アディオス、リトゥマネン!
(2001/1/5)

ジャリー・リトゥマネンは1999年8月、「ヨーロッパフットボール界における最高の選手の一人」という評判を掲げて、彼の理解者の一人であるファンハールのいるバルセロナに、鳴り物入りで登場した。そしてそれから約1年と半年たった昨日2001年1月4日、多くのバルサソシオ、バルサ関係者の安堵のため息と共にバルセロナを後にすることになった。それは6億ペセタという高額な年俸を得ていることを知っているソシオはもとより、コーチ、指導部は彼のお粗末すぎた成績(バルサ選手として32試合出場4ゴール)に落胆の思いをしていたからである。バルサは移籍料として定められていた40億ペセタを放棄してまでも、彼をリバプールに移籍させたという事実がそれを物語っている。
数多くのタイトルを獲得したアヤックスの選手として活躍したリトゥマネンは、バルセロナと契約したときに「私の子供時代の憧れのチームはバルサとリバプールでした」と語ったが、そのリバプールにバルサが彼に与えた「移籍無料」の特権をひっさげて、2003年6月までの契約を得たのである。

彼のバルサへの移籍は、元会長ジョセップ・ルイス・ニュネスの最後の何年間に行ってきた「契約切れになった選手の獲得」を最優先に狙う、という補強作戦の一つであった。この獲得手段は確かに莫大な移籍料を払わなくてすむ代わりに、その見返りとして高額な年俸を要求される、という性格をもちあわせている。これが、リトゥマネンの異様なまでに高い年俸の理由である。そして他の選手とのバランスがとれないこの「高額年俸」は、すでに在籍していたスター選手(リバルド、フィーゴ等)達による自分達の年俸の「再調整」を、後に要求される原因ともなるのである。

リトゥマネンは1991年にバルサのテスト生として、何回かのテストを受けている。だがヨハン・クライフは「外国人は3人まで」というUEFA の決まりによって、獲得を断念している。当時プレーしていた3人の外国人はストイコフ、クーマン、そしてラウドゥルップ。彼の入る余地はもちろんなかった。
ファンハール就任3年目、つまり1999年の夏、ますます「1995年アヤックス化」を推進しようとしていた彼にとって、リトゥマネンは欠かせない存在であった。「想像力の欠如」と言ってしまえばそれだけの話だが、ファンハールにはヨーロッパ、南米における選手事情に通じていないところがあった。「今まで自分の下でプレーした選手」、彼のコンピューターの中には、情報はあまり余るほどはいっていたにも関わらず、信用できるのはその選手だけであった。リトゥマネンはファンハールがバルサに来てから、6人目の元アヤックス選手である。
ファンハールにとってリトゥマネンは、アヤックスから抜けたデニス・ベルカンプの穴を完璧に埋めてくれた選手であり、そして何よりも、それまでクライフの持っていた「ヨーロッパ選手権におけるチーム最高ゴール数」を「リトゥマネンのゴール数23」と塗り替えてくれた恩人でもあった。アヤックスの歴史の中に数多く残るクライフの記録が、一つ消えたことはファンハールにとって大きな意味を持つ・・・だろう。

だが99ー00のシーズンに、アヤックス・カタランのキーポイントになるはずだった彼は、ケガにつぐケガにより「病室に横たわる高額取り」となってしまう。これは彼がバルサと契約した時に、誰もが恐れたことではあった。何故なら以前からバルセロナでは「ガラスの脚を持った男」と呼ばれていたからだ。ただ誰もが予想できなかったことは、「これほどまでに普通、ケガするか〜?」ということだった。事実、彼はグランドに通うより、医務室に通う日々のほうがはるかに多かったようだ。

セラフェレールは、彼を公式試合に一回も使っていない。リトゥマネンの獲得に伴い、「個性の強すぎる」ルイス・エンリケを追い出そうと画策したファンハールとは違い、彼にはエンリケの方が遙かに期待できる選手であった。リトゥマネンの最後の公式試合は去年の5月19日のセルタ戦までさかのぼらなければならない。それ以来、唯一の試合は11月29日カンプノウで行われた「反ドラッグ」の試合である。

ところ変われば評価変わるということで、リバプールのマネージャー、ジェラール・フーリエーは「我がクラブの歴史に残ることになるであろう、偉大な選手の獲得」というように語っている。
「私達は今、世界的クラスの選手であり、もちろん今更紹介する必要のない選手を獲得するのに成功した。彼はどこのポジションでもプレーできるし、彼の補強によって幾つかのシステムを採用することが可能になった」

リトゥマネンのバルサにおける活躍は、期待を裏切るものであったことは間違いない。それは度重なる故障により、試合出場の継続性がなかったことなどが原因だろうが、彼のチーム内における「存在性」のなさも決して否定できることではないだろう。アイスホッケイの方が似合う「氷の表情」を持ったリトゥマネン。地中海に面しているクラブチームには合わなかったようだ。ファンハール・ヌニェス政権における象徴の一つとしての存在であった彼は、フェレール・ガスパーによる新政権の今、彼の備えている才能以前の問題として、処理されてゆく。

来月で30才を迎えるリトゥマネンが選手として下り坂にきていることは間違いないとしても、故障なく何試合か続けて出場し、自信が戻ってくればまだまだ捨てた選手ではない。歴史あるチームとはいえ、バルサほどのプレッシャーも難しさもない新天地で、再び活躍できる可能性はじゅうぶんあるだろう。

アディオス! ブエナ・スエルテ!!!

----1月5日付け「エル・パイス」紙の記事を元に----