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「ヤヤ・トゥレではなくトゥレ・ヤヤと呼んで欲しい。なぜならこれが生まれた時からの自分の姓名だから。」 ヨーロッパ各国では(たぶん)例外なく、名前が先に来て苗字が後に来る。例えば日本で生まれ育った山田太郎君は、ヨーロッパに来るなりタロウ・ヤマダ君として呼ばれることになる。だが、トゥレ・ヤヤの生まれ育った国コスタ・デ・マルフィルは日本と同じように苗字が先に来て名前が後に来る。したがって山田太郎君はコスタ・デ・マルフィに行ってもヤマダ・タロウ君であり続ける。まあ、山田太郎君のことはどうでも良いとして、トゥレ・ヤヤはスペインに来て本来の自分の名前に戻ることを決意した。そしてそいうことにはまったくもってアバウトなラテン国スペインにおいては、何の問題ともならない。こうしてヨーロッパに渡ってきて以来6年間ヤヤ・トゥレだった男が、ピレネー山脈を越すことにより本来の自分の名前に戻った。メデタシ、メデタシ。 トゥレ・ヤヤは1983年5月13日にコスタ・デ・マルフィルで誕生している。そしてバルサに入団する前の“ヨーロッパ修行”を開始したのは彼が18歳の時だ。ベルギーのベベレンというクラブがヨーロッパ最初の修行クラブだった。このクラブでは2シーズン半ほどプレーし、70試合に出場している。その彼が目指した第二のクラブは兄のトゥレ・コロがプレーしているアーセナル。2004年1月、ベンゲル監督率いるアーセナルのテストを受けるトゥレ・ヤヤ。だが時期が悪かった。旬の時期を迎えているビエイラに加え、アーセナルはジルベルトを加入させたばかりだった。 イングランドがダメならウクライナがあるさ、そう思ったのかどうか、トゥレ・ヤヤはドネツクというクラブに入団する。寒さになんとか鍛えられたかと思ったベルギー生活だったが、ウクライナでは凍えるほどの寒さを経験する。1シーズン半の凍える寒さを経験し33試合に出場した彼は、燃えるような太陽を求めて、かどうか、今度はアテネにあるオリンピアコスに移籍。そしてリバルドと一緒に1年間だけプレーしたジプシー・ヤヤは、翌シーズンにはモナコに移籍。ここでも1シーズンだけのプレーとなっている。 トゥレ・ヤヤは今回バルサに入団するためにバルセロナに訪れたが、これは2度目のバルセロナ“訪問”となる。モナコの同僚である元バルサ選手ジェラールの兄の葬式に参列するためにバルセロナを訪れたのが最初だ。そのジェラールが語る。 これまで彼が在籍してきたクラブで、ライカーバルサが必要とする“4番”の位置でプレーしたことはない。常にドブレピボッテの一人として、あるいは左インテリオール選手としてプレーしてきている。チキやライカーが基本的に彼に要求するポジションは“4番”であろうから、彼にとっては初の経験と言って良い。 バルサとは4年契約、違約金9000万ユーロ。そしてモナコに支払われる移籍料900万ユーロの支払い方法は次のようになっている。 スエルテ! トゥレ・ヤヤ! |