる栄誉にも輝いている。

このシーズンが終了した時期にマンチェスターが彼を誘いに来ている。アレックス・ファーガソン直々の移籍要請だった。だが彼はこの話をにべもなく断っている。条件がバルテスの控えキーパーというものだったからだ。いかにビッグクラブであろうと最初から控えとわかって行く気はなかった。最初からゼロのスタートでスタメンを競うのが筋、それが彼の考えだった。

バンガールの第一次政権のときにコーチとしてバルサにいたマウリーニョは現在オポルトで監督を務めている。そして彼もまたエンケ獲得を狙っていた一人だった。
「もしベンフィカとの延長契約を拒否しないでシーズン後半もチームでプレーできていたら、間違いなく今回のワールドカップにもドイツ代表として呼ばれていたと思う。彼は185cmの身長だけれど、俊敏さがある選手。
そして足でのボールコントロールは決してずば抜けているとは言えないが、ミスの非常に少ない選手だ。ドイツ生まれの選手だけれども、性格的にはゲルマンというよりラテン系という感じ。明るい性格がグランドの中でもよく現れる。バルサは良い選手をとったと思うよ。」

エンケのバルサ移籍を可能にするために活躍した人々。皮肉なことにそれらの中にルイス・フィーゴの代理人であるホセ・ベイガがいる。彼はベンフィカで活躍する彼を気に入り、何回かバルサにエンケに関する情報を送っている。そしてスペインでのエンケに関する独占権をもつ人物としてガビー・シュステル。元バルサ選手であり、同じドイツ人でもあるシュステルの奥さんである。彼女は何人かのドイツ選手の代理人を務めており、エンケもその一人だった。

彼らの協力によりバルサ入団の夢を果たし、契約書にサインをした日にエンケは語っている。
「正式に契約書にサインする前にバンガール監督と話をした。彼のアイデアによれば来シーズンのキーパーとして3人考えていると言う。ボナノ、ビクトル、そして自分。もしバルサに入団したらこの3人が同じスタートラインに立ってスタメンを争うことになるだろうと語っていた。それで最終的に決意がついた。憧れのバルサに入れて非常に満足している。しかもチームメイトの中にパトリックという知り合いがいるからクラブ自体にもそして街にも慣れていくのにそれほど時間はかからないと思う。」

エンケファミリーに子供はいない。彼と奥さんのテレッサと二人暮らし。だが家族は多い。彼らにとって8匹のイヌは家族と同じだから。このイヌたちはすべて路上に捨てられていたものをエンケやテレッサが拾ってきて育てているものだ。エンケ夫婦は今バルセロナに来て家探しをしている。もちろん彼らの家探しの条件でもっとも大事なものは広い庭があること。8匹の家族がゆったりと住める家でなければならない。