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エドゥミルソン
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ワールドカップではブラジル代表として世界チャンピオンに輝いた一人であり、フランスリーグではオリンピック・デ・リヨンの選手としてここ3シーズン連続してチャンピオンとなったエドゥミルソン。そんな彼が幼少時代のことを語るとき、表情は決して明るくない。 「医学的にはアルコール依存症とでも言うような体となってしまった少年時代をおくっている。まあ、早い話が、年がら年中酒をくらって酔っぱらっているどうしようもないガキだったということだけどね。」 1976年7月10日、サン・パウロの北西300kmのところにあるタクアリティンガという町の貧しい家庭に生まれた彼は、10歳を過ぎる頃には父親と一緒にオレンジ畑で働き始めている。大人たちに混ざって多くの子供たちも働いているオレンジ畑、そこでは一緒に働いている限り大人も子供もなかった。仕事が終わり一杯引っかけようかということになると、父親たちと一緒に子供たちも飲み始めることになる。だが少年エドゥミルソンの場合は少々度が過ぎた。平日は仕事仲間と、そして週末は週末で同年代の若者たちと酒浸りの生活を過ごす彼は、まだ10歳を過ぎたばかりの少年だった。それでも決してそういう生活に満足していなかったことが救いといえば救いだった。 「へべれけ状態で朝方に家に戻るたびに、いったい俺は何をしているんだと思うんだ。両親もそんな息子を見るたびに悲しい思いをしていただろうと思う。」 仕事の合間を見つけては彼が所属する家の近くの小さいフットボールクラブでプレーし、それでも酒との縁が切れなかった彼に大転換期が訪れるのは15歳となってからだ。 一つの書物、あるいは一人の人物との出会いが人生を変えることがあるとすれば、エドゥミルソンの場合、一つの書物は聖書であり、一人の人物とはフットボール仲間であったエドゥソン、その人だった。そして彼を通じてセニョールと会話をすることが可能となった。セニョール、つまりキリストだ。エドゥミルソン、15歳の時だった。ある日、エドゥソンがアトレッタ・デ・クリストの集会に誘う。話には聞いていたアトレッタ・デ・クリストだが、エドゥミルソンには自分とは関係のない組織であると信じ込んでいた。だから普通であればその誘いには乗らない彼だった。だが、神の声が彼を誘う。 1992年対バルサ戦、1993年対ミラン戦、日本でおこなわれたコパ・インテルコンティネンタルの両試合にサン・パウロを率いて勝利をあげ、世界一の地位を築いた監督テレ・サンタナはアル中患者をたち直せるセニョールではないが選手の才能を見る目に優れた人だった。小さいクラブでプレーしていたエドゥミルソンを15歳ぐらいから追いかけていたのがテレ・サンタナだった。1994年、テレ・サンタナはエドゥミルソンが18歳となったばかりの時にサン・パウロに入団させる。エドゥミルソンにとってプロ選手としての初めての契約だった。 6シーズンいることになるサン・パウロではテレ・サンタナの期待に見事に応えるエドゥミルソン。セントロカンピスタとしてスタートした彼はオールマイティープレーヤーとしていろいろなポジションを経験し、最終的にセントラルというポジションに落ち着くことになる。サン・パウロに入団して5年目、つまり彼が23歳の時からはカピタンを務め、文字通りチームの中心人物となり、彼の活躍に注目するヨーロッパのクラブがいくつか登場することになる。彼の獲得に最も興味を示したフランスのオリンピック・デ・リヨンが1000万ユーロで移籍させるのに成功したのは2000年のことだった。 「難しい幼少時代を過ごした自分だけれど、リヨンでの成功はこれまでの自分の人生の中で最も光り輝くものだと思う。」 サン・パウロ時代にはベレッティとチーム仲間だったエドゥミルソンは、クルセイロでプレーしていたシルビーニョとも何回か対戦している。もちろんフランスリーグではモナコにいたマルケスやPSGにいたロナルディーニョとも対戦している。そして今シーズンからそのベレッティやシルビーニョ、マルケス、ロナルディーニなど、彼らと一緒にバルサエスクドを付けたユニフォームを着てプレーすることになった。 スエルテ!ホセ・ゴメス・モラエス・エドゥミルソン! |