Urruti t'estimo !
(2001/5/26)

かつて、バルセロニスタにこれほど親しまれた選手がいただろうか。

スビサレッタなどに比べると、バルサ・クラブ史の中に特別な功績を残した選手でもなかったし、ましてスーパースターと呼ばれるほどのキーパーでもなかった。だが彼がクラブに在籍した7年の間、幾つかの歴史に残る足跡をバルセロニスタの中に残していった。クラブ史の中に刻み込まれる選手というよりは、親子代々引き継がれるバルセロニスタの記憶の中にいつまでも生き続ける、代表的な選手の一人であろう。

フランシスコ・ハビエル・ゴンザレス・ウルティコエチェア。親しい友人たちからは”ハビエル”、一般的には”ウルッティ”と呼ばれる彼は、1952年2月17日、バスク地方のサン・セバスチャンで生まれている。彼が少年時代を過ごした地元のクラブ、ラ・レアル・ソシエダーで1969年、17才でデビューを飾る。

スペイン人のキーパーは歴史的にバスク人出身が多い。ここ20年前後のスペインの代表的キーパーといえば、ビルバオのイリバル、ソシエダーのアルコナーダ、そしてバルサのスビサレッタと、全てバスク出身選手だ。ウルッティがソシエダーで過ごした4年間、チームには才能ある4人ものバスク出身キーパーがいた。エスナオーラ、アルトーラ、アルコナーダ、そして若きウルッティ。そしてウルッティは1977年、エスパニョールに移籍することになる。エスナオーラはベティスへ、アルトーラはバルサへ、それぞれ移籍していく。

4年間在籍したエスパニョールを離れバルサに来た時、かつての同僚アルトーラと再会する。最初の年である81−82のシーズンは、開始直後どちらも絶対のスタメン選手としてではなく、交代に使われることが多かった。だが時間が経過していくにつれ、ウルッティのカリスマ性がファンの間で広がり、シーズン途中では正キーパーの座をしっかりと確保するようになる。生まれもったリーダーシップ、強烈な個性、グランドを離れてからの自然なファンとの接触、誰をも受け入れる解放的な性格、それらのものによってウルッティは次第にファンの間における「バルサの顔」となっていく。

そのカリスマ性を決定的にしたのは、84−85のシーズンだった。この年バルサは快調に飛ばし、11年ぶりのリーグ優勝まであと一歩のところにきていた。29節を終了したところでバルサは2位のアトレティコ・マドリに8ポイント差をつけ、次のバジャドリ戦に勝ちさえすれば4試合残して優勝が決定であった(当時のリーガは18チーム、勝ち点2ポイント)。

1985年3月24日、バジャドリ対バルサ戦。この試合のバルサメンバーを見てみると、アレサンコ(現バルサコーチ)、ビクトール(現ビジャレアール監督)、シュステル、アーチバルド、マルコス(何週間前までAt.マドリの監督)など懐かしい顔ぶれがそろっている。それはともかく、この試合を実況中継(テレビではない。ラジオである。)したのはホアキン・マリア・プジョー、現在もバルサのすべての試合をラジオ・カタルーニャで中継し、現役でありながらすでに「伝説の人物」となっているジャーナリストである。

「あと3分でバルサ優勝! あと3分でバルサ優勝! 後半42分、バルサ2−1でバジャドリをリード! バルサ11年ぶりの優勝まであと3分! バジャドリ、最後の力を振り絞って攻撃する! ボールはマヒコからアラシルへ、アラシルからヤネスへ! ヤネスがドリブルでゴールエリア内へ走る! 気をつけろバルサ! 気をつけろバルサ! アルベルト(バルサ)がヤネスに向かう! ボールをカット! ボールをアルベルトがカッッッッッット! ................審判がペナルティーの笛を吹いた! No!!!!!!!! No!!!!!!!!!!! No!!!!!!!!!!!!!!!!!!それはペナルティーじゃない! ペナルティーじゃない! 信じられない! この審判は信じられない! 明らかにペナルティーじゃない! No!!!!!!!! No!!!!!!!!!!! No!!!!!!!!!!!!!!!!!! 神に誓ってペナルティーじゃない!」
「マヒコがボールを置く! ウルッティ! 止めろ! 止めるんだ! ウルッッッティ!!!! .............................. 止めた! 止めた! 止めたああああ! ウルッティ! ウルッティ! ウルッティ愛してる! ウルッティ愛してる! ウルッティ愛してる!」 
この「Urruti t'estimo!  Urruti t'estimo! Urruti t'estimo!」という絶叫がラジオに釘付けになっている200万カタラン人の耳に届いた数分後、バルサのリーグ優勝が決定する。

この試合は、彼のカリスマ性を決定的なものとした。そしてこの翌年、1986年5月7日、セビリアを舞台にして行われたコパ・デ・ヨーロッパ(現チャンピオンズリーグ)での決勝戦において、彼は再び主役となる。だが、それは悲劇のヒーローであったが。

ステアウア・デ・ブカレストとの決勝戦はセビリアのグランドとはいえ、ほぼ地元同然の雰囲気の中で行われるだけに、バルサクラブ史上初のヨーロッパチャンピオン達成が期待された。事実、バルセロナから何と5万人のファンが応援にかけつけていた。しかしそれは逆に、相手チームにアウエー作戦、つまり守りきる作戦をとらせる結果にもなった。ステアウワは強固なディフェンス体制をしき、カウンターアタックを狙う。バルサは引きに引いた相手ディフェンスを何とか破ろうとするが、決定的なチャンスがとれない。試合は無得点のまま、結局はPK戦へともちこまれる。
ウルッティはステアウアの最初の2本のPKを止める。だがそれでもバルサは優勝できなかった。まずアレサンコが、そしてペドラッサ、ピッチ・アロンソが、さらに4人めのマルコスがPKを外したのである。
念願のヨーロッパチャンピオンになるには、この2年後監督に就任してくるヨハン・クライフが来てから、さらに4年待たなければならない。

1987年5月31日、マジョルカで行われた試合が彼のアスールグラーナとしての最後のものとなる。先発出場したスビサレッタが試合中の思わぬ負傷により、ウルッティが交代要員となってゴールを守る。試合は0−1でバルサの勝利で終わった。

2001年5月23日、ウルッティはチャンピオンズリーグの決勝戦を友人宅で見た後自宅に戻る途中、交通事故で死亡。ほぼ即死の状態だったらしい。49才の若さだった。

「Urruti t'estimo ! 」この伝説的となった言葉が、翌日のメディアの一面を飾る。