解毒マン、セラフェレール
(2001/1/27)

セラフェレールには、同情の余地がある。ロナルドクーマンがこのように言うのは当然のことだろう。
まず第一にクラブの会長選に当たった年に監督を引き受けるはめになったために、チームのプランニングをする時間がほとんどなかったこと。普通ビッグチームは遅くとも春までに次のシーズンのプランニングをするものだが、彼が監督を引き受けたのは夏だった。
第二に、ユダ・フィーゴのマドリへの逃亡事件により、かなり政治的な選手獲得方針を強いられたのは今では既成の事実であろう。元マドリのアルフォンソ、バルサファンに最も愛されていたデラペーニャ、そしてカンテラ出身のジェラール。セラフェレールのイメージする新たなバルサの中に、彼らが必要とされていたかどうかは別として、誰しもが暗黙の了解で「政治的な補強」と感じていたのは確かなことだ。事実多くのファンがユダ・フィーゴの抜けた後の怒りと心の隙間を、彼らの新たな加入によって少しは埋められたはずである。
そして第三に、最も大きなものとして、ファンハールの後をついだことである。それはヨハンクライフが、彼にとってもまたファンにとっても非常に不本意な形でバルサを出ていった後に起用された、ボビーロブソンと同じ状況を抱えなければならなかったことだ。

ロブソンは2年契約でクライフの後を次いだが、誰もが1年限りの監督だと思っていた。それは明らかに、それまでバルサが目指してきたフットボール方針とはほど遠いアイデアの持ち主であり、どうみてもクライフとクラブ指導部の対立によりゴタゴタしてしまった状況を、今一度正常に保つための「常識をもった、カリスマ性のない、ごく大人の監督」として期待されただけの人であった。そして次に来るであろうファンハールへの橋渡しを果たせばよい。リーグ優勝は逃したものの、カップウイナーズカップ、コパデレイの二つのカップを獲得し、見事その役目を達成する。

このロブソンとセラフェレールの抱えた同じ状況とは、果てしなく「あく」が強く、さらに毒をもった前監督の後を引き受けなければならなかったために「解毒剤」的役割を強いられたことである。それは、すぐに来るであろう次の監督までの橋渡し役でもあった。ただこの二人には大きな違いがある。ロブソンは指導部がクライフを忘れるのために用意した監督であったのに比べ、セラフェレールはファンの人々がファンハールの亡霊を消し去るために支持した監督であった。しかもマジョルカ生まれとはいえ地元同然の人間であり、何よりもバルサの何たるかを身に染みて知っている自他共に認めるバルセロニスタである。ここにセラフェレールの大きな強みがある。

セラフェレールはマジョルカ、ベティスを率いて成功を収めた時、4−4−2システムを採用し、どちらかといえばカウンターアタックを得意としていた。それがバルサではシーズン当初3−2−3−2システムという攻撃的なシステムで戦っている。
それはなぜか?
想像の範囲をこえないが、一つはバルサの伝統的な攻撃システムを継続させたかったこと、もう一つは自分のシステムに選手を押し込めるのではなく、選手の持っているキャラクターに合わせてシステムを採択したこと、ではないだろうか。もしそうだとすれば彼は「名監督」である。フットボールはあくまでもプレーヤー個人の才能によって展開していくものであり、各選手の才能を発揮できるシステムを採用するのが監督の役目であるとすれば、彼は紛れもなく「名監督」である。

彼は現在、4−2−3−1というシステムで戦っている。その結果14試合負け知らずという、あのファンハールでさえ成し遂げなかった記録を作った。多分このシステムは彼の得意とする守備的フットボールと、二人のウイングを使った攻撃的フットボールの合体商品なのだろう。だが結果はいい方向にでているものの、試合内容はいまのところ、心ウキウキという感じにはほど遠い。はっきり言って、スペクタクルなフットボールとはとても言えない試合内容である。これが時間の問題なのか、はたまたこういうものなのか、それは6月までわからない。ただ一つ分かっていることは、選手達の異常なまでの「やる気」と、ファンのタイトルにかける期待である。

スペクタクルなフットボールに慣れているバルサファンが、しかもチャンピオンズリーグに早々と撤退し、マドリに6ポイント差で首位を奪われているというのに、なぜセラフェレールに反旗を翻さないか? 
まず、彼は長期政権ではないということを知っている。クライフバルサやファンハールアヤックスが初のタイトルをとるのに3年もかかっているのだからという悠長論で彼を庇護しているわけではない。今まで展開されている「一生懸命フットボール」に惚れきっているからではもちろんない。それはひとえに、ファンハール時代の亡霊を消し去りたいからである。監督がファンハールであれ誰であれリーグ優勝はバルサファンにとって、最大の勲章である。それはレアルマドリに勝ったことをしめすからだ。だがもうファンハール時代のカップは歴史の中に葬りたい。それには新監督によるタイトルがどうしても必要だ。タイトルはシーズン終了までわからない。「今日のスペクタクル」じゃなく「6月のタイトル」が亡霊をこっぱみじんにする最大の要素だ。

試合内容がどうでもいいわけはない。スペクタクルな内容にこしたことはない。だが、スペクタクルはそのうちやってくる。今は結果が最大ポイントだ。しかも今まで感じられなかった選手達の真剣さ(これをファンハールがいなくなったことと無関係と誰が言えよう)や、昨年まで「バルサでプレーするオランダ人」から「バルサでプレーするバルサ選手」に変化してきたチューリップ人にもファンは感謝している。そのような環境を作ってきたセラフェレールにももちろん感謝している。
スペクタクルなフットボールは最高だ。だがそれ以上の大事なもの、それはファンと選手・クラブが一つになること。そしてマドリが3位や4位ではなく、2位となってバルサが優勝すること。バルサファンにとってこれ以上スペクタクルなことが他にあろうか。

セラフェレールが名監督かは意見の分かれるとこだろうが、共通している思いは「カリスマ性」のなさということだろう。長期政権のバルサの監督にはカリスマ性が絶対必要だ。しかもバルサの歴史的特徴を生かしてくれる監督。クーペルやカッペロのカリスマ性はいらない。やはりなんといっても、クーマンなのだ。