ロナルディーニョ物語・3(ロナルド・デ・アシス)
(2004/08/26)

1980年3月21日、アシス・モレイラ家に3番目の子供が誕生した。ロベルトやデイシが誕生した時と同じように難産でありながら、それでも彼らと同じように健康な赤ん坊だった。体重3790グラム、身長50センチの男の子でロナルド・デ・アシス・モレイラと名付けられた。とにかく大勢の親戚や友人たちがいる家だった。17人の叔父叔母たちと64人の従兄弟たちに囲まれて育つことになるロナルド・デ・アシス。兄のロベルトがこの世に誕生してきたときと同じように、彼にもまた自動車などのおもちゃの代わりに赤ん坊用のグレミオユニとボールがプレゼントされている。

ロベルトがグレミオのインフェリオールカテゴリーでプレーするようになったとき、ロナルド坊やはまだ3歳程度。それでも兄の出場する試合には父のモレイラと必ずと言っていいほど応援に出かけている。
「いつかはロベルトのようにグレミオでプレーするんだ!」
兄が活躍する試合を見ながら将来を夢見るロナルド少年。家の近くにある広場と言わず道路と言わず、家の中でもボールを蹴って遊ぶロナルド少年だが、そんな彼も兄のロベルトと同じように11歳でグレミオ・フットボール・スクールに入学し、徐々にグレミオ・インフェリオールカテゴリーの試合に出場するようになる。クラブとプロ契約して一部チーム選手としてプレーするまで在籍することになるインフェリオールカテゴリー。かつてロベルトとその仲間たちが各インフェリオールカテゴリーでタイトルをとりまくった時代がグレミオにとって“栄光の時代”であったとするならば、ロナルド・デ・アシスが各インフェリオールカテゴリーに在籍していた時代も“栄光の時代”と呼ばれれるものだった。しかもクラブ単位だけではなく、ブラジル代表アンダーカテゴリーにも常に招集された彼は一人のブラジル少年が獲得可能なすべてのタイトルを手にしている。

ロナルド・デ・アシスから次第にロナルディーニョと仲間から呼ばれることになる彼に、二人の親友がこの時代にできている。それも親友中の親友と言っていいほどの親友だった。一人はティアゴ・オリベーラといい、もう一人はロドリゴ・グラウという。

1979年10月24日生まれのティアゴはロナルディーニョよりも5か月早くこの世に誕生してきている。その彼らが知り合うのはグレミオ・フットボール・スクールだった。それ以来、18歳になるまで彼らは常に同じカテゴリーで一緒にプレーしている。彼ら二人の肌の色が同じで周りの多くの少年たちは白人だったことも彼らの絆を強めた一つの理由かも知れない。だがそれ以上に、フィーリング的に“肌が合う”タイプだったのだろう。練習前も練習後も一緒にボールを蹴って遊ぶ二人だが、家に帰ればプレーステーションでフットボールゲームを戦う敵同士でもあった。その親友のティアゴは18歳でグレミオを離れている。お互いにプロ選手となった二人の道は一緒とはならなかった。ティアゴはパルメイラスにレンタル移籍し試合中に大怪我をするという不幸に見舞われた。ロナルディーニョがパリのPSGに移籍するほんのちょっと前のことだった。長いリハビリ生活を続けるティアゴだが、ロナルディーニョは自腹を切って彼をパリに呼び寄せ権威ある医者を紹介するものの最終的にプロ選手として復帰することは不可能となった。そしてティアゴはそのままパリにに残ることになる。ロナルディーニョの自宅に住み、彼のスケジュール調整などをおこなうマネージャーとして、あるいは車の運転手として常にロナルディーニョと一緒の生活となる。現在、彼はカステルデフェルスにあるロナルディーニョの自宅に住み、パリ時代と同じようにマネージャー兼運転手として生活している。

1994年、グレミオに入団してきたロドリゴという少年は“15歳のはず”だった。なぜなら彼の両親が持参してきた出生記録書には1979年2月21日と記入されていたからだ。したがってロナルディーニョよりは2つ年上の坊やであった。だが1999年、アルゼンチンでおこなわれた南米アンダー20の大会とナイジェリアでおこなわれた国際ユースカップに招集されたロドリゴに対する大会関係者の年齢調査で実は1977年生まれであることが判明する。ロドリゴが2歳サバを読んでいたのか、あるいは役所のミスだったのか、そこら辺は明らかにされていない。いずれにしても“表面上”2歳違いのロドリゴとロナルディーニョがなぜ同じインフェリオールカテゴリーでプレーしていたか、それはロナルディーニョは常に年上のカテゴリーでプレーしていたからだ。彼は一度として同年代の少年たちとプレーしていない。いつも2歳、あるいは3歳年上のカテゴリーでプレーしてきた。

