「俺はダビッツ、よく覚えておけ!」
(2004/03/08)

バルサに入団してきたダビッツをヨハン・ニースケンスの再来だと語る古いソシオが多い。ヨハン・ニースケンス、ヨハン・クライフと共に70年代にバルサで活躍したオランダ人選手だ。そしてその彼がダビッツについて語っている。
「彼のプレースタイルが自分のそれと似ているのは昔からのことさ。そして彼がプレーしているのを見ているとき、いつも自分自身に語るように彼に忠告をするんだ。
『エドガー、注意しろ、もう少し考えてプレーしろ!』
とね。それは自分が現役だった頃とまったく同じなんだ。プレーしながらよく自分に言い聞かせていたのを覚えている。
『ニース、落ち着くんだ、これ以上やばいプレーをしたら退場になっちまうぞ!』
でもそんな“忠告”は何の役に立たないことも知っている。自分がそうだったからな。俺達はそういうキャラクターを持って生まれてきてしまったんだし、常に限界近くでプレーしなければ納得できない性格なんだ。」

偶然かも知れない。だがヨハン・ニースケンスもエドガー・ダビッツも貧しい家庭で育ち、決して恵まれているとはいえない幼少時代を過ごしている。

アムステルダムの北に位置し多くの移民が住む地区、エドガー・ダビッツはそういう地区で幼年期を過ごしている。父は港湾労働者であり母は清掃会社に勤めている共稼ぎ夫婦のダビッツ家。アムステルダムにやって来た多くの移民たちにとって“オランダは移民に寛容な国”という甘い言葉とは無縁の地域と言っていい。オランダ社会から疎外され隔離された多くの移民たちが苦しい生活をおくる地域だ。子供たちの唯一の楽しみであり空腹感を忘れさせてくれる一時、それはゴミだらけの狭い通りでボールを蹴って遊ぶことだ。エドガー・ダビッツも、もちろんそのような子供の一人だった。そして多くの移民の子供たちがそうであったように、ひたすら自尊心の強い子供でもあった。

ウルマ・バン・デル・ランデ、この長い名前を持つ女性はダビッツの通う小学校の先生だ。ダビッツがすでにフットボール選手として名を売り、その彼の伝記を書こうとしていたオランダ人ジャーナリストであるクリスティアン・ルエシンクに次のように少年時代の彼の逸話を語っている。
「ある日、先生の机の前まで来なさい、授業中にそうエドガーに命令したことがありました。彼は私の声が聞こえているのに無視していました。こっちに来なさい、私は繰り返し彼の注意を引こうと大声を出して言ったのです。そうしたらどうでしょう、彼は突然立ち上がって教室から出ていってしまったんです。」

その日の授業が終わるとウルマ・バン・デル・ランデ先生はダビッツ家に向かっている。なぜ突然帰宅してしまったのか、それを問いただしたかったからだ。エドガー・ダビッツの答えは簡単明瞭だった。
「多くの人たちはイヌに向かってこっちへ来い、そう叫ぶ。でも俺はイヌじゃないんだ。こっちへ来いと言われてもスリスリと人に近づいていくイヌじゃないんだ。俺は人間なんだよ先生。」

13才で学校を辞めることになるエドガー・ダビッツはその際に一通の手紙を彼女に書き送っている。親愛なるデル・ランデ女史で始まる丁重な手紙である。
“私の名前はエドガー・スティーブン・ダビッツ。趣味は読書であり切手の収集であり、そして泳ぐことです。本はありとあらゆるカテゴリーのものを読みますが、“ミッキーマウス”や”アルプスの少女”などのマンガも大好きです。将来は漫画家になろうとも思っているぐらいです。先生とは何回か揉めたこともありますが、学校そのものを辞めるのは辛い気持ちです。でも事情があって学校を離れることになりました。いま書けることはこのぐらいのことです。エドガー・スティーブン・ダビッツ”

アヤックスのカンテラ選手となったダビッツ。まるでその彼の後を追うようにして一人の少年がアヤックスのカンテラ選手として入団して来る。ダビッツよりは年下であり、ダビッツ家から数分とかからないところに住んでいた少年だった。その子の名前をパトリック・クルイベルという。だが家が近いことを共通点としながらもいくつかの点で異なる子供たちであった。パトリックは性格的にオープンであり、いつもニコニコと人当たりのいい少年だった。その彼と同じような性格をしている両親たちは近所つき合いも多い家庭だ。そして練習に通うパトリック少年には常に父がお供に付いていた。それに比べ、ダビッツ家は不在の多い家庭だった。父親は滅多に家にいないし、母はほぼ一日中働きづめのため家を不在にすることが多かった。練習にはもちろんエドガー少年一人で通う毎日だ。この違いが、まるでプラスマイナスのようにお互いを近づけたのか、いずれにしても彼らは切っても切れない“仲間”となっていく。

