審判物語
(2001/3/15)

フットボールの試合に欠かせない存在として、審判という職業がある。彼らにはフットボール選手と違いファンもいなければ、もちろんファンクラブもない。ここ何年かのフットボール協会の見直しで、ギャラは上がったとはいえ、かつての黒いユニフォームからくる「暗い存在」のイメージは今もって変わらない。一体こんな職業をなぜ選んでしまったのか、ちょっと知りたくなった。

「歴史的略奪」「泥棒行為」として、試合そのものより審判が主役になってしまったマドリ・バルサ戦であったが、その話題の主人公ロサント・オマール氏のおかげで、最近メディアの間で審判のことが話題になっている。それは歴史上始まって以来のミスでもなければ、シーズンを通して1回か2回おこるミスでも何でもなく、とてつもなく日常茶飯事に見られるものではあったが、ダービー戦でのミスということで、世の中の話題をさらってしまった。テレビ中継がなかった時代はもちろん、テレビ放映開始時期のようにカメラが1台か2台であれば、そしてまさにスローモションなんてものがなければこのように、一つ一つの審判の判断がマスコミを騒がすこともなかったであろう。しかし、彼らはこの職業を選んだ。それぞれのきっかけ、理由は次のようなものであった。

カンプノウでバルサ・マドリ戦で審判を務めた、アルフォンソ・ペレス・ブルール(サンタンデール出身、35歳)は次のように語る。
「学生時代は腕白小僧で、いつも教室の外に出されていました。特にフランス語の先生に目をつけられていて、彼の授業の時は、まず間違いなく廊下に追い出されていたんです。でもある時、廊下をブラブラしていたら、例のフランス語の先生がやってきて、『おい、暇だったらこれからクラス対抗のフットボールをやるから、おまえ審判やれ』って言われたのが、この道に入るきっかけみたいなものです」

つい先日バルサ・マジョルカ戦の笛を吹いたアンドラーダス・アスルメンディ(ナバーラ出身、44歳)は陸上選手だったと言う。
「中学生時代は高飛び選手でした。将来はオリンピック選手になるのが夢でしたね。でも15歳の時に、学校のフットボールチームの審判が何かの理由でいなくなってしまい、シーズンが終わるまでの残り3カ月だけという条件で依頼を受けたのが始まりで、今ではもう30年もやっています。はい」

コマーシャルにつられて、というのはマラガ・バルサ戦を担当したアンスアテギ・ロカ(カステジョン出身、44歳)。
「私はパンプローナの薬学部の学生だったんですが、ある日廊下を歩いていたら『もし君がフットボールが好きなら、審判のテストを受けてみないか?』ってあったんです。これで私の人生は変わりました」

同じような理由を語るのはバルサ・ソシエダー戦の審判を務めたトゥリエンソ・アルバレス(ビスカヤ出身、34歳)
「15歳になったばかりの時、ビルバオラジオ局から流されていたスポット『あなたも審判になってみませんか?』を聞いたのがきっかけです。フットボールは大好きでしたが、自分には才能ないと思っていましから、走って応募にいきました」

こういう「ちょっとした事がきっかけで」というのではなく、「正統派」の人々ももちろんいる。審判業を「家業」として、代々受け継いでいる人々だ。例えば0−6のソシエダー・バルサ戦でのガルシア・アランダ(マドリッド出身、45歳)はお父さんが審判だった。「週末は小さい頃からお父さんが笛を吹いている試合の見学をしていました。もちろん将来はお父さんのようになるのが夢でした」。やはりお父さんが審判をやっていたのが、セルタ・バルサ戦のムニス・エルナンデス(オビエド出身、36歳)。彼の場合は3部リーグで親子一緒に笛を吹いたこともあるという。

そしておじいさんの代から審判を受け継いでいる人々もいる。バルサ・バジャドリ戦に登場したメヒア・ダビア(マドリッド出身、34歳)、バルサ・コルーニャ戦のメディーナ・カンタレッホ(セビリア出身、36歳)達がそうだ。

こうしてみると、当初カピタンが予想したような理由とは大分違うことがわかってきた。想像されたことは、例えば、

スター選手を誰よりも近くで見たかった。
世の中、白と黒しかないと思っているので。
正義感の固まりで、しかも仲裁に入るのが好きだった。
人に誹謗されたり、暴言を吐かれたり、すごい剣幕で近寄られたりすると、とてつもなく生き甲斐を感じる。
大勢の人間から怒鳴られたりブーイングされると気持ち良いという、エグい性格だから。
プレー中の選手のサインが欲しかった。

というような答えを期待していたのですが、残念ながら誰しもが自分の人生の過程で覚えがあるような、平凡な理由でありました。彼らも私たちと同じ人間であったという、今日は柔らかい話題でした。