ロナルディーニョ物語・2(ロベルト・デ・アシス)
(2004/08/22)

アシス家の3番目の子供となるロナルド・デ・アシス・モレイラ(ロナルディーニョ)に触れるためには、彼の兄であるロベルトを無視することはできない。なぜならフットボール選手としてのロナルディーニョに、そして一人の人間としての彼に最大の影響を与えた人物が兄のロベルトだからだ。奇しくもアシス・モレイラ夫婦にとって結婚1年目を記念する日、つまり1971年1月10日、この日にアシス・モレイラ家の長男が生まれている。ロベルト・デ・アシス・モレイラ、フットボール界ではアシスという名前で知られることになる人物だが、ここではロベルトと呼んでおく。ブラジルの名門グレミオのインフェリオールカテゴリーからスタートし、最終的にはグレミオの一部チーム入りを果たすことになる人だ。

ポルト・アレグレに住む人々には二つの愛すべきクラブがある。一つがグレミオ、もう一つがインテルナショナル。もちろんこの二つのクラブの間には強烈なライバル意識が存在している。そしてアシス・モレイラ家はグレミオのインチャだった。いつかはプロのフットボール選手、それもグレミオでプレーすることを人生最大の夢としていたモレイラだが、残念ながら彼にはその栄光は訪れることはなく、アマチュア選手としていくつかのクラブに在籍するにとどまっている。したがってモレイラが自分の息子にはグレミオでプレーして欲しい、と考えた親ばかだったとしても何の不思議もないことだ。そして小さい頃からロベルトにはその才能があると信じ切っていた親ばかモレイラは、どうにかコネを通じてロベルトをグレミオ・フットボール・スクールのテストを受けられるようにすることに成功。親としては最高の息子孝行をしたと満足するモレイラ。

確かにロベルトには才能が人一倍あったようだ。1週間程度続くテストであるにも関わらず、わずかテスト2日目にして合格している。しかもこのスクールのディレクターであるパオロ・ルムンバがロベルトの父モレイナに次のような感謝の言葉さえ贈っている。
「セニョール・モレイラ、我々はあなたに非常に感謝しなければならない。我々の優秀なスカウトでさえ見つけられなかった貴重な逸材、まだ磨かれていない宝石と言ってもいいだろうこんな優秀な少年を連れてきてくれたのはあなただから。いやあ、本当に感謝しております。」
1982年、ロベルト11歳、妹のデイシ7歳、そしてロナルディーニョはまだ2歳のときだった。

グレミオ・フットボール・スクールという名前からわかるように、このスクールはグレミオ直系組織であり、“アレビン”とか“インファンティル”あるいは“フベニル”とかいうグレミオ・インフェリオールカテゴリーでプレーする選手はこのスクールから選出されることになる。ロベルトはアレビンカテゴリーからフベニルカテゴリーまで、つまりグレミオの抱えるすべてのインフェリオールカテゴリーにおいて、その長いクラブ歴史の中においても特別に目立った選手として記録されることになる。彼にフットボール選手としての才能があったことはもちろんのこと、何年かに一度の、あるいは何十年かに一度あるほどの、才能ある同世代の選手が偶然ながら一つのチームを構成をする幸運に見舞われていた。多くの才能ある選手とのチーム作り、その中にあっても彼はリーダー的な存在としてグレミオクラブ史に残っている。

1987年、すでに16歳のロベルトはフベニルカテゴリーでプレーしている。この年にフベニルカテゴリーガウチョ杯決勝戦が、グレミオとポルト・アレグレとの間で戦われている。結果的にはロベルト率いるグレミオが優勝することになるが、それ自体は珍しいことでもなかった。これまで彼らはいろいろなカテゴリーで多くのタイトルを獲得してきているからだ。だが、この日の試合は決勝戦ということもあり多くの“スパイ”が観客席を埋めていた。16歳、17歳ぐらいの若く優秀な逸材を求めて世界各地を渡り歩くスカウトマン。その中にイタリアのトリノというクラブのスカウトマンも見られた。多くのスカウトマンの目的は前評判が高かったバルドという選手だった、が、この試合で最も目立った活躍をしたのはロベルト。その彼にトリノのスカウトマンは惚れ込んでしまった。10番の背番号をつけセントロカンピスタ、そのロベルトにいたく惚れ込んでしまった。

