ベレッティ  Juliano Haus Belletti

子供の頃に父親の影響を受けてプロのフットボール選手を目指す、そういうシナリオはゴロゴロと転がっている。ジュリアーノ・ハウス・ベレッティ、彼もまたそのようなシナリオをもつ選手だが、そういうパターンの典型的な選手ではない。1976年6月20日、ブラジルのカスカベルというところで生まれている彼もやはり父親がプレーするのを見て育っている。彼の父親ディバルドは残念ながら有名な選手とはならなかったものの、60年、70年代にポルテロとして活躍した選手であり、父親がゴールバーの右に左に飛ぶのを見て育つジュリアーノ。だが、彼が“フットボール人生命”として少年時代を過ごしてきたかというと、そうではない。しかも親のコネで憧れのクラブのインフェリオールカテゴリーに入団し夢見た一部チームでデビューするという、そういう典型的なシナリオにははまらないジュリアーノだ。

父親の勧めもあり6歳の時にフットサルスクールに入学する。サン・パウロ州の南境界に接しているパラナ州にある町カスカベル。その彼の地元カスカベルにある超一流のフットスクールだ。9歳になったとき、つまり1985年、すでに彼の所属するカテゴリーではリーダーとしてチームに君臨していたジュリアーノは、パラナ州リーグで優勝する。それもこの年をスタートとして3年連続優勝するという離れ業を達成する。そしてさらに1986年、87年、そして89年にはブラジルリーグのタイトルも獲得している。ジュリアーノ選手のポジション、それはもちろんポルテロ。3年連続リーグ最少失点を記録した優秀なポルテロだった。

それでも彼は、いわゆる典型的なフットボール少年ではなかった。なぜなら一日中ボールを蹴って遊んでいたわけでもないし、フットサルスクールに入り浸りになっていたわけでもない。ほんの少々の勉学とフットサル、そしてそれ以外の時間はドラムとギター練習に明け暮れる少年ミュージシャンだった。ギンギンのロックミュージックが大好きなジュリアーノ。サンバのリズムなどクソクラエだ。いつかはロックミュージシャンになりたい、それが彼の夢。そんな彼が何でまたフットボール選手となってしまったのか、それはやはり肉親が関係してきている。

1992年、16歳になっているジュリアーノを兄のサンドロが遊びに来いと誘う。サンドロはクルセイロのフベニールカテゴリーでポルテロとしてプレーしており、そのクラブがあるベロ・オリソンテに遊びに来ないかという誘いだ。遊びに行くのはいいが、問題は泊まるところだった。お金も大してもっていないジュリアーノだし、遊びに来いと誘うサンドロにしても何日ものホテル代を支払う余裕はない。そこで兄が弟に提案する。
「お前な、クルセイロのインフェリオールカテゴリーのテストを受けに来ましたと言って、選手の寮に泊めてもらえばいいんじゃないか?」
バルサのマシア寮にあたる“タ・トキーニャ”と呼ばれるクルセイロのインフェリオールカテゴリー選手寮に泊まり込んでいるサンドロだからして、こうすれば兄弟同じところに泊まれることになるという名案のつもりだった。

兄サンドロの名案が功を奏しタダで泊まれる宿が見つかった。だがその後、サンドロのシナリオには書かれていないことが起きてしまう。ジュリアーノがクルセイロ入団テストに合格してしまうことだ。そしてもう一つ、サンドロの人生シナリオになかったこと、それは将来性ある選手として期待されていたサンドロがヒザの大怪我をして若くして選手生命を諦めなければならなくなったことだった。この年から12年後にはバルサの選手となるジュリアーノだが、サンドロは彼の代理人の一人として重要な役目をはたすことになる。

なぜかクルセイロ・インフェリオールカテゴリーに入団してしまったジュリアーノ、だが彼のポジションはポルテロ、ではなかった。当時の監督はまず左、あるいは右インテリオール選手として彼を起用、フベニルカテゴリーに上がった彼は左右のボランチとして起用され、そして1994年、わずか18歳で一部チームの選手となる彼のポジションは、右インテリオール、あるいは右のボランチとなる。そして当時アンダー20の監督をしていたマリオ・ロボ・サガーロが代表に招集したのは1996年、彼が18歳の時だった。クルセイロで2年間プレーするジュリアーノはベレッティという名字からベレと呼ばれるようになっていた。そしてこの2年間でコパ・デ・ブラジル、ミネイロリーグ優勝というタイトルを獲得している。

1994年から2002年までサン・パウロでプレーしているが、この期間内で一度だけ他のクラブにレンタル移籍している。1998年、この年の最初に彼は大怪我をし2回の手術を余儀なくされ、ほぼ1年間のリハビリを終えてクラブに戻ってきた時にはアトレティコ・ミネイロへのレンタルが言い渡されていた。1999年、ミネイロで試合を重ねるごとにリズムを取り戻すベレ、翌年にはその活躍が認められて再びサン・パウロに復帰している。復帰してから彼の新しいポジション、それは右ラテラルだった。その年のシーズンが終了した段階で、メディア関係者の投票による“理想的な11人の選手“の中に右ラテラルとしてベレの名前があげられた。この年を境として右ラテラルとして活躍するベレをブラジル代表監督ルイス・フェリッペ・エスコラリーは見逃さなかった。2002年韓国・日本ワールドカップに向けてベレが招集された。

ワールドカップでの出場時間は短かったものの、代表が優勝した限り世界チャンピオンの一人であることにかわりはない。ジュリアーノ・ハウス・ベレッティは世界チャンピオンになった。そして大会が終了すると共にスペインはビジャレアルに移籍することになる。1年目の2002−03シーズンはできる限りヨーロッパフットボールの水に合うための試練の年、そして2年目となる2003−04シーズンは彼本来の、つまり攻撃的なラテラル選手として活躍している。

2004年6月23日、彼はバルサオフィスで2008年6月30日までの契約を結ぶ。すでに28歳となった彼はギンギンのロックだけが趣味ではなくなり、パバロッティやクラシックなど幅広い音楽を聴くようになっている。アルマーニの香水やベルサッチの服を好み、ジュリア・ロバーツとメグ・ライアンのファンでもある。海を見るのが大好きという彼にとって、地中海に面したバルセロナの街は住み心地がいいかも知れない。

スエルテ!ジュリアーノ・ハンス・ベレッティ“ベレ”!
ブエナ・スエルテ!