2歳、あるいは4歳年上のロドリゴは頻繁にアシス家におじゃましている。やはりしばしば遊びに来ていたティアゴも含めてアシス家で夕食を一緒にしたり泊まっていくこともよくあったようだ。まるでロナルディーニョという弟と一緒に生活している感じのロドリゴだが、プロ選手となってからしばらくしてグレミオを離れることになる。ユベンツーデ、フラメンゴ、レシフェなどのブラジルのクラブを転々とした後、2002年から日本のフビロ・イワタというクラブで成功を収めることになる。2004年1月1日、セレッソ・オーサカというクラブとの天皇杯決勝戦で彼の貴重なゴールでフビロ・イワタに20年ぶりの天皇杯カップを獲得させた。

17歳でグレミオとプロ選手契約を結び一部チームで試合出場することになるロナルディーニョだが、その彼がグレミオの新たなスター選手として多くのファンに認識されるのに時間はほとんど必要なかった。数々のスペクタクルなプレーと、勝利につながる貴重なゴールを決めまくるロナルディーニョは最初の年にしてすでに確固たるスター選手としての基盤を築く。

グレミオ一部チームでデビューしてから3年目となる2000年の1月、シドニーオリンピック参加権をかけた戦いが始まった。これまでブラジル代表の歴史において一度たりとも優勝経験のないオリンピックでの戦いであるだけに、新星ロナルディーニョを中心とするオリンピック予選参加チームに大きな期待がかかっていた。まずエクアドール相手に2−0、ベネスエラに3−0、そしてコロンビアに9−0と勝利し、グループ首位となりファイナルグループによる戦いが始まる。最初の相手はアルゼンチン、強敵アルゼンチンだ。ビサーリ、クフレ、ミリート、アレサンドロ、エスコラーリ、カンビアッソ、ドゥチェール、リケルメ、アイマール、キンタナ、ロメロという布陣でスタートしたアルゼンチンは途中でサビオラを投入。だがロナルディーニョのゴールなどでブラジルが4−2というスコアで勝利し、アルゼンチンのオリンピック参加権を奪う。その後、チリに勝利し、ウルグアイと引き分けることによってブラジル代表はシドニーオリンピック参加権を獲得することに成功し、ブラジルオリンピック初優勝に向けて大きな一歩を踏み出した。

だがブラジル代表にはオリンピックの戦いがよほど相性が悪いのだろう。準々決勝まで進みながら延長戦に入ってからの“ゴール・デ・オロ”でカメルーンに敗退した。またしてもオリンピックタイトルを逃したブラジル代表、ロナルディーニョにも普段の笑顔が見られずオーストラリアからブラジルへの帰国となる。そして彼を待ち受けていたのは兄のロベルトだった。
「ロナルディーニョ、俺たちはそろそろ真剣に将来のことについて話し合わなければならないよ。」
そう語りかけるロベルト。

外国でプレーしている兄のロベルトだが、その彼には多くのオファーが来ていた。オファー、だが彼へのオファーではない。弟のロナルディーニョに関するオファーだ。彼はプロ選手として外国でプレーする傍ら、ロナルディーニョの代理人もつとめるようになっていた。代理人としての最初の仕事はペプシとのスポンサー契約だ。1999年の8月に撮影されたロナルディーニョ主役のペプシコマーシャルは全世界で放映され大評判となった。そして今、ロベルトにはインテル、ミラン、レアル・マドリ、バルサ、そしてマンチェスターなどからのオファーが来ていた。ロナルディーニョのグレミオとの契約が2001年2月に切れることを機に、そろそろヨーロッパへと羽ばたく時期と考えるロベルト。仲のいい兄弟同士の話、そして選手と代理人としての話、その二つが微妙にミックスされた会話が始まった。


資料
「RONALDINHO la magia de un crack」
著者・TONI FRIEROS
出版・COLECCION SPORT