セルヒオがカンプノウデビューした日
(2003/09/04)

2003年9月3日00時05分という常識外の試合開始時間に戦われたセビージャ戦、カンプノウにかけつけたバルセロニスタの数も常識を越える8万人以上というものだった。その中に、そう、8万人というバルセロニスタの中に、セルヒオ・ガルシアのかつての同級生たちも大勢かけつけていた。彼らの仲間の晴れのカンプノウデビューを祝うのに“真夜中のフィエスタ”は絶好のステージだった。

バルセロナの町とサンタ・コローマ・デ・グラマネの町のほぼ境に位置するブエン・パストール村の出身であるセルヒオ・ガルシアはもう19歳になっている。髪の毛の先端を金髪に染め、左の耳には二つのピアス用の穴が開いている19歳の若者。彼はこの日、36番の背番号をつけ、バルサ一部選手としてスタメンに登場した。彼をマークするのは“激しい”という言葉よりは“暴力的”と形容した方が似合うパブロ・アルファロ、彼ののマークがピッタリとセルヒオにつく。

「うん、何回か蹴りを入れられたよ。でも、あくまでもフットボールの試合だからね、そんなことはどうでもいいんだ。そんなことより悔しいのはゴールチャンスがいくつかあったのに、それを決められなかったことさ。それがとてつもなく悔しい。自分がフットボールで知っていることはゴールを入れること、それだけなんだ。唯一知っていることができなかったのがとてつもなく悔しい。」

そう、セルヒオ・ガルシアはセビージャ戦では無得点に終わっている。いくつかのゴールチャンスがありながら、シュートを打つ瞬間にボールがイレギュラーバンドしてしまうという不運もあった。だがそんなことは彼にとって言い訳にしかならない。それでもチキ・ベギリスタインは試合後に満足そうにセルヒオのことを語っている。
「試合中のすべてのプレーに満足している。セルヒオは良くやったよ。」
バルサのスタッフ・テクニコの一人であるチキ・ベギリスタインはセルヒオ・ガルシアを誰よりも評価している人間だ。セルヒオにとってはチキのおかげで今シーズンバルサに残れたと言っても大げさではない。

かつてエスパニョールやベティスでプレーしたマヒコ・ディアス、その彼が今ではセルヒオの代理人となって働いている。この夏のアメリカ遠征にセルヒオが不参加と決まった瞬間、チキ・ベギリスタインはマヒコ・ディアスに次のように語っている。
「忍耐だ、ひたすら忍耐、いま言えることはそれだけだ。我々スタッフ・テクニコはセルヒオの将来性を非常に高くかっている。いつか出番がやってくるさ。それまでの我慢だ。それも時間の問題さ。」
それを聞いたセルヒオだからこそ、バジャドリやアルバセテ、そしてサラゴサやサンタンデールなどからのオファーをすべて断った。彼が生まれ育ったブエン・パストール村では“口約束”はすべてに優る“約束”なのだ。だから彼はチキの言葉を心の底から信じている。

しかしチキの持つセルヒオに対する信頼感がどれほどのものであろうと、セルヒオの父親のそれには比べられないだろう。就業中であろうと失業中であろうと(ちなみに現在は失業中)、すでに10年以上にもわたってセルヒオをカンプノウに送り向かいを続けている“息子孝行”お父さん。そして彼もまたかつてバルサの選手であった。

現在はバルサBと呼んでいるが、10年以上前は“アスレティック・バルセロナ”というのがバルサの二部の名前だった。セルヒオの父親はバルサ二部のカテゴリーまで上がってきている。左エストレーモの選手としてプレーしていたものの、当時はカラスコというやはり優秀な左エストレーモの選手がいた。
「父は良い選手だったけれど、ツキがなかったようだ。一部チームにデビューすることが可能となるには多くの幸運が必要になるんだと思う。ポジションの問題、負傷の問題、監督のポリシーの問題、いろいろね。」

先日のセビージャ戦で彼をマークしていたパブロ・アルファロとバルサのカピタンであるルイス・エンリケが試合中に取っ組み合いとなるもめ事を起こした瞬間があった。誰よりも早くルイス・エンリケのもとに走り込んでいったのが彼だった。
「自分のカピタンである選手を決して一人にしてはいけない。
なぜあんなに急いで駆け込んで行ったのか、試合後にあるジャーナリストに聞かれたときの答えがこれだった。

試合前にセルヒオのところにわざわざ近づいてきて、何気なく語りかけてきたカピタン・ルイス・エンリケ。
「いいか、セルヒオ、落ち着いて自分の知っていることだけやればいい。自ずと良い結果がでるもんさ。普段と同じようにやればいいんだ。」
セルヒオにとって生涯忘れれられないであろう言葉はルイス・エンリケのそれだけではなかった。それは試合中にかけられたロナルディーニョからの声だった。

「ここだ!ここだ!エルマーノ(兄弟)!」
この声が何回も試合中にロナルディーニョからセルヒオに送られていた。ボールをもった瞬間に相手ディフェンス選手に囲まれそうになった彼に常に声をかけたロナルディーニョ。
「ここだ!ここだ!エルマーノ!」
それは彼にとって、大げさでも何でもなく、まるで神からの声のようだった。
「セルヒオじゃなくてエルマーノ、ロナルディーニョみたいな選手からそう呼ばれる意味がわかる?そりゃ、うまく説明できないけれど、とにかくスゲエことなんだぜ。鳥肌が立つような感じだった。」

試合終了後に自宅に向かうセルヒオは試合中のユニフォームを着たままだった。もちろん汗でビショビショになっているユニフォーム。だがそんなことはまったく気にならなかったと語る。一生の記念となるユニフォームはおじいちゃんが経営しているバルの壁にかざられることになるだろう。
「朝の4時頃にベッドに入ったのは覚えているけれど、いったい何時に眠りについたのかわからない。何百回、何千回と頭の中にゴールシーンがやって来るんだ。ああすれば良かった、こうすれば良かった、イレギュラーバンドさえしていなければ、ボールをもっと強く打っていれば、そんなことを夢の中で思っていた。」

基本年俸6千ユーロ、各種のボーナスを足しても年間1万ユーロに届くかどうかというのがバルサBカテゴリー所属のセルヒオの年俸。彼がこの試合で勝ち取ったものは少なくても二つある。一つは契約の見直し交渉が再開されたこと、そしてもう一つ、それはセルヒオにとってクラブとの新契約交渉よりももっと大事なもの、そう、カンプノウに集まった8万バルセロニスタにイッチョマエの選手として認められたことだ。ゴールを奪えなかった試合でありながら、8万バルセロニスタに将来のゴレアドールは“我が家”に存在するということを認めさせたことだ


■翻訳資料
EL PAIS紙
EL MUNDO DEPORTIVO紙
SPORTS紙