ラポルタとその同志たち
(2003/07/04)

「俺たちは今こそ何かしなければ。国のためにも、そしてもちろん俺たちのクラブのためにも」
彼らにとって意味する“国”とはもちろんカタルーニャのことであり、“クラブ”とは当然のごとくバルサのことだ。国を憂い、クラブの現状に危機感を抱く3人の男たち、彼らは今日も終わりのない論議に没頭している

ジョアン・ラポルタ(40歳・現会長)サンドロ・ルセー(39歳・現副会長)、そしてジョルディ・モイシュ(42歳・現クラブ運営及びマーケティング担当)。10代の後半から青春時代を一緒に過ごした彼らは毎週のように集まっては同じ議論を繰り返していた。だがこの日、2003年2月2日、議論は普段のそれよりも更に熱いものとなっている。なぜなら彼らのクラブに大異変が起きていたからだ。この日、バン・ガール更迭が決定されラドミール・アンティックが新監督に就任というニュースが流れた。クラブ会長のジョアン・ガスパーはあらゆる手段を駆使して延命工作をはかっている。3人の若者はこの日の集合場所を偶然とはいえホテル・エスペリアのレストランとしていた。そう、ヨハン・クライフが監督として就任する前の年に多くのバルサ選手がヌニェス会長に反乱を起こすために集まったホテル・エスペリア。歴史のいたずらか、彼らもまたこの日そこにいる。

深夜の2時に彼らはレストランをあとにしている。いつものことながら、この日も彼らの論議は空まわりするばかりだった。1日にしてクラブに変革を起こすことはできない、5時間にわたる議論が終結した時点での彼らが得た一つの結論だった。だがそれぞれ自宅に向かう彼らの昂揚した精神はなかなか収まらない。自宅にたどり着いたラポルタはルセーに電話している。
「帰路につく間にいろいろ考えたんだが、俺たちはそろそろ議論をやめて実行に移す時期ではないだろうか。時期は熟してきているように思うんだ。」

国を憂い、クラブの将来を真剣に心配しているのは彼らだけではなかった。ジョルディ・モネス(42歳・現スポーツ部門担当)トニー・ロビーラ(43歳・・現組織部門担当)ジョセップ・クベール(38歳・現スポーツ部門担当)チャビエル・カンブラ(39歳・現組織部門担当)ジャウメ・フェレール(40歳・現経理担当)、彼らは2001年に組織された“ロス・ピニョール”という団体の中心メンバーだった。この組織がこれまでおこなってきた運動は、カタルーニャの映画館で外国映画を上映する際に“カステジャーノだけではなくカタラン語にも吹き替えするべきだ”というカタルーニャ政府に対する訴えだった。カタラニズムを唱える彼らは、同時に心の底からのバルセロニスタでもあった。それも強烈なバルセロニスタであった。ガスパーが会長に就任してからのクラブの危機に心を痛める彼らもまた、今こそ何かをしなければと考える人々だ。そしてラポルタはこの組織メンバーの一人でもあった。

ホテル・エスペリアでの会合以来、彼ら3人は独自に動き出している。ガスパー政権の任期はまだ1年半も残っているというものの、今から準備をおこなっておかなければならない。だが会長選挙に立候補するには資金が必要だ。それは選挙資金だけではなく会長となってからの保証金も必要となる。次回の選挙では2千500万ユーロ(約35億円)もの保証金が必要だと言われている。彼らの職業は弁護士(ラポルタ)であったり、マーケティングの専門家(ルセー)であったり、あるいは不動産屋(モイシュ)でありそれぞれの部門でのエリートとはいえ、いずれにしてもまだ40歳前後の人々であった。したがって彼らはできる限りのメンバーを集めて資金繰りが可能となる道を模索することが必要となっていた。

