フィーゴの真実 [ゲッ]
(2001/4/27)

・2000年5月10日
バルサはチャンピオンズリーグの準決勝でバレンシアに敗れる。その日カンプノウに集まった観衆は、試合が終了するやいなや白いハンカチを振って不満を表明した。それはバルサ首脳陣、ファン・ハール監督にあてられたものであることは明らかだった。この試合の翌日、二人のキャプテン(グアルディオーラ、フィーゴ)が記者会見で次のように発言している。
「昨日のカンプノウのような状況の下でプレーするのは、非常に難しい」
この発言は、メディアによって色々な解釈のされ方をされる結果となる。「ファン・ハールの追放」「バルサ首脳陣とクライフとの問題解決」「プレスとの関係の正常化」「会長選挙の招集」etc.etc。だがヌニェスにとっては、22年間続いてきた長期政権の終焉を最終的に決意させる発言であった。

・5月13日
ムンド・デポルティーボ紙が、ヌニェスが今シーズン限りで辞任とのスクープをながす。このニュースが流れてからしばらくして、ベイガが新たなラッチオのオファーを持ってヌニェスを訪ねている。しかし、会長は辞任を決意したことにより、来シーズンに関することには交渉に応じられないと断ったという。

・5月21日
マドリ系の新聞ASが「ルイス・フィーゴ、レアル・マドリへ!」の記事を発表する。この翌日フィーゴは、バルセロナの「エスポーツ」紙にコメントを載せた。
「僕は何回も言っているように、マドリには行かない。それはバルサファンに対する裏切り行為になってしまう。そんなことは考えられないよ。もし何かの事情でバルサを離れなければいけないということになったとしたら、外国のチームに行くことになるだろう」

・5月25日
ベイガがヌニェスに対し、最後の交渉を試みる。これに対しヌニェスは「私にはすでに選手の年俸に関して、交渉する権限はない。仮にあったとしても、たった1年前に結んだ契約書を再び検討する気はまったくない」

ベイガからの報告によって、ヌニェスには交渉の意思がないことを知りつつ、フィーゴはユーロカップに向けてポルトガルナショナルチームに合流する。

・6月16日
「一種独特の道徳観」を持つベイガ。彼はかつて成功してきた常套手段を再び用いる。フィーゴに興味を抱くクラブとの仮契約の遂行。今回もラッチオが話しにのってきた。この日ベイガと共に、ラッチオ会長の息子マッシモ・クラグノッティ、そしてジェネラル・マネージャーのネロ・ゴベルナットがロンドンで最終的な交渉の詰めに入っていた。この会合の数日前、クラグノッティはオランダにいるフィーゴと個人的に電話で話し、すべて了承済みであった。フィーゴの年俸はバルサでの2倍、ネットで8億ペセタというものであった。この翌日、オランダでユーロカップを戦っているフィーゴはヌニェスに電話をしている。だがここでも「私には、あなたと交渉する権利はない。それはすべて、新会長の仕事だ」というコメントを受けるに終わっている。

この段階におけるバルサ会長選挙に向けた候補者は、ガスパー、バサット、カステールス、ジャウラドの4人であった。この4人の元にバルサの臨時マネージャーを務めるジャウメ・パレスからファックスが届く。「会長職不在の現在、候補者が集まりフィーゴの件について、ベイガを含め話し合いを持つべきではないか」というものだった。

その数日後、4人の候補者はカサ・ダリオというレストランに集まり会合をもっている。各候補者の一致する意見として、ベイガを含めての交渉はあくまでも新会長となった人物がおこなうべきもの、ということだった。それまで各個人でベイガ側と接触を持つことは自由であるものの、候補者共同意思として問題解決にあたることはしない、という結論に達した。

・6月24日
この会長候補たちの出した結論を知ったベイガ、フィーゴは、バルサ首脳陣に対して不信感を抱くことになる。翌日、トルコとの試合を控えたフィーゴは「誰も私たちの要求を聞いてくれない」と、不満を表明している。わずか1年前に、年俸引き上げの新たな契約をしたばかりなのに、である。

・6月25日
カタルーニャのテレビ、カナル33のスポーツ番組が「マドリの会長選挙に立候補しているフロレンティーノ・ペレスが、会長に選ばれた場合フィーゴの獲得に乗り出すもよう」という、センセーショナルなコメントを発表する。

だが実際にフロレンティーノが考えていたのは会長になってからのことではなく、会長になるための「公約」としてスター選手の獲得であった。最初に思いついたのはジダーンの獲得であった。だが年齢や、はっきりしない移籍料(セリエAでは各選手に移籍料というのが決められていない)のことを考えると、今、テレビの前(ユーロカップ)で活躍しているフィーゴの方がいいかも知れないという結論にたっする。彼はジダーンより若く、しかもライバルチームのスター選手である。インパクトは、はるかに強いかも知れない。こうしてレアル・マドリの会長候補フロレンティーノは、フィーゴに照準を絞った。

フロレンティーノはパオロ・フトレ(元アトレティコ・マドリ選手)を通じてベイガと交渉をもつことができた。フトレはベイガと同じポルトガル人であり、ベイガの個人的な友人でもあった。この最初のコンタクトは6月の末におこなわれている。だが、この時ベイガはこの話を半信半疑で聞いていた節がある。だがラッチオとの話が中途半端な形で停滞している今、その後もフロレンティーノとコンタクトをとる価値があるかも知れない。どうせ会長にはロレンソ・サンツが選ばれることになるだろうが、ここは一つ話しに乗ってみるか、とベイガは思う。

・7月1日
ACS商社(フロレンティーノの会社)に、ベイガ、フロレンティーノ、そして彼の弁護士ホセ・ルイスが集まって、フィーゴに関する基本的な契約書が制作された。それは3ページしかない簡単な書類であった。その中にうたわれているものは「ベイガはフットボール選手フィーゴのすべての委任を受ける」者であり、したがって「フィーゴに関わるすべての権限」を有し、この契約書は「フロレンティーノが7月16日の選挙において、レアル・マドリの会長に選ばれて初めて効力を発揮」する。また「フィーゴの年俸はネットで10億ペセタ、移籍料は300億」と定められ「契約期間は6年間」とされた。そしてその後、フィーゴがマドリに移籍するハメになるキーポイントとなった「もしどちらかが、この契約書に従わなかった場合、賠償金として50億ペセタを払うものとする」という項目があった。「一種独特な道徳観」をもつベイガは、何のためらいもなくこの者類にサインしている。フィーゴはこの日の会合には参加していない。したがって彼のサインは、その書類にはもちろんされていない。だが彼はベイガがACS商社で何をしていたかすべて理解していたし、ベイガに全権を託していた。

後にフロレンティーノの側近が語ったところによると、今まで世界を駆けめぐり、難しい商談をものにしてきたフロレンティーノにとって、こんなにも簡単にしかも短い時間で、そしてこれほど大きな「契約」をとったことはなかったという。実際、この50億ペセタの違約金項目をなぜベイガがこれほど簡単に了承したのか、フロレンティーノには理解できなかったらしい。


MUND DEPORTIVO紙発行 「TODA LA VERDAD DEL CASO FIGO」から適当に抜粋し、訳しています