恐れを知らぬ鉄人プジョー
(2003/01/04)

「俺の友達がどんな奴かって?うん、俺の友達ね、そう、奴はアニマルさ。悪魔と言ってもいいかも知れない。なぜかって?奴にはね、生まれてこのかた“恐怖”というものが存在しないからさ。怖さという存在をまったく知らない奴なんだ。足だろうが頭だろうが、ぶつかった後どうなるか考えもしないでボールを取りに行く、そういうアニマルであり悪魔なんだ。」
カルラス・プジョーと同じラ・ポブラ・デ・セグール出身であり親友でもある24歳のハビ・ペレスが笑いながら語る。

選手仲間からはプジーと呼ばれ、バルセロニスタからはプジョーと呼ばれるカルラス・プジョーについて語るハビは、レイダ県の地方一部リーグでプレーし続けている。だが今はリハビリの最中だ。クリスマスであるにも関わらず自宅でリハビリに励むハビ。その彼の部屋の窓から見える3階建ての、いかにも古そうな建物がある。1階がパン屋となっているその建物の3階のバルコニーには色々な鉢植えが置かれ、きれいな赤い花で縁取られている。そこがプジョーの実家だ。息子がスター選手となった今も両親は決して住居を変えようとしない。謙虚さを持つこと、それが人間にとって最も大事なことであると息子たちに教えてきた両親だ。原点はあくまでも原点として守らなければならない。だから子供の時からの親友であるハビにとって、プジョーはどんなに有名な選手になっても昔から知っているプジョーに変わりがない。
「あいつはいつも同じさ。ラ・ポブラ・デ・セグール出身のカルラス・プジョー。だからここの村の人たちはいつでも彼のことを案じているし、愛してもいるんだ。」

そのプジョーは人生最大の契約交渉をすでに終了している。バルサとの延長契約が済み、これまでとは比較にならない年俸を受け取ることになる。会長というクラブ最高権力者となって3年目、そのガスパーとしてみれば唯一バルセロニスタに歓迎をもって迎えられた決断がプジョー延長契約だった。

新たな契約により億単位の金が銀行口座に定期的に振り込まれるようになろうと、プジョーはそれ以前のプジョーと変わらない。どこにでも見かけられる普通の24歳の青年だ。ほんの少し違うところがあるとすれば、多くの同年代の青年が夜遊びをしている時間に、彼はすでにず自宅に帰っていることぐらいだろう。毎晩といっていいほど彼は22時には帰宅している。バルセロナのアパートに恋人のアグネスと二人で住んでいるプジョー。夜はその部屋でDVDの映画を見ているか、あるいは親友のルイス・エンリケの家に行っているか、あるいは彼らがプジョーの家に遊びにきているかだ。

かつてサンペドール出身の若者ペップ・グアルディオーラがバルセロニスタのシンボルになったように、今はラ・ポブラ・デ・セグール出身のプジョーが彼らのアイデンティティーになっている。人口約3千人のラ・ポブラ・デ・セグール村は、バルセロナから西に100キロ行ったところに位置するレイダの町の近郊にある。レイダの町から北、ピレネー山脈の麓に点在する多くの村々。ラ・ポブラ・デ・スグール村もそのようなピレネー山脈の麓にある一つの小さな村だ。そしてこの村に住む300人の人々、つまり総人口の1割の人々は“カルラス・プジョー・ファンクラブ”のメンバーだ。以前は単なるバルサファンクラブとして“ブラウグラーナ・ファンクラブ”の名称であったが、昨年の夏以来現在の名前に変更された。

スペインの近代化と共に、この村にも当然ながら少しずつ変化が起きてくる。どこの小さな村にも起きてくる小さな変化、それは都会への若者の流出現象だ。仕事を探し求めて都会に行く若者、大学に入るために都会に引っ越していく若者、村では年ごとに若者が減少していく。かつて牧畜業で栄えたこの村だが、若者を引き止めて牧畜に専念させるほどのパワーはすでになくなっている。だがプジョーの父は根っからの牧畜業者。今でも朝早くから暗くなるまで500頭もの牛の世話をしている。昨年もついに1回もカンプノウに行ける時間がとれなかった父だ。

