ロナルディーニョ物語・4(ヨーロッパへ)
(2004/09/01)

「俺のところにはヨーロッパのビッグクラブと呼ばれる多くのクラブからお前に関する移籍のオファーが来ている。イタリアやスペイン、そしてイングランドなどのクラブからのオファーさ。だがなロナルディーニョ、お前はまだ20歳。だから俺はこう思うんだ。まだお前はビッグクラブに移籍するには早すぎるんじゃないかとさ。毎日毎日大きなプレッシャーがかかってくるし、その国の水に慣れる前に結果を求められることも目に見えている。1年目から他の選手との違いを見せ、タイトル獲得のための立役者となることを要求されるだろう。」
真剣な表情で兄の語ることに耳を傾ける弟。
「うん、それで?」
「もし俺だったら、まず2年、あるいは3年、ヨーロッパのクラブの中でも比較的プレッシャーの少ないクラブに移籍する。選手として成長するのに時間が与えられ、その土地の水に合うためにも時間的な余裕があるクラブ。少なくても2年あればヨーロッパフットボールスタイルに慣れることができるようになると思うんだ。そしてそれから、お前の望むヨーロッパのビッグクラブに移ればいい。イタリア、スペイン、あるいはイングランドのビッグクラブに移籍すればいいと思う。」

次へのステップ、ロマリオやロナルド、そしてリバルドなどのような世界的に知られるフットボール選手になるためへの次のステップ、つまりヨーロッパのクラブへの移籍が彼らの間で検討されていたのは2000年の夏のこと。グレミオとロナルディーニョの間で交わされていた契約が切れるのは2001年2月15日だからして“普通”であれば彼のヨーロッパクラブへの移籍は何の問題も起こらないはずだった。だが状況はだいぶややっこしい時期だった。ジーコがスポーツ大臣を務めた時代に決められたいわゆる“ジーコ法”によれば、契約が切れた選手であってもクラブ側が一方的に1年、あるいは2年間程度の選手権利を擁することを認めていた。だが1998年3月24日に成立した“ペレ法”によれば、2001年3月26日以降からかつての“ジーコ法律”は無効となり、契約が切れた選手は自由に好きなクラブに行けることになっていた。古い法律から新しい法律への変動の狭間におきようとしているロナルディーニョ問題、だが楽観的に考えていたロベルトはさっそく行動にでた。

2000年12月22日、ロナルディーニョはフランスのPSGと5年契約を結ぶ。関係者だけがポルト・アレグレに集まり密かに結ばれた契約だった。そして契約書にサインされてからちょうど1か月後、つまり2001年1月22日、パリのPSG事務所に多くのメディアを集めPSGクラブ会長がロナルディーニョ獲得を発表した。このニュースは5秒後にはポルト・アレグレにいるグレミオの会長のところまで飛んでいく。そして彼もまた多くのメディアを招集し、PSGとの全面戦争を宣言した。

全面戦争宣言から3日後となる1月25日、事実上ロナルディーニョにとってグレミオの選手として最後の試合が地元スタディアムでおこなわれた。すべての人々はすでに“ロナルディーニョ問題”を知っていた。彼の裏切り行為を糾弾する人々が半分、彼のヨーロッパ進出成功を望む人々が半分、それが具体的にあらわれたのがロナルディーニョがゴラッソを決めた時だった。スタディアムを埋める半分の人々がブーイングを、そして半分の人々がスタンディングオベーションをするという風景となってあらわれた。試合終了後、グレミオの選手としての最後の試合となるロナルディーニョはグランドを走り回る。ブーイングする人々、拍手する人々、すべてのグレミオファンに感謝の意思表示とサヨナラの挨拶をするために、ロナルディーニョは走り回った。

グレミオの会長は裁判沙汰にすることを決意した。彼が主張するにはロナルディーニョとクラブが結んだ契約は“ペレ法”が誕生する36日前に、そして“ペレ法”が執行される37か月前に結ばれたものであることを理由に、PSG移籍無効を訴えて裁判に持ち込む。実際、かつての“ジーコ法”がそうであったように、新たに誕生した“ペレ法”も法律と呼ぶにはあまりにもお粗末すぎるほどの抜け穴が用意されているものだった。大まかなことだけは決められているものの細部に関しては触れられていない法律だった。2001年2月13日、ロナルディーニョ問題は裁判所扱いとなり、3月30日に担当裁判官マリア・ビエイラによって最初の決断が発表された。それは最終的な判決が下りるまで、とりあえずロナルディーニョが外国でプレーすることを不可能とすること、つまりブラジルフットボール協会はロナルディーニョの選手登録抹消手続きを今すぐおこないなさい、そういうものだった。

