バルサの“変革”
(2003/07/22)

ラポルタを新会長に選んだソシオたちは、クラブそのものの変革を望んだ人々と言っていいだろう。長期政権となったヌニェス政権を引き継いだ形で誕生したガスパー政権、そこにはやはり長期政権には切っても切れない一つの歪みが存在した。その歪みとはクラブ機構や運営の不透明さだ。多くの不透明な問題、それは例えばクラブ理事会とボイショス・ノイスの関係、入団選手獲得の際の正確な移籍料、そして選手代理人に支払われるコミッション問題、必要以上に複雑に構成されてしまっている選手との契約書、そしてもっとも重要な問題となるクラブ財政問題の不透明さ。

ラポルタチームは遅くとも今シーズンが始まる8月の末までにはこれらの不透明さをソシオの前で説明することになるだろう。それが彼らに、変革の期待を込めて投票した人々への義務であるからだ。だがそれまでにすべてのソシオに具体的な“変革”の姿勢を示すことも要求されている。プレステージでの“変革”の実行責任者、それはスポーツ・ディレクターのサンドロ・ルセー、そしてセクレタリア・テクニコのチキ・ベギリスタインとなる。そして彼らはすでにラポルタが正式に会長に就任した翌日に早くも動き出していた。彼らが“変革”作戦実行のさいに選んだ方法は“クライフスタイル”と呼ばれているものだ。

“クライフスタイル”による“変革”、それはまず初めに誰がボスであるかということを“強権”ともいわてもしかたがない手段で選手の前ではっきりと示すことから始められる。そしてその“餌食”となる選手はチーム内で重要な選手でなければならない。

1988年、クライフがバルサの監督として就任してきたとき、チーム内の雰囲気は“なれ合い”と呼んでもおかしくないほどのものだった。それは前監督のルイス・アラゴネスの責任というよりは、選手たちとクラブ首脳陣が抗争を繰り広げた“エスペリアの反乱(バルサ100年史第4章48参照)”が原因となっていたと言える。選手同士の団結はあるのだが、それが逆に規律のない環境を生んでしまっていた。クライフは権力構造をはっきりするために、当時の重要選手であったカラスコとフーリオ・アルベルトをチームから外してしまう(バルサ100年史第5章50参照)。それによって、チーム内に緊張感を作り出すこと、そして誰がこのグループのボスであるかを如実に示すためであった。クライフはわずか数日で、最高権力者が誰であるか示すことに成功した。

シーズン終了と共に契約が切れるデ・ボエルの退団は、交渉など一切おこなわれずサンドロ・ルセーとチキによって突然のように公表された。ラポルタを筆頭とするクラブ新理事会が、選手やソシオに対して示した最初にして強烈なアドバルーンだった。
「我々は過去と決別しなければならない」
それがラポルタ会長が誕生した理由であり、今後のクラブ方針とならなければならない。デ・ボエルの不幸は“過去”の代表的な顔であったことだ。ヌニェス政権時に入団し、バンガールの息子のようなイメージとしてとらえられた選手、それがデ・ボエルだった。

そして次に選ばれたのがコクーだ。今シーズン限りで契約が切れる彼に対しても交渉の席につくというよりは、クラブ側からの一方的な提案をのむかのまないか、言ってみればいきなりの最終通告みたいなものだった。当事者同士にしかわからない水面下の交渉があったかどうか、それはもちろん外部の人間には知ることができない。30%とも40%ともいわれる年俸引き下げ通告であったにも関わらず、ルセー・チキコンビは不思議なほど楽観的だった。事実、コクーは年俸値下げを認めバルサに残ることになる。クラブへの献身とチームカラーへの愛情は金には換えられない、“コクーを見習え!”まるでそうメッセージを送ったかのような延長契約だった。

