マリオ MARIO

サンタ・クルス・デ・テネリフェで1982年2月2日に生まれたペドロ・マリオ・アルバレス、彼をテネリフェから何千キロと離れたスペイン本土に、それも首都のマドリッドに連れ出すことに成功したのはAt.マドリのスカウトマンのおかげだった。マリオはAt.マドリのカデッテカテゴリーでフットボール選手の卵としてスタートすることになる。

だがこの少年の行方は決してバラ色ではなかった。At.マドリの少年カテゴリーをのぼりつめていくものの、一部チームでのデビューの入り口となるAt.マドリBまでは到達できない。そして彼は1999年、1年だけとはいえ三部カテゴリーのアモロスというクラブにレンタルされてしまう。そして翌年、At.マドリBの選手としてようやくプレーするが、それはわずか1年しか続かなかった。なぜならバジャドリのガルシア・カルボ獲得を狙っていたAt.マドリ会長のヘスス・ヒルが移籍の際の交換選手の一人として彼をバジャドリに売ってしまうからだ。だがそれは結果的にマリオ待望の一部チームでのデビューを可能とすることになった。

しかしバジャドリに移籍してからもバラ色の人生はすぐにはやって来ない。それどころかプレステージの練習で足の指を骨折するという不運を背負い込んでしまう。彼の一部デビューという夢がかなったのは2001年11月4日、この日に負傷から立ち直ってマリオのスタメン出場が実現することになる。

当時のバジャドリ監督ペップ・モレーのマリオに対する要求は厳しい。彼を一流のマーク選手と見たペップ・モレーは、ラウルとかウルサイなどの選手に対して彼にピッタリマークを要求する

マリオはアンダー15から始まってアンダー21におけるまで、すべてのカテゴリーの代表選手となっている。アンダー16カテゴリーではビクトル・バルデスやナバーロなどと一緒にプレーしヨーロッパチャンピオンに輝いてもいる。だがこの栄光の代償も払うことを忘れない義理堅いマリオだ。彼はアンダー15の合宿練習で練習して以来、すべてのアンダー・カテゴリーで練習中といわず試合中といわず何らかの負傷をしている実績を持つ珍しい選手でもある。

バジャドリ時代の彼をよく知るエウセビオ・サクリスタイン。彼はマリオに関して次のように分析する。
「ディフェンスとしてはそれほど大きい方ではないが、パワーは凄いものがあるし、ジャンプ力も際だっている。闘争心をむき出しにする選手で、周りの選手に影響力をもつタイプだ。セントラルを自然なポジションとするものの、左ラテラルも起用にこなす。マーカーとしてはすでに超一流選手と言っていいだろう。とにかく将来の選手ではなく、即戦力だと信じている。」