すでに矢は放たれ後戻りはできないロナルディーニョとPSG。彼らはロナルディーニョの選手登録が抹消中であるにも関わらず、クラブ入団のプレゼンテーションをおこなうことを決意。4月11日、ロベルト、ロナルディーニョ、PSG会長、そして監督のルイス・フェルナンデスも同席しての入団記者会見が開かれた。裁判の最終的な判決が下りるまで、そしてブラジルフットボール協会が選手登録抹消を取り消すまで正式な試合には出場できない。だが、それでもPSG入団事実だけは世界に対しておこない、PSGの後ろには引かない強い意志を示す、それが目的だった。ルイス・フェルナンデスによってロナルディーニョのフィジカルトレーニング特別メニューが作成され、試合出場が可能となる日に備えた。だが、その日はなかなかやって来ない。2000−01シーズンはすでに終了し、次のシーズンに向けてのプレステージも始まっているというのに、まだ、その日はやって来ない。

ブラジルにおける“ボスマン裁判”とまで言われることになるこのロナルディーニョ移籍裁判が、ほんの少しの進展を見るのは7月のことだ。裁判沙汰となってから5か月たった7月5日、マリア・ビエイラ裁判官は判決を下す前に両クラブに対し、一つの提案をする。それは今から26日以内に両クラブが話し合いの席について移籍料に関しての合意を得るように、そういう提案だった。だが、それが不可能だったから裁判沙汰になっていたのだ。この提案を受けて同じテーブルにつく両クラブ責任者だが、グレミオは2000万ドルの移籍料を要求したのに対し、PSG側の返事は最高でも400万ドルというものだった。7月31日、マリア・ビエイラ裁判官は最終判決として次のように語る。
「今回の件は“ジーコ法”に基づいても、あるいは“ペレ法”に基づいても残念ながら法律的根拠がはっきりしないことを認めなくてはならない。グレミオ側が選手に対して権利を主張するのも納得できるし、選手側が働く場所の選択の自由を訴えることも納得できることだ。したがってこの裁判所では最終判決を下す法律的根拠がないことを認めながらも、グレミオ側に移籍料を受け取る権利があることを認め、同時に選手は移籍する自由があることも認めることになる。そして当事者同時での話し合いで移籍料が決まらない今、フットボールの最高機関であるFIFAが最終的判断を下すべきだろう。さらに、ブラジルフットボール協会が臨時的におこなっている選手登録抹消処置は今すぐ取り消されれなければならない。」
半年近くかかったブラジルでの裁判、その結果明らかになったこと、それは一般裁判所では判決不可能という、とんだ“ボスマン判決”となったことだ。だが、ロナルディーニョはこの日を境として、少なくても一人のフットボール選手としてグランドに復帰できることになった。そしてこの年の冬、FIFAはPSGに対し580万ドルの移籍料をグレミオに支払うことを命じ、ロナルディーニョ問題は終わりを見ることになる。

2001年8月4日土曜日、ロナルディーニョがPSGの選手としてデビューする。後半15分に登場してきた彼にとって、これまで新しいクラブのユニフォームを着て7試合の親善試合に出場していたとはいえ、ついに公式試合に出場できた記念の日となった。フットボール選手ロナルディーニョ・ガウチョの復帰だ。

だがロナルディーニョには多くのハンディーがあった。5か月も公式試合に出場していないこと、初めてのヨーロッパフットボールであること、そして彼が住む環境は今までとはまったく違う大都会での生活であり、気候もまったく違うものであること。それだからこそ、監督のルイス・フェルナンデスはロナルディーニョを大事に大事に育てようとしていた。8月、9月、10月、11月、そして12月、依然としてロナルディーニョは毎試合決まってのスタメン選手としては認識されていなかった。スタメンで登場してきても90分間続けてプレーすることさえあまりなかった。だがルイス・フェルナンデスにはロナルディーニョの才能を誰よりもかっている人物であったことは間違いない。ブラジル代表監督のルイス・フェリッペ・エスコラリーが翌年におこなわれる韓国・日本ワールドカップに出場する選手のリスト作りのためにヨーロッパ各クラブに在籍するブラジル選手を視察している9月、パリに着いた彼にルイス・フェルナンデスは次のように語っている。
「今のロナルディーニョにはフィジカル的に問題があるが、特別メニューのフィジカルトレーニングをしているし徐々に本来の彼に戻ってくるだろう。少なくてもワールドカップまでには100%になっているさ。いずれにしても彼はすごい選手だ。」

2002年に入ってからというもの、ロナルディーニョはルイス・フェルナンデスの予想通りフィジカル的にも何の問題もなく、スタメンで出場し90分間フル出場できる状態となっていた。28試合に出場しリーグ戦では9ゴールを決め、UEFAカップでは6試合に出場し2ゴールを記録している。だが、リーグ戦4位となったPSGは翌シーズンもチャンピオンズリーグ参加は諦めなければならなかった。


資料
「RONALDINHO la magia de un crack」
著者・TONI FRIEROS
出版・COLECCION SPORT