ロベルト一目惚れスカウトマンはこの試合の翌日にはアシス家におじゃましている。
「お暇なときにトリノに来ませんか?」
それが用件、それだけの用件でアシス家を訪れたスカウトマン。トリノがどんな街で、ピザはどのような種類のものがあるか、パスタがどんなに美味しいものか、気候や人々の習慣はどのようなものか、そしてついでにトリノというクラブがどのようなものか、それを自分の目で確かめて欲しい、それがスカウトマンの用件だった。16歳のロベルトは父と相談した上でオフシーズンを利用して一人でトリノに向かっている。もちろん彼にとって初めてのヨーロッパ訪問だ。

ロベルトのトリノ行きを知ったグレミオのクラブ理事会メンバー、彼らはケンケンガクガクの大騒ぎをすることになる。
「ロベルトが誘拐された!」
こうまで言い切るグレミオクラブ関係者。だが実際には誘拐されたわけでもなんでもなく、このシーズンでグレミオとの契約が切れるロベルトには、何をしようが、どこに行こうが、すべての自由があった。当時のブラジルフットボール規約では、プロ契約を結べない未成年者選手は契約期間が終了次第、自由にクラブを移動する権利を主張していた。後の話になるが、このロベルト問題を皮切りに、クラブに在籍する未成年者選手を保護するための法律が生まれることになる。だが、その“ジーコ法”が誕生するのはまだ先の話だった。

ロベルトが1週間のトリノ旅行を楽しんでいる間、グレミオでは緊急理事会が開かれている。すでに頭を冷やして冷静になっている彼らは、現行フットボール規約によればロベルトには彼の好きなクラブを選べる自由があることが確認されていた。経済的にはイタリアのクラブが彼に提示するであろう美味しいオファーに太刀打ちできない、それではどうやってロベルトを説得するか、それがこの緊急会議の重要なテーマだった。最終的に出された結論、それはアシス家を抱き込んでしまえ、そういうことだった。そしてこの作戦は、彼らの期待通り見事成功を収める。最初のプロ契約として異例の高額な年俸のオファーがロベルトに提示された。それでもトリノが彼に示したものよりは低い。だがもう一つの魅力的オファー、それはアシス家に新居を与えるというものだった。ポルト・アレグレの高級住宅街にある2階建ての一軒家。広い敷地には真っ青な芝が植えてある広大な庭やプールまでが作られている豪邸。もっともこのプールが後に大惨事を生み出すことになるのだが、そのことは神様ではない彼らには知るよしもない。

アンダー14、15、16、17、19、21とすべてのアンダーカテゴリーでブラジル代表選手に選ばれているロベルト。アンダー21ではバルセロナオリンピック参加予選も戦っている。カフー、レオナルド、ロベルト・カルロス、ソニー・アンデルソン、ジャルミーニャというそうそうたるメンバーを擁したブラジル代表だったが、予選で敗退しオリンピック参加には涙をのんだ。そしてこの代表参加を最後に、本代表には一度も選出されずにロベルトは現役生活を終えている。その最大の原因は彼が20歳となった時、つまりプロ契約をしてから4年近くたったシーズン試合での負傷だ。サン・パウロとの対戦中に彼は右足靱帯切断という大負傷をし1年近くのリハビリを余儀なくされた。1992年のシーズンにはどうやらこうやら現場復帰を果たした彼は4年間のグレミオ一部チームでの選手生活に終止符を打ち、スイスのシオンというクラブを皮切りに多くのクラブを渡り歩くことになる。ポルトガルのスポルティング・デ・リスボア、ブラジルのバスコ・デ・ガマ、フルミネンセ、日本の札幌にあるクラブ、メキシコのテコス・デ・グアダラハラ、再びブラジルに戻りコリンチャンス、そして2002年6月30日、フランスはモンペリエルで現役生活に終止符を打っている。

話を少し戻そう。ロベルトがプロ選手契約した1987年12月の会合には、グレミオ側からはクラブ会長のパオロ・オドネと副会長のカルロス・シルベイラ・マルティン、そしてロベルト側からは父のモレイラが出席している。未成年者のロベルトに代わって父が契約書にサインするためだ。その彼がサインをしたあと、クラブ側の人々に次のように語っている。
「これでグレミオはついにアシス家の一人とプロ契約を結んだことになる。だが、我が家にはロベルトに勝るとも劣らないクラックがもう一人いるんだ。まだ家の中でボールを転がして遊んでいるだけだがね。」
どこにでもいる親ばかの言葉、そう思いながらジョークの一つだと理解して笑う副会長のカルロス。だが、これから何年後、彼がクラブ会長に昇進し、そしてその彼がもう一人のアシス家のクラックとプロ契約にサインする人物となる。ロナルド・デ・アシス・モレイラ、つまりロナルディーニョのプロ選手契約書だ。


資料
「RONALDINHO la magia de un crack」
著者・TONI FRIEROS
出版・COLECCION SPORT