バンガール、傲慢さゆえの敗北
(2001/12/12)

彼は光る両目に涙をためていた。顔は真っ赤に変色し、今にも爆発しそうな感じだ。多分、激怒しているのだろう。その姿からは、人々に理解されない事に苛立ちを感じているのが伝わってくる。よくある敗北者のもつイメージ。それはまるで全世界を敵にまわして敗北し、1人の英雄が今まさに「敗北宣言」をする最後の虚栄心の見せ場のような風景であった。

オランダ代表監督バンガールは11月30日、オランダフットボール協会の本部での記者会見を召集した。それは奇しくも韓国でおこなわれた抽選会の24時間前のことであった。

近年において、常に大きな国際大会での魅力的なアトラクションとなってきたオランダ代表。その代表が9月のアイルランド戦で決定的な敗北を喫し、韓国・日本ワールドカップ参加への出場が絶望的となった。今まで会場を華やかに飾ってきたオレンジカラーのオランダ応援団は、この夏では自国にとどまってのテレビ観戦となる。そして今バンガール(代表監督就任の挨拶でワールドカップでの優勝を高々とぶちあげたあのバンガール)が、アイルランドでの大惨事から2か月たった今、辞任を公表するための記者会見を開いた。

「今日は私の人生ので最も悲しい日です。約1年半前、代表監督のオファーを受けた私は最高に幸せでした。なぜならそれが長年の夢であり誇りであったからです。」

そう彼はバルサの監督をしているときにも、決してそのことを隠そうとはしていなかった。1995年、アヤックスをヨーロッパの頂点に導いたバンガールは、その後まるで数学ロボットのように自分の将来を計算していた。彼の計算はアヤックスを離れたあと、数年の間ヨーロッパのビッグチームで成功を収め、最終的にオランダ代表を世界の頂点に導き、その後フットボール界から足を洗うというものだった。それはある意味で言えば、”オレンジマシーン”を率いたヨハン・クライフでさえ成し遂げられなかったことへの挑戦であった。

自分のもっているフィロソフィーは完全だと信じて疑わない。彼にとって不可能なことはないはずであった。だが彼のすべての計算は、いわゆる誤算に終わってしまった。まず最初にバルサで失敗する。多くのバルセロニスタの批判を浴びながら、バルセロナの裏口から自国へ帰らなければならなかった。そして今回のワールドカップ不出場による彼への強烈な批判(もちろんクライフはチャンスを逃さず批判していた)は、2006年までの契約を無効にすることを強制された。

それは、彼が自分のミスを認めたからか?
それは、彼の謙虚心からくるものか?

いずれも違うことは明らかだ。彼の辞任は状況が彼を追い込んだにすぎない。

バンガールの頭の中にある記憶は、アヤックス時代における50試合負け知らずの時代や、ウイーンでのミランを倒してのアヤックス4回目のヨーロッパチャンピオンの瞬間で止まっているのかも知れない。1997年にアヤックスに20世紀最大のヒーローのように別れを告げ、9万人と埋まったカンプノウでは神様のように迎えられたバンガール。そう、多くのバルセロニスタにとってバンガールとは、クライフなきクライフイズムの継承者だと認識されていたからだ。

だがそれは、お互いに勘違いであった。バンガールがチームを率いて時間が経過すればするほど、その勘違いが明らかになっていく。クライフなくしてクライフイズムは存在しないことをバルセロニスタは気がついた。バンガールはカタラン・アヤックスを形成しようと、クライハート、デブー兄弟、ボハルデ、レイジンハー、そしてリトマネンを呼び寄せる。だがバルセロナは1500Hもアムステルダムから南だということを気がつかなかった。

地中海にあるバルセロナの街。そこは太陽と空気と人々が会話をする場所であった。だがバンガールは人々との会話を拒否し、ひたすら横柄な自分の世界に閉じこもることを選んだ。さらに北から来た選手たちはアヤックスの見習い選手ではなく、すでにプライドをじゅうぶんに持った億万長者プレーヤーになっていたことにも気がつかなかった。バンガール先生の教えをひたすら忠実に実行していた生徒ではなくなっていた。

「私はコーチ陣と選手たちとの密接な関係が非常に大切だと思っています。私のフットボールに対するアイデアは間違いないと信じてる。だが今回の代表に集まった選手たちはそれを信じようとしなかった。私は今でも自分の方法、見方、自分の名誉、そして誇り、それらのものはすべて正しいと思っている。これまでアヤックスでもバルサでもそうであったように。だが彼らの試合ぶりはひどいものだった。11月10日のデンマークとの親善試合を見ればよくわかる。彼らにはチャンピオンになろうという意思が、まったく感じられなかった。私は非常にショックだった。」

バルサを追われたときと同じだ。失敗は責任はすべて選手のせいだという論理は変わっていない。ただ一つだけ違うことがある。それはオランダファンへ「世界最高のファン」というの誉め言葉を送ったことと、オランダ文化にはイチャモンをつけなかったことだろう。彼がバルサをでることになった時におこなった最後の記者会見。そして多くのカタラン人がいまだにバンガールへの憎しみを時効にさせない理由。

「スペインは住むには最高の土地だ。さんさんと輝く太陽、美味しい食べ物、そして完璧なリオッハ・ワイン。しかし、どう考えても働く場所ではない。」

攻撃的なフットボール、左右に開いたエストレーモ、ワンタッチによる素早いボール処理、広いスペースを有効に使って常にゴールの可能性を探るフットボール。バルサとオランダが30年も前から追求してきたものだ。この偶然性はなぜおこったか。それはお互いに、1人の伝説的な人物を共有してきたからだ。ヨハン・クライフ、すでに70年代にバンガールを窮地に追いやった人物。彼の存在のために、決してスタメン出場という名誉ある選手生活を送ることなしにアムステルダムから追われた男バンガール。そしてその後も、ほんの微妙な違いによって2人を対称化させている。

クライフは世界を「クライフイズム」と「反クライフイズム」の2つに分けた。そしてバンガールは、ファンを、選手を、プレスを、そして全世界を敵にまわした。彼は大きな誤りを犯してしまったのだ。フットボールからロマンティズムを奪った。固い約束事にひたすら拘束させることにより、才能から生まれる自然発生的なパフォーマンスを奪った。そして彼の最大の間違いは、その適応性のなさから生まれたことも確かなことだ。大スターとなり億万長者となっているプロ選手を、まるで小学校の先生が生徒を扱うかのようなやり方。それがバルサでの失敗につながり、いままたオランダ代表での失敗につながる。

だが彼は少しも変わらない。記者会見での照明が、彼にはまるでスポットライトのように自分を浮かび上がらせてくれていると思っているかのようだ。彼は次のような言葉で会見を閉じた。
「私がバルセロナに戻ると、人々はまるで皇帝のように接してくれるんだ。」

EL PAIS 2001.12
BARCELONA/ANGELS PIN~OL
AMSTERDAM/SONIA ROBLA
(訳・カピタン 写真 ムンドデポルティーボ)