ロナルディーニョ物語・5(サンドロ・ルセー)
(2004/09/06)

ロナルディーニョにとってPSGの選手として2年目となる2002−03シーズンが開幕している。だが昨シーズンの後半のような素晴らしい活躍をしているかというと、そうでもない。ワールドカップに出場し活躍した多くの選手がそうであるように、特に優勝までしたブラジル選手であるからして未だに頭の中は韓国・日本ワールドカップの思い出でが邪魔をしていることだろうし、しかもロナルディーニョはまだ22歳の若さだからして“現実”に戻ることができていない、そう考えるルイス・フェルナンデス。だが普通の選手ならまだしも、ロナルディーニョはすでにPSGの顔と言っていい選手だ。ルイス・フェルナンデスの要求は試合が重なるにしたがって厳しいものとなっていった。そこであらわれる監督と選手の不仲説。よくあるパターンだ。しかも、ワールドカップに優勝したブラジル代表は普段の年よりも多くの親善試合をこなしていた。度重なる代表招集のため、クラブの試合に不参加状態となるロナルディーニョに、彼の責任ではないとわかっていても多くの批判が寄せられる。しかもチームはひどい状態だった。シーズンが終了してみると11位、翌シーズンのヨーロッパの大会参加どころの位置ではなかった。期待通りの活躍を見せなかったロナルディーニョとはいえ、それでもチーム内では一番多くのゴールを決めた選手となる。

ロベルトの判断ではPSGはロナルディーニョにとってすでに“入れ物”が小さいクラブとなっていた。3年後に控えたワールドカップに向けてさらに完成された選手となるために、そして世界中が注目する選手に成長するために、そろそろビッグクラブに移籍する必要性を感じていた。そもそもPSGはヨーロッパへの入り口となるクラブでしかなかったのだ。