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6月の末、バケーション中のエリック・アビダルは突然バルセロナにやって来ている。まだバルサとリヨンが彼の移籍をめぐって厳しい交渉をおこなっている最中だった。リヨンは移籍料として2000万ユーロを要求し、それに対しバルサのオファー金額は1300万ユーロ、この金額の大きな差が両者間の交渉を難しいものにしていた。 このアビダルのバルセロナ訪問という事実は、彼からのリヨン関係者に対するプレッシャーと言ってもいい。もうクラブに残る意思はないという、暗黙の脅迫行為としてのバルセロナ訪問だった。そしてこの瞬間から、バルサ・リヨン両者間での交渉が急激に進展し始めた。リヨン側としてはいつまでも2000万ユーロという移籍金額に固執することは無駄であり、彼らとしても譲ることを強制された。そして最終的に移籍料1500万ユーロというところで両者間の合意が得られることになる。 カリブ海に臨むアンティラナ・デ・ラ・マルティニカ島で生まれ育ったアビダルの両親たちが、仕事を求めてフランスにやって来たのは1970年代。そして最終的にリヨンの街に居をかまえることになる。1979年7月11日、エリック・アビダルがこの街で誕生する。貧しい移民の家庭で育った彼は、いわゆる“フランス・フットボール・アカデミー”による近代的なシステムのもとで成長してきたフットボール選手ではない。小さい頃から狭い路地でボール蹴り遊びをし、気がついてみれば近所のフットボールクラブに入り、そしてそのプレーぶりに興味をもった地元の大きなクラブに入団していく、そういう過程を経てきた選手だ。 地元の大きなクラブと言ってもオリンピック・リヨンには入団できなかった。何回も入団テストを受けながらもそのたびに“ノン”の返事が返ってきたという。20歳という年齢で始めてプロ契約を結んでいるから決して早いほうではない。そのクラブはリヨン・ラ・ドゥシェレという。だが、彼が本格的にその名を知られるようになるのには、2年間プレーしたモナコ、やはり2年間プレーしたリージャでの活躍以降だ。そしてその活躍を見逃さなかった“地元”リヨンがついに彼の獲得に興味を示すことになる。2004年の夏、25歳となっていたアビダルが地元に帰ってきた。モナコで知り合った奥さんも一緒だった。そしてそれから3年後、バルセロナにやって来た彼には、奥さんのハイエとの間にもうけたメリアーナとカネリアという2人の子供も一緒だった。ちなみに家族そろってイスラム信者だ。 1500万ユーロという移籍料は、バルサのデフェンサ選手としては歴代2番目に高額なものとなっている。もっとも彼が入団してきてから1か月もたたないうちに歴代最高の移籍料で入団してきたミリートがいるから、今では3番目となっている。アビダルが入団してきた段階で一番の高額移籍料選手は、奇しくも同じフランス人選手であるクリスタンバールだ。ガスパー会長時代にレシャックに惚れられてやって来たクリスタンバールの移籍料は1670万ユーロだった。 「守備体制に入るときは100%ラテラル選手として、そして攻撃に参加するときには100%エストレーモ選手としてプレーできる自信がある。」 バルサとは4年契約、違約金9000万ユーロ。そしてオリンピック・リヨンに支払われる移籍料1500万ユーロの支払い方法は次のようになっている。 スエルテ! アビ! |