グルセッタ事件
(2001/3
/7)

土曜日のダービー戦における審判のミスジャッジは、カタラン人だけではなく多くのスペイン人が忘れかけていた亡霊を起こしてしまった。レアル・マドリが政府お抱えチームとなっていた、フランコ独裁政権時代の「亡霊」である。今から31年前、カンプノウでおきた「グルセッタ事件」、カタルーニャにおいて、親から子へ、世代を通じて語り継がれて、そして今後も語り継がれていくであろう逸話だ。

1970年6月6日、カンプノウでは10万人の観衆が試合開始を今か今かと待ちうけていた。相手は宿敵レアル・マドリ。国王杯(フランコ独裁政権当時は<コパ・デ・ヘネラリシモ>つまり<ヘネラル・フランコ杯>という名称で呼ばれていた)の準々決勝の試合だった。一週間前にベルナベウで行われた第一戦ではレアル・マドリが2−0でバルサを敗っていた。

1969−70のスペインリーグは既に4月に終了し、アトレティコ・マドリが優勝していた。バルサ4位、レアル・マドリ6位と両チームとも不甲斐ない結果に終わっているだけに、このカップ戦にかける意気込みはお互い負けないものがあった。試合の審判を務めたのは、このシーズンにデビューしたばかりのエミリオ・グルセッタ・ムーロといい、バスク地方出身の若者だった。

ベルナベウにおける試合でレアル・マドリがあげた2点めは、明らかなオフサイドであった。その事が、ただでさえ騒然となるカンプノウを更に熱く燃え上がらせていた。10万観衆の途切れなく続く熱狂的な叫びの中、試合はバルサがボールを支配するバルサペースで進められ、前半終了した時にはレシャック(クライフ時代のサブコーチ、現バルサ職員)のゴールにより1点リードし、準決勝進出への望みをみせていた。しかし後半始まって間もなくの6分、「グルセッタ事件」がおきる。レアル・マドリのベラスケスが自陣でバルサのボールを奪い、ディフェンスをかわして一直線にバルサキーパーのレイナ(現バルサのキーパー・レイナのお父さん)に向かっていく。それを追いかけていくのがディフェンスのリフェ。ペナルティーエリア3m前でリフェはベラスケスに追いつき、後ろからのタックルでベラスケスを止めるものの、ファールをとられる。ここまではよくあるシーンの一つにすぎなかった。だが審判のグルセッタは「ペナルティー」を宣告する。ペナルティーエリアまで3mのファールであり、しかも彼は35mも後ろを走っていたのにである。

グルセッタは、観客席から飛んでくる座布団の雨の中を走って線審に近づき、数秒の協議ののちペナルティーエリアに走り込みペナルティーの再確認を示した。バルサ選手は当然ながら抗議にでるが、グルセッタは取り合わない。レシャックをはじめ、リフェ、レイナ達は更に強くなった座布団の雨の中、怒りをむき出しにしながらベンチに戻ってしまった。もうこんな判定にはウンザリだという意思表示であった。だがバルサの監督ビック・バッキンハムの説得により選手達はグランドに戻り、試合再開となる。笛が吹かれた。マドリのアマンシオがゴールを決める。そして次の瞬間、バルサのエラディオにレッドカードが示される。「マドリの味方をして、恥ずかしいとは思わないのか」という一言が、レッドカードになった。カンプノウに集まった10万観衆はいったいなにが起きてるのかわからない。その中に、マヌアル・バスケス・モンタルバンという文学者がいた。彼はこの試合のあと、「トゥリンフォ」という雑誌に「カンプノウにおける愛と戦争の夜」と題して、次のようなコメントを載せている。

「試合再開後、グルセッタは座布団を取り除くために、何回も試合を中断しなければならなかった。しかし、それは意味のないことだった。2千、3千の座布団が投げ込まれていたからだ。そしていつの間にか、最初の何人かの観客がグラウンドに進入してきた。それは審判に暴力を振るうためのものではなく、選手達に<もう止めろ>と説得しに来た人々であった。やがてグラウンドは5千人にものぼる人々によって埋められた。グルセッタは突然、控え室めがけて、そう、まるで100メートル競走の選手のような勢いでグランドを走り抜けていく。誰も彼には触らないし、また追いかけもしなかった。なぜなら、グランドはすでに、お祭り会場と化していたからだ。1万、2万人と膨れあがった人々による<バルサ! バルサ! バルサ!>の叫びと共に、クラブの旗が振られ、バルサ首脳陣や時の政府関係者が陣取る貴賓席に近づいていく。そしてその貴賓席の中にも、涙を流しながら<ついに! ついに!>と、囁かれるのが聞こえる。」<ついに>の後に続けられる言葉<自由><解放>は、決して口に出してはならない時代であった。
「今までに経験したことのないスペクタクルであった。夏の夜に、芝の濃い緑色が映え、その上に無数のアスール・グラーナ色の座布団がちらばり、その間をぬってバルサの旗を掲げた人々が体中のエネルギーを吐き出しながら叫び、走る。そして少年達は座布団をボール代わりにして蹴り合っている。今夜は民衆によるお祭りだ。不条理な抑圧に耐え、一時の自由を楽しむ民衆のお祭りだ。人々にとってこの試合の勝ち負けは、もうどうでもよかった。<バルサ! バルサ! バルサ!>それは自由と解放の合い言葉であった」
「グランドの警備にあたっていた警察官は、選手の控え室に通じる入り口に待機していた。彼らが人々に介入する必要性はまったくなかった。なぜなら、人々は<バルサ!>の叫びと、クラブの旗をふっているだけで、誰かに危害を加えるというものではなかったからだ。だが権力による暴力的介入が、突然始まる。多くの人々が血を流し、傷つき、倒れる。<人殺し!><人殺し!>の叫びがグランド中に響きわたるなか、警察官による容赦ない暴力行為が続けられた」

当時のバルサ会長、アグスティ・モンタルは記者会見を招集し、次のように語った。
「何十年にもわたって、審判協会、フットボール協会、そしてすべての責任あるスポーツ協会が、フットボール場で起こってはならない事を見て見ぬ振りをしてきました。我々、すべてのバルサソシオ、バルサシンパは、今回のグルセッタ審判の恥ずべきそして不公正な行いにより、限りなく深い傷を負っています。我々はいつのシーズンにおいても、このような納得のいかない扱いを受けてきました。今ここに要求します。特別な配慮は一切望みません。あくまで公正な判断の元に、我々に対する制裁を決定して欲しい。それだけです」

この声明は1970年という時代を考えると、非常に大胆なものであった。それはバルサの会長、理事会自体がフランコの意のままに動く「ダミー人形」によって構成されてた故に、このような発言は歴史上皆無であったからだ。結局、バルサに対する処分は、今後二度と同じような事件を起こさないという条件の下に、経済的制裁だけに終わる。フランコが死ぬまで余すところ5年、独裁政権はほんの少しではあるが力を落としてきていた。