プジョーは3歳から17歳まで“サグラダ・ファミリア・スクール”で勉学に励んでいる。その学校の校長先生であるジョルダンは若きプジョーを誰よりも理解していた一人だ。
「彼はある年に一階級すべってもう1年繰り返さなければならなかった。フットボールに夢中でぜんぜん勉強しなかった時期があったようです。とにかく彼の興味あることはフットボールだけ。だから昇級できなかった時も別に落ち込まなかったようだし、笑ってすましちゃうような若者でした。また繰り返し勉強のまねごとをすればいい、そんな感じだったのでしょう。でも彼の幸せなところは非常にいい仲間を持っていたことですね。とても健康的でいきいきしている雰囲気を持っているグループでした。そのグループのほとんどの人々は今立派な大人になってバルセロナで生活しています。技術者となった者もいるし、ヘリコプター操縦士となった者もいる。青年実業家として活躍している者もいる。プジョーもフットボールに興味がなかったなら彼らのような生活を送っているひとりになったのは間違いないでしょう。」

この学校でも、そして多くの村の人々にも、プジョーはひたすらフットボール選手を目指している一人の若者として受け入れられていた。ラ・ポブラ・デ・セグール村にあるフットボールクラブ“ポブラ”でキーパーを務め、現役選手を引退したあとそのクラブの少年部の監督となっらアルフォンソ・ガレッタ。彼はプジョーがその少年部に在籍したときの最初の監督でもある。
「彼はキーパーとしての才能がある子だった。だからしばらくキーパーとして練習させたんだが、母親の反対でそれは中止させられた。どうやら彼には小さいときから背骨に問題があったようで、キーパーだけはやらないでくれということだった。あの子にとって両親の言うことは絶対というところがあったから素直にそれを受け入れたようだ。それでもよほどキーパーというポジションが気に入っていたようで、時々やっていた。今でも覚えているのはトレンプというチームとの試合だ。前半はプジョーがキーパーをやり、後半はデランテロとして彼がハットトリックを決めた試合だった。」

ポブラのジュニアクラスでプレーするようになったプジョー青年。彼を毎日のように見ていたポブラ一部チーム監督のジョルディ・マクリが知り合いのコネを通じてサラゴサの入団テストを受けることに成功。だが体力的にまだ弱かったプジョーは、日々の体力作りメニューをもらい半年後の再テストを約束されるだけに終わる。それからプジョーの体力作りが毎日欠かさずおこなわれることになる。朝7時30分から10キロの重さの土袋を担いで走りまくるプジョー。学校に登校するまでの日課となる体力作りだ。

ジュニア以外にも時たま地方一部リーグ・ポブラでもプレーするようになったプジョーを一人の同郷人が注目するようになる。ラモン・ソストラス、弁護士であり現在はプジョーの代理人を務める人物だ。彼は一目でプジョーのプレーぶりに惚れてしまう。右エストレーモをポジションとし、ゴールを限りなく奪っているこの若者を一流のクラブで試したい、それがラモンのアイデアだった。彼もまたコネを通じてバルサ関係者に当たり、テストを受ける可能性を探って見る。このことによりプジョーは結局サラゴサの再テストは受けずじまいとなる。

テストは3週間続いた。同時にテストを受けた15人の中にプジョーの兄であるプッチもいた。3週間後、テストに合格したのはわずか一人だった。プッチは落ち、残ったのはカルラス・プジョーただ一人。

プジョーを子供の頃からよく知っているという老婆が語る。
「いいことを教えてあげよう。彼がお母さんとサーカスを見に行った時のことじゃ。プジョーは売店で売っているスーパーマンの衣装がえらく気に入ってしまってのお。お母さんに何回も買ってくれるように頼んだんじゃ。だが彼女は決してウンとは言わなんだ。普段はおとなしいプジョーだがの、その日ばかりは余程悔しかったのか自宅のバルコニーから飛んでしまったのじゃ。もちろん下に落っこちてしまったがの。」

それを聞いた兄のプッチが続ける。
「そのスーパーマンの衣装の話は覚えていないけれど、ベランダから飛んじゃったというのは、もしそのおばあさんがそう言うのなら本当のことだと思うよ。だってあいつの身体は鉄でできているから飛ぶことはできないだろうが、下に落ちてもケガすることもないだろうから。」


ANGERES PIN~OL記者
EL PAIS紙
訳・カピタン