3人目はやはりチーム内で重要な選手の1人となっているクルイベルだ。
「この条件をのむか、あるいはよそのクラブへ行くか、どちらか一つ。」
ここでも実際は交渉の余地ありなのだろうが、外見的にはクラブ側からの一方的な最終通告だ。ライカーにとって大事な駒となる選手の一人でありながら、旧政権がおこなった不条理な契約内容をクラブ側が放棄した形で通告されている。もちろんクラブが抱えている財政的な観点からも、そして何よりも新政権が目指す新たなポリシーを貫徹するためにも必要な通告だった。

新政権が誕生してから最初の1週間で突き出された“クライフスタイル”の強烈なパンチ。新たなバルサの権力構造が鮮明となるにはじゅうぶんすぎるほどの強烈なパンチ、それは同時にガスパー政権の時代のような“非論理的”なことは通用しないということを知らせた。次の第二段階に向けて、ひたすら常識的に、論理的に、誰しもが納得するような形で物事を処理していく第二段階へのステップ準備は整った。

そう、第二段階は論理的で常識的で誰もが納得するようなものでなければならない。ショック療法のみであったらそれこそ恐怖政権となってしまう。選手の放出や獲得作戦においても、誰しもが納得するようなものとしなければならない。クラブ財政が悪化していることによる選手の年俸引き下げ交渉も恫喝的なものであってはならない。具体的な数字を検討し、数字以外にも検討材料となるいくつかの要素も慎重に分析しなければならない。

マドリッドメディア(マルカ・7月6日)がプジョーの高額な年俸をとりあげ、彼を第一の年俸引き下げ交渉選手としている。彼は旧政権(ヌニェス・バンガール第一次政権)に生まれたカンテラ上がりの象徴的な選手であり、ガスパーによって誰しもが驚く高額な年俸を獲得することに成功した選手だ。そして彼はディフェンスの選手にしか過ぎない。バルセロニスタにはもっとも軽んじられているディフェンスというポジションの選手に過ぎない。したがって彼への年俸引き下げ交渉が、他の選手への模範となるような第二パンチとなる、そう考えてプジョーが次のターゲットになるのではと語るマドリッドメディア。だがそうはならない。いや、そうなってはならないと言うべきだろう。

論理的な発想による一人の選手のクラブ“維持費”を計算するシステムがある。それは年俸の額だけから考察するものではなく、一人の選手の年間“維持費”を他の要素も含めて考察する方法だ。それは次のようなものだ。

入団に際しての移籍料÷契約年数+年俸=1年間の選手維持費

プジョーはカンテラ上がりだから移籍料は関係ないとして、何年間のマシアでの養育費がこれに当たる。この計算方法によるとプジョーのクラブ“維持費”は年間102万ユーロにしか過ぎない。882万ユーロのサビオラやオーベルマルスの949万ユーロ、ジェラールの721万ユーロ、ジェオバンニの631万ユーロとは比較にもならないほど低コストの“維持費”だ。

数字的なものから見てもプジョーの年俸を下げる必要性はない。しかも年俸引き下げ交渉は、これらの具体的な数字以外のいくつかの要素も考慮に入れて検討されるべきだ。“いくつかの要素”の中でもっとも重要なものであり評価の対象となるのはクラブに対する忠誠度だろう。忠誠度というとなにやら時代がかったものとなるから“愛情”とした方がいいかも知れない。クラブに対する愛情、クラブに対する献身度、チームカラーに染まった精神、それらを代表する選手、それがプジョーであることは多くのソシオやバルセロニスタが知っている。

バルセロニスタのアイドルであったミゲーリが去って以来、バルサにはプジョーのような選手は登場してきていない。顔の骨が折れようがひびが入ろうが試合出場を志願し、ワールドカップ出場が危ぶまれる負傷をおいながらもカタルーニャカップに出場を願いでるような選手だ。数字だけを見ても彼の年俸を再検討する必要なないのだから、これらの要素を付け加えればプジョーを年俸引き下げ交渉の対象選手としてはならない


■翻訳・参考資料
EL MUNDO DEPORTIVO紙
MARCA紙