サビオラ、20歳の回想(中)
(2002/7/4)

今年(2002年)の4月23日、サンジョルディの日をを記念してエスポーツ社が発行した「サビオラ・小さな巨人」という本があります。約150ページ程度の本ですが、サビオラのこれまでの回想をエスポーツ記者が代筆して書かいたものです。その中から抜粋して(ということは若干編集して)漢字ひらがなにしてみました。上・中・下というように3回にわかれています。

フットボール選手としてもっとも貴重な体験を積むことができたのはワールドカップアンダー20だった。アルゼンチン代表として召集された選手間の団結感、スタメン出場選手や控え選手に関係なくすべての選手にあふれる勝利への執念、どれをとってもこれまで経験したことのないような「チームの一致」感というのがあったように思う。

個人的なことを言えばそれまでリーベルの中では常に一番若くて経験不足だった自分が、代表の中ではコロッチーニと並んでもっとも経験を積んだ選手だったこと。このアンダー20の代表の中では僕らは一部のクラブでのプレー経験がもっとも多い選手だった。他の選手はまだ二部でプレーしていたり、一部にいてもプレーするチャンスがなかった選手たち。でもチャンスさえ与えられれば、誰にも負けない良い選手だということをこのワールドカップが終了した後で多くの選手が証明することになる。

監督のホセ・ペケルマンには多くのことを学んだし、個人的にもいろいろ助言をくれたことで感謝している。彼はフットボールのことだけではなくて、選手の個人的な問題まで助言してくれる監督なんだ。あの時、僕には色々な意味で助けが必要だった。なぜなら父のカッチョの様態が悪化しているといることを知っていたから。

病に倒れている父が喜ぶよう知らせを送ること、自分にできることは結局これしかないと気が付いた。最後になるかも知れない、嬉しいニュースを送ること。それからは今まで以上に父と一緒にグランドにいるような気がしてきた。すべてのゴールは彼に捧げるものだった。時々、試合前に電話で話してゴールの約束をしたこともあった。そして、彼をビックリさせるために、ゴールを入れた時のユニを病室に送ったりもした。彼が亡くなるまでに合計11枚のユニが彼の手元に送られることになる。

ワールドカップで優勝した夜、僕らはみんなでバスに乗ってエセイサという合宿所に戻ったんだ。そこでは僕ら選手の両親が待っていてくれるはずだった。祝勝会となる会場は合宿所の2階。カッチョは人の助けを借りて、階段をやっと上がってきたらしい。僕が会場に着いたときは椅子に座っていた。父は僕の姿を見つけるなり、必死になって椅子から立ち上がろうとした。全身の力を使って立とうとしているのが僕にもわかった。父にはあまり残りの時間がないことをはっきり認識したのはあの瞬間だった。椅子から立ち上がろうとしている父を助けながら、優勝の喜びを分かち合うために抱き合ったのが最後の彼との抱擁となってしまった。

翌日、僕はプンタ・カナというところにバケーションをおくるために出発した。両親抜きでの初のバケーションだった。なぜかって? 家に残らないでバケーションに旅立てという父の要望だったから。彼は自分の苦しんでいるところを僕に見られたくなかったんだ。母にしてもそうだっだ。だから生まれて初めての家族抜きのバケーション。それは単なるバケーションに過ぎなかったけれど、これからは父なしに生きていかなければということを覚悟させられた、自分にとっては出発点の旅でもあった。

僕は小さい頃から、彼みたいな人間になるのが憧れだった。心の底から父を尊敬している。彼のような父を持ったこと、そして彼の息子としてこの世に生まれてきたことをどれだけ誇りに思ったことか。口数の少ない人だったけれど、その分、人の言うことを真剣に聞く人だった。そして人がしゃべり終わった後に短く自分の意見を言う人だった。今でも彼の語った言葉が脳裏に焼き付いている。それも一つや二つじゃない。はっきりとした多くの言葉が脳裏に焼き付いている。

サビオラ家の子供は僕だけだ。だから父や母が溺愛したとしても不思議ではない。それでも彼らの心配事は僕の将来についてだった。多分、彼の病がそうさせたのだろうと思う。生きているうちに僕の将来を見られない可能性を父は感じていたに違いない。フットボール選手の僕に関しては何の心配もしていないとよく語っていた。だが、それ以降、つまり現役を退いた後のことを彼は常に心配していた。彼は僕によく言っていた。
「いいか、フットボール選手としての寿命はせいぜい10年か15年だ。人生は長いんだから、お前はその後のことを今から考えておかなければならない。経済的問題もあるだろうし、もしそれが問題ないとしても何かをしなければならないよ。若くして人生を止めてしまっていかん。そのためにはいついかなる時でも学ぶことを忘れてはいけない。常に何かを学ぼうとする態度を忘れてはいけない。そして勇気を持って次の新しい人生を切り開くんだ。」

耳にたこができるほど聞かされたこれらの言葉は、正直言って子供の自分には重すぎる感じだった。まだ本格的なフットボール選手になれるかどうかもわかっていないのにとさえ思った。でも彼の忠告のおかげで高校だけはどうにか卒業できたことを感謝しなければならない。もし彼の言葉がなかったら、リーベルでデビューしてから学校なんかにはいかなかっただろうと思う。

癌が彼の体内から発見されたとき、医者は僕ら家族にあと半年の寿命だと言った。でも彼は必死になって2年生き続けたんだ。それはまるで僕のフットボール選手としての将来がはっきりするまでは死ねないという感じだった。僕がバルサのユニフォームを着て初めてゴールを入れた瞬間、彼は自宅のテレビを見ていたそうだ。それは大喜びしていたと母が言っていた。彼にしてみれば、バルサというビッグクラブに入れたことや経済的には将来の問題も安心できる契約を結んだことで、精神的には少し荷が下りた感じだったのかも知れない。なぜならプレステージが始まってからしばらくして、彼は緊急入院をしなければならなくなったんだ。

カッチョ、心の底からありがとうと言います。そしてこれからも僕のゴールはすべてあなたに捧げます。僕にできる唯一のプレゼントですから。


SAVIORA/Un Petit Gegant
Javier Saviora
Albert Masnou
COLECCION/SPORT
訳・カピタン


チキートコーナー 02-03