ラポルタは“ロス・ピニョール”のメンバーにはすでに行動に移ることを伝えていた。もちろん彼らとしては全面的に行動を共にする意思表示をラポルタに告げている。だが更にメンバーを広げていかなければならない。ラポルタは“エレファント・ブラウ”という反ヌニェス派を結成した時のメンバーに連絡をとることにした。まず、6歳の頃からの幼友達であり、今では若き実業家として世間に名を知られているアルフォン・グデール(41歳・現クラブ運営及びマーケティング担当)を再び仲間に入れることに成功する。そしてもう一人のかつてのメンバーにしてラポルタグループでは最年長となるアルベルト・ビセンス(52歳・現副会長)も仲間に加わる。ジョルディ・モイシュに続き、これで“エレファント・ブラウ”時代のメンバーが2人加わることになった。

一方、ルセーも動きまわっている。最初に連絡した相手は大学時代の親友であり、毎週のようにパラウ・ブラウグラーナにバスケの試合を見に行っているジョセップ・マリア・バルトメウ(40歳・現スポーツ部門担当)だった。小さい頃からバルサバスケソシオとなっているバルトメウは空港機材を扱う会社の重役であり、機会があればクラブのために働きたいと考えている一人だった。そして同じく学生時代からの知り合いであるマルク・イングラ(37歳・現副会長)とも連絡をとる。イングラはコンピュータ関係の仕事をしている実業家だ。ルセー、バルトメウ、そしてイングラ、彼らはレストランで夕食と共にしながら将来のことを語りあう。“バルサの将来”それだけが彼らの議論の焦点だ。かつての“一つのクラブ以上の存在”としてのバルサ復興を目指して彼らは熱い論議を続ける。そして誰からともなく、フェラン・ソリアーノ(36歳・現副会長)をメンバーに加えるべきだということになった。

ソリアーノはこの3人の中でイングラともっとも親しい関係にある。カタルーニャ州の中ではもっとも大きなコンピュータ関係の会社を、イングラと共に経営している仲間の一人だからだ。そして仲間といえば、カンプノウに一緒に行く仲間でもある。彼の“クラブ”に注ぐ情熱は仲間の間では評判となっていた。そして当然ながら彼もまた危機感を抱いていた一人でもあった。バルサをどうにかしなければならない、その思いはこの日の初めての会合ですでに彼に一つの決意をさせてしまう。
「もし我々が次の会長選挙で勝利したら、俺は1年間、そう少なくても1年間、仕事を辞めてクラブの仕事だけに専念しよう。」
まさかわずか4か月後にそれが現実となるとは、さすがのソリアーノも予想していなかっただろう。

徐々に“同志”が集まってきた。誰を会長候補とするか、それは全員の投票で決めることになっている。だが彼らの思いは一つだった。ラポルタ、そう、彼しかいない。しかもまだ会長選挙は先の話しだ。彼らの読みはガスパーは必死になって任期を全うするだろうというものだった。したがって目標は1年半後の会長選挙だ。だがクラブの危機は、その1年半という期間をかなり短縮することを要求することになる。彼らが動き出してわずか4か月後に、カタラニスタにしてバルセロニスタである彼らとしては夢のような事態が訪れる。多くのソシオが、バサット圧倒的優位という前評判を覆し、変革のメッセージを熱く語る彼らを選ぶのだ。

ラポルタを中心とするこの若きメンバーに共通すること、それはほぼすべてのメンバーがフランコ死後の民主主義時代に突入してからの大学教育を受けていることだ。そして彼らにとっての“バルサ”は、1974年にクライフが入団してきてからのものでもある。両親と、あるいは友人たちと、一緒にカンプノウに通いクライフバルサを見て“バルサ”に傾倒し、そしてクライフが監督となってからの“ドリームチーム”に熱狂した若者たち。旧世代とは若干異なるカタラニズムを持ち、そしてクライフ時代と共に育ってきたバルセロニズムを持つ彼ら。“すべてをクラブのために”彼らの幼少時期からの夢はとりあえず達成することになった。そして同時に、彼らにとってもっとも難しい仕事が山積みされている。バルサを再び“一つのクラブ以上の存在”にするための仕事が。


■翻訳資料
EL PERIODICO DE CATALUNYA紙
EL MUNDO DEPORTIVO紙