1991年、アヤックス・フベニールカテゴリーに在籍するダビッツ。これまで何回もクラブを追い出されそうになった彼の“おこない”に関する逸話は多い。この年のある日、彼はアムステルダムで有名なカフェバーにいる。オランダテニス界の新星であるリチャード・クラジセックを偶然見つけた彼は次のように語りかける。
「あんたが俺のことを知らないことに賭けてもいいぜ。知らないだろ、俺のことを?」
リチャードはもちろん目の前にいる小柄だが頑丈な体をした若者のことを知らない。
「うん、君が誰だか僕は知らないよ。」
「俺の名前はダビッツ、エドガー・スティーブン・ダビッツ。何年かすればオランダ代表チームでプレーしているだろうし、誰もが振り返るほど豪華な車に乗って走り回っているだろう。そしてあんたのところにも俺の名前が届くことになるさ。」

そう言い切ると肩を揺らしながら出口に向かうダビッツ。
「ダビッツだな?君の名前は。」
「そう、ダビッツだ。覚えておくといい。」

ダビッツがかつて読んだマンガの1シーンにこんな場面があったのをもちろん彼は覚えている。覚えていないのは何というタイトルのマンガだったか、そういうことだった。だがそんなことはいい、彼はまるでマンガの主人公になった気分だった。

彼のアイドルはマラドーナ。それはフベニール時代の彼のプレースタイルを見れば一目瞭然だ。身長に恵まれているわけではないが強靱なフィジカルの持ち主。瞬発力、持久力には誰にも負けない自信があるし、テクニック的にも優れていると自認するダビッツ少年。だが彼の前にとんでもない人物があらわれる。アヤックスのカンテラコーチをしていたルイス・バンガールというおそろしくも愛想のない人物だった。
「ダビッツ、お前はいつもマスターベーションして一人遊びしているが、それで楽しいのか?」
バンガールは一対一の勝負となると必ず相手の股の間にボールを通そうとしたり、やたらとヒールキックを好むダビッツのプレースタイルを言っていた。
「お前の特徴はもっと他のところにあるんじゃないか?よく考えて見ろ!」
ダビッツはとりあえず何でもできるスーパーマンになることを諦めた。すべての事が可能になるとは限らない。とりあえず自分のキャラクターにあった才能を磨いていけばいい。実は多くのマンガの中でもスーパーマンが一番のお気に入りだったのだ。だが空を飛べないバッドマンでもいいかも知れない。

グース・ヒディングはフットボール選手に規律を誰よりも求める監督だが、それはグランド内に限ったことではなかった。常に子供達のアイドルとしてのフットボール選手でなければならない。そしてアイドルは常に模範的な行動をとらなければならない。公式の席にもでたがらず、ファンのサインの要求にも応ずることが少なく、自分勝手な意見をメディアに公表することが多かったダビッツは当然ながらグース・ヒディングと衝突することになる。ユーロ96の大会を前にしてグース・ヒディングはダビッツを代表から追い出してしまう。そしてそれから2年後、ワールドカップ・フランス大会ではダビッツを招集するもののリザーブ選手扱いとした。だがダビッツにとって幸運なことに、オランダ代表のセカンドコーチはフラン・ライカーだったことだ。

フラン・ライカーは当時のダビッツに関して最も理解していた数少ない人物だと言っていい。彼はグース・ヒディングを説得し、ダビッツをスタメン起用することに成功している。その後多くのファンにとって、フランス大会でのダビッツはファールを最も多く犯した選手として記憶されると同時に、最も戦闘的でインパクトの強い選手の一人としても記憶に残ることになる。
「俺は戦士。戦士は常にメラメラと燃える魂を持っている。そしてその魂をコントロールできる戦士のみに優秀な戦士の称号が与えられるんだ。最近の俺はどうやら少しずつとは言えそれができるようになってきた。」
フラン・ライカーは戦士の扱いを知っているインテリ監督だ。戦士と自称する人物に接する際に最も欠かせないもの、それは相手のプライドを傷つけないことだ。自尊心の固まりとも言っていい戦士のプレイドを傷つけてはいけない。マンガの主人公気分となっている人物に対しても決してそれを諫めるようなこと言ってはいけないのだ。

エドガー・スティーブン・ダビッツ、誰にも干渉されず毎日マイペースでバルセロナを生きている。本当はバットマンよりスーパーマンの方に憧れるダビッツ、今日はクラーク・ケントとなってバルセロナの街を散歩している。


■資料
EL PAIS紙