ジュリー  Ludovic Giuly "LUDO"

ロナルディーニョが父親のモレイラや兄のロベルトの影響を受けたように、そしてベレッティが父親のディバルドの影響を受けたように、ルドビック・ジュリーもまた父の影響を受けてフットボールプロ選手を目指すことになる一人だ。そして彼には、特別な影響を与えたフットボール世界でのもう一人の父親と言っていい人物がいる。かつてのフランス代表で、プラティニの“ガードマン”として長年大活躍したティガナ、その人が彼のもう一人の父親と言える。

アマチュアクラスを抜けられずプロ選手になることが可能とならなかったドミニク・ジュリー、彼にとって1976年7月10日、フランスはリヨンで誕生したルドビックに託した夢は自分にとって不可能だったこと、つまりフットボールのプロ選手になることだった。ルドビック・ジュリー、通称ルドと呼ばれるこの少年は体格的には、というか身長的にはまったくフットボール選手としては恵まれていなかった。小学校でも中学校でも誰よりも小さいルド、だが小さい子供によく見られるように誰にも負けないほどの俊敏さを持っていた。短距離を走り抜くスピード、そして優れた運動神経、それが彼の小さいころからの武器。何か人に負けないものを持つことが重要であって、ただ単に身長が高ければいいというものではない、そう息子に言い聞かせるドミニク。そして徐々にそのように信じるようになっていくルド。

彼が10歳を過ぎたころ、父親のドミニクはすでにリヨンというクラブのインフェリオールカテゴリーのコーチをしていた。他の子供たちと同じように入団テストを受け、合格という認定を受けてカンテラ選手となったにも関わらず“あんなに小さい体格の選手がカンテラになったのは父親のコネ”という評判が飛んだとき、ルドはそういう馬鹿げた噂に負けることはなかった。身長が高ければいい、そういうものではないのだ、と思うルドだ。そしてカンテラでの生活が1年、2年、3年と続くにしたがい、もう誰も彼のことを“コネ入学”とは呼ばなくなっていた。身長は相変わらず伸びないものの、瞬発力、スピード、そして練習や試合にかける情熱は誰にも負けないという評価がされてきたからだ。

1995年の夏、まだシーズンが始まる前のプレステージの最中、リヨンの監督ティガナが一部チームとフベニルカテゴリーまで含めた下部の選手で構成するチームとで練習試合をおこなう。ティガナが注目した選手は下部チームの中で右サイドをスピードにのって走り回る小さい選手だった。まだプレステージの段階であったとはいえ、一部チームのラテラル選手が面白いようにチビ選手に翻弄されていた。おまけにその選手はゴールを2回も決めたのだ。ティガナは翌日からこのチビ選手を一部チームの練習に合同させている。そして新たに始まるシーズンには一部チームのベンチにまで入ることになった。そのチビ選手とはもちろんルドビック・ジュリーのことだ。彼が一部チーム選手として昇進するきっかけとなった練習試合の時は18歳、そしてシーズンが開始されてベンチに入るようになった時には19歳になっていた。

ルドにとって一部リーグ選手としての最初のシーズンとなる1995−96だが、待望の一部デビューを飾るのはシーズンが半分近く過ぎてからのことだ。地元でのリヨン対カンヌ、この試合が彼のデビュー戦となっている。そして彼が爆発するのは翌シーズンだ。皮肉なことに彼のフットボール世界の父親であるティガナはすでにこのシーズンはリヨンにいない。右インテリオール、あるいは右エストレーモとして確固たるスタメンを獲得し16ゴールを決めている。そして一部選手3年目となる1997−98シーズン、彼は“冬のメルカード”でモナコに移籍する。モナコの新監督となっていたティガナがクラブ理事会に強引に彼の移籍を求めたからだ。ティガナの願いは移籍料640万ユーロと引き替えに叶うことになった。
「プロの一流選手になるためにはもちろん才能が必要だろう。でも才能だけではプロでやっていけないとも思う。幸運、実体のない幸運という現象がプロには必要なんだ。自分の場合はティガナという監督に巡り会うことが最初の幸運という現象だった。彼には感謝しても感謝しきれない。」
そう語るルドビック・ジュリー。

モナコでアイドル選手となるのに時間はかからなかった。再びティガナと別れることになるルドだが、後任監督となったディディエル・デシャンにも絶大の信頼感を得る選手となる。モナコに入団してからしばらくするとカピタンマークまで付け、まさにモナコの顔となる選手にまでなっている。その彼がフランス代表選手としてデビューしたのが2000年3月29日、23歳の時だった。グラスゴーでおこなわれたスコットランド相手の親善試合が彼の代表デビュー戦であり、0−2で勝利したフランス代表の最優秀選手としてメディアに持ち上げられている。モナコは2003−04シーズンのチャンピオンズリーグの決勝戦を戦っている。PSV、AEKアテネ、ア・コルーニャ、ロコモティフ、レアル・マドリ、そしてチェルシーを沈めて堂々の決勝戦進出だ。だがルドビック・ジュリーは前半の23分で負傷し交代。試合終了後におこなった検査で全治6週間と診断され、ユーロ2004への出場は絶望的となった。その瞬間、彼はすでに一つの決意をしていたという。
「伝説のアスールグラーナのユニフォームを着てバルサという歴史的なクラブでプレーしたい。小さいころからの夢だった10万人収容のカンプノウというスタディアムでプレーすること、今こそそれを実現したい。」

彼は若くして一度結婚をしている。だが結婚生活は7か月しか続かなかった。その時のことについて彼は多くを語らない。開かれた性格で非常に明るい彼でも語りたくないこともある。それでも父親のドミニクだけは別だ。今でも常に連絡を取り合い、何でも話し合える関係。そのドミニクがかつて何回も息子に語ったように、身長が高ければいいというものでもない、ということを証明して大きな選手となったルドビック・ジュリー。身長162センチとも164センチとも言われる彼だが、いずれにしてももう身長が伸びることはないだろう。だが誰にも負けない闘争心、スピード、インテリジェンス、彼には肉体的ハンディを補うものがたくさんある選手だ。

スエルテ!ルドビック・ジュリー“ルド”
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