フィーゴの真実 [ジョウ]
(2001/4/23)

ルイス・フィーゴと、彼の友人であり代理人でもあるホセ・ベイガ。彼らが共同作業をしていく上で基本となるものは「フィーゴの選手寿命が続く間、有効にできるだけ多くの財産を築く」ということであった。この一点において、彼らは色々なクラブを利用して現在に至っているのである。誠実さ、友情、約束、そしてセンチメンタリズムなどというものは、すべて二の次の問題であった。だが、フットボール・ビジネスが巨大化してしまった現代において、彼らはほんの氷山の一角なのかも知れない。

彼らが作り上げるスキャンダラスな歴史は、1994年に始まる。バルサと契約するに至る半年前である。スポルティング・リスボアの選手であったフィーゴは、この年のレアル・マドリ戦(UEFAカップ)での活躍をもってヨーロッパの人々に知られるようになる。だがイタリアのクラブは1991年のアンダー20のワールドカップにおける彼の活躍から、注目し始めていた。

スポルティング・リスボアも、他の多くのポルトガルのクラブと同じように重大な経済的問題を抱えていた。この年に契約切れとなるフィーゴへの再契約問題も、なかなか進まない状況であった。そこへ、ユベントスが正式なオファーを持って現れる。ユベントスは選手個人と交渉する前に、所属しているクラブへ最初のオファーを持っていくという、礼儀正しい交渉手段を使ってきた。クラブへのオファーは5億ペセタであった。クラブはもちろん、その話しを受けたベイガも了承する。ユベントスとフィーゴの間の交渉に時間はほとんど必要なかった。フィーゴ、ベイガ、そしてユベントスの代表者立ち会いのもと、仮契約書がかわされた。

この仮契約からたいしてたっていない1995年の1月、パルマの親会社のパルマラットを代表して、パストレーロがベイガに接触してくる。それはユベントスがフィーゴに示した額を上回るオファーであった。フィーゴとベイガの「一種独特の道徳観」をもってすれば、一度サインしたユベントスからパルマに乗り換えるのに、それほどの時間も討論も必要としなかった。彼らは突如としてスポルティング・リスボア会長を、あらゆるメディアを利用して攻撃し始める。「彼は我々の知らないところでユベントスと交渉し、我々を売ろうとしている。」これが彼らの批判内容であった。

「一種独特の道徳観」を持つ彼らは、パルマと契約するのになんの逡巡もなかった。「ユベントスとの仮契約は無効だ」という、彼らの正当性を主張する根拠を理解するのは、常人には非常に難しいことだ。だがフィーゴはパルマとの本契約書(仮契約書ではない)にサインする。

ユベントスとパルマはイタリアフットボール協会に、それぞれフィーゴとの契約書を提出する。驚いた協会は両クラブに話し合いを持つように勧告するが、両クラブともいがみ合いを続けたまま何の解決も見いだされないので、結局協会裁定ということになった。協会はフィーゴに対し、2年間のイタリアでのプレー禁止という結論をだした。ユベントス、パルマとも裁定に従うしかない。しかし、これはフィーゴにとって、別に初めての事件ではなかった。彼がジュニアの選手時代、すでに2重契約問題(ベンフィカとスポルティング・リスボア)で制裁を受けている。この時はポルトガルフットボール協会は、彼に45日間の制裁を加えている。

2年間イタリアではプレーできないものの、フィゴーはパルマとの本契約書にサインしているため、彼は翌シーズンからの「幻のパルマ選手」であった。マドリの会長ラモン・メンドーサにフィーゴ契約の話しを持っていったものの、当時のマドリ(今もそうだが)には契約資金がなかったため、ベイガはバルサに声をかける。

パルマ代表、ベイガ、ガスパー、三者立ち会いのもと会議がもたれた。その内容はつぎのようなものだった。
・バルサはスポルティング・リスボアに対し3億5千万ペセタの移籍料を支払う。
・もし2年後にフィーゴがパルマに行く場合は、パルマが3億5千万ペセタバルサに支払う。
・2年後にパルマに行かない場合、バルサは「フィーゴの権利」譲渡料としてパルマに2億2千万ペセタの支払いを義務づけられる。
・フィーゴの年俸は1億6千万ペセタとする。

1995年の夏、フィーゴは「夢に見た世界最高のチームに入団できて、本当に幸せです」と、バルサ入団発表記者会見で満面に笑みを浮かべて語った。一方、スポルティング・リスボアの会長は、フィーゴの理解できない行動に責任をとらされ、同じ夏、辞任している。また、FIFAはどこのクラブからも「要請」がなかったためこの件には乗り出すことはしなかったが、会長のブラッターは「一度に3つの契約をするということがあり得るのか。まったく嘆かわしいことだ」という個人的なコメントを残している。

バルサは1年後の1996年の夏に「フィーゴの権利」をパルマから買っている。パルマがなぜ簡単にフィーゴの獲得を諦めたのか。それは、法律的に彼らの所有している契約書が合法的か否かという、ためらいがあったというのが大方の見方であるようだ。裁判所に行ってもめるより、ゲンナマを受け取った方がいいということだろう。結局フィーゴは4年契約(1999年まで)、移籍料12億となった。しかし、この半年後またしてもベイガが動きだす。「フィーゴに興味を示すクラブに売って、年俸を上げるか」あるいは「他のチームが獲得に乗り出しているという口実に、年俸を上げさせるか」2つに1つ。どっちに転んでも結果は同じ「年俸値上げ作戦」であった。

レアル・マドリの会長はロレンソ・サンツ、監督はカッペロになっていた。事実、カッペロはフィーゴの獲得に乗り気になっていたようだ。1996年11月、マドリのプレスが「レアル・マドリがフィーゴ獲得に興味を示す」というニュースを大々的に流す。

11月29日、ベイガはサンティアゴ・ベルナベウにいた。もちろん同席していたのはサンツ会長である。この日はフィーゴ側のバルサとの条件、つまり移籍料とか年俸に関する情報提供であった。この翌日フィーゴはポルトガルのメディアに次のようにコメントしている。
「私の代理人はマドリからのオファーを受けている。でも私は世界でも最高のクラブにいて、街も人々も気に入っている。バルサファンの人たち、安心してください。私は契約が切れるまで、どこにもいきませんから」

このコメントから2週間と経たない12月の始め、フィーゴはバルサ副会長のガスパーと新しい契約条件について交渉していた。彼をマドリにもっていかれてはラウドゥルップの二の舞となるという危機感がバルサ側に交渉を余儀なくしていた。この日の交渉後フィーゴは「私はバルサに残りたい。だが今日の様子では、なかなか難しいかも知れない」と語っている。しかしこの交渉後、マドリからのフィーゴに対するアタックは日ごとに薄れていく。一つはマドリに移籍料を払う余裕がなかったこと、もう一つはカッペロが来季もマドリに残る可能性が弱まってきたことと関係があるようだ。事実、翌年の1月、イタリアのメディアが「ミランがフィーゴ獲得へ」という情報を流すことになる(カッペロは翌年、ミランの監督にもどっている)。そして、交渉中のフィーゴに対し「何の契約書にもサインするな。こちらの条件を待つように」と連絡している。

こうしてフィーゴ・ベイガコンビは「白」から「赤・黒」にチームカラーを移していく。ベイガにとって、チームの色などどうでも良かった。マドリは資金不足、バルサはなかなかいい条件をだしてこない。次はミランであった。


MUND DEPORTIVO紙発行 「TODA LA VERDAD DEL CASO FIGO」から適当に抜粋し、訳しています