デコ  Anderson Luis de Souza "DECO"

ブラジル生まれでポルトガル国籍も持つアンデルソン・ルイス・ダ・ソウサ、本来のその名とはまったく関係なくデコと呼ばれる彼は、バルサに入団してきたかつてのブラジル選手とは若干違う経歴を持つ。ロマリオやロナルド、そしてリバルドやロナルディーニョがすでに少年時代からブラジルフットボール界で将来を期待された選手であっったのに比べ、彼はまったくと言っていいほど無名の少年時代をおくり、そしてポルトガルに渡っている。彼がブラジル人に優秀なフットボール選手として名を知られるようになるのはつい最近のことだ。すでにポルトガル国籍を所有しポルトガル代表選手の一人としてブラジル代表と戦った試合での活躍、そのことによって彼の名は初めてブラジルメディアに取り上げられることになった。

2003年3月11日、ポルトガルとブラジルの親善試合に招集されたデコ。ユーロ2004の大会に向けての秘密兵器としてデコを考えていたポルトガル代表監督のルイス・フェリッペ・エスコラリーにとって、彼の実力を試すのには格好の試合だった。だがデコの代表招集を喜ばない一人の陰湿で暗い野郎がいた。ルイス・ペセテロ・フィーゴ、彼はメディアの前で次のようにデコ招集を批判する。
「ポルトガル国歌は勉強すれば覚えることができるだろうが、ポルトガル国民としての感情は学ぶことはできない。彼の加入は代表選手の堅い団結を妨げるものとなると思う。」
ペセタに目が眩んだあまり二枚舌を使ってバルセロニスタに嘘をつき通し、挙げ句の果てには子豚の頭を投げられたこの男の発言。そしてこのペセテロの批判に対してデコは次のように語っている。
「自分はポルトガルという国を愛し、一人のポルトガル国民という思いを持つようになっている。この国で生まれ育った一人のポルトガル人と同じように、自分もこの愛する国にできる限りのことをしたいと思っている。」

1977年8月27日に、サン・パウロの近郊で生まれているアンデルソン・ルイス・ダ・ソウサ“デコ”は18歳の時にはもうポルトガルに住み始めている。バルサにとって経歴的に“異端“と言っていいブラジル出身選手ではあるものの、そこはそれ、彼もまたフットボールで遊ぶことを日常生活とした少年時代をおくっている。6歳の時から地元の小さいクラブでプレーするデコの夢、それはもちろん将来にはプロ選手となること。だがそれを諦めてフットボールを放棄することにしたのが15歳の時。前年より一つ上のカテゴリーのチームに上った彼を待っていたのはフィジカル面を重要視する監督だった。まったく背が伸びなかったデコはどこのカテゴリーでも一番小さい選手だったものの、テクニックとスピードでスタメンを勝ち取っていた。だが、その監督はそれまでとはまったくタイプの違う監督でデコはほぼ1シーズンをベンチで過ごすことになる。そしてシーズンが終了し、彼は一つの決意をする。
「もうフットボールはやめだ。」

彼の次のプレーは体育館の中でのフットサルとなった。これは彼の特徴に非常にあっているスポーツだった。肉体的なぶつかり合いはないし、スピードとワンタッチテクニックがものをいう世界だ。16歳のフットサルプレーヤーに目をつけたあるプロチームが、デコにとって人生最初の“月給”を支払うことになる。月160ドル、それがフットサルプロ選手デコの最初の収入額。そして次のクラブは彼に400ドルの月給を用意してくれた。そんな彼に再び大空の下で大きなグランドを使ってのフットボールをやらせようというクラブが登場した。ナシオナル・デ・サン・パウロというクラブのカンテラを1年、そしてコリンチャンスというクラブでカンテラ生活を1年おくっている。身長は、ほんの少しではあるが伸びてきた、ようだった。

南米のブラジルからヨーロッパのポルトガルにデコを移住させるきっかけとなった人、それはベンフィカのスポーツ・ディレクターだったアントニオ・シマーオという人物だ。アントニオは中南米諸国に、特にブラジルの各方面にでかけ将来性ある若い選手の発掘を長い間おこなっていた。お小遣い程度の資金でデコを獲得した彼はさっそくベンフィカへ連れて帰る。デコは18歳になっていた。だが当時の監督であるグラハム・ソウネスというイングランド人の趣味にあう選手ではなかった。監督が起用したくないというのなら仕方がない、どこかへレンタル移籍させるしかない。アントニオは二部カテゴリーに所属するアルベルカというクラブにデコをレンタルさせる。最初のシーズンに大活躍するデコだが、2年目を半分過ぎた頃にはもうアルベルカにはいない。サイゲイラスというクラブで残りのシーズンをプレーし、そしてその翌年にはオポルトに移籍することになる。何年か後にベンフィカが気づくことになるが、実はアルベルカからサイゲラスへのシーズン途中での移籍はオポルトの“策略”だった。

当時の、そして今でもデコの代理人を務めているホルヘ・メンデス。彼はなかなかのやり手だ。マルケスの代理人でもありクアレスマの代理人でもあり、そしてデコの代理人でもあり、オポルトの多くの選手の代理人でもある。マルケスとクアレスマをバルサに連れてきた昨シーズン、そして今シーズンはデコをバルサに、そしてクアレスマをオポルトに移籍させて大いなるコミッションを懐に入れている優秀な選手代理人。だが今は当時の話に戻そう。その彼にデコ獲得を狙っているオポルトが接近してきたのはデコがまだアルベルカにレンタルされたシーズンの最後の頃だ。彼を高く買っていたオポルトだが、ライバルクラブであるベンフィカ所属の彼を直接アタックするとなると高い移籍料をふっかけられるのは目に見えている。そこでオポルトと親密な関係にあるサイゲラスというクラブに一度移籍させ、それからオポルトに連れてこよう、そういう策略だった。事実、サイゲラスがデコの移籍料としてベンフィカに支払った額は、お小遣いに少々のお小遣いを足したような額だった。

22歳でオポルトに入団したデコ。当時のオポルト監督であるフェルナンド・サントスはデコを非常に高く評価していた監督だった。彼は最初のシーズンからデコをスタメンとして起用し始める。通算5シーズンにわたってオポルトに在籍することになる彼だが、獲得したタイトルはスペクタクルだ。三回のリーグ優勝、三回のカップ戦優勝、三回のスーペル・コパ、そしてUEFAカップとオポルト17年ぶりのチャンピオンズ優勝を飾っている。

「バルサでプレーすること、それが自分の願い。クラブやメディアからの多くのプレッシャーがあることも確かなことだけれど、最終的に移籍先を決めるのは自分であり今はどうしても自分の思いを実現したいと思う。」
バルサでプレーしたいというデコの意思表示がバルサ入団を可能にした原因の一つだろう。だが、フラン・ライカーにとってデコの獲得は優先事項ではなかったのは明らかだ。昨シーズンのロナルディーニョに続いて、彼は“今シーズンのメディアクラック”としてクラブが動いて獲得した選手。それでもフラン・ライカーにとってシーズンが開始されるにしたがってデコは重要な選手の一人となる可能性は大だ。彼はユーロ2004の大会で最もファールを受けた選手であり同時に最もファールを犯した選手。そして昨シーズンのポルトガルリーグでは相手のボールを奪った回数が最も多い選手であり、チャンピオンズリーグでもその回数が最も多い選手の一人という記録が残っている。

スエルテ!アンデルソン・ルイス・ダ・ソウサ“デコ”!
ブエナ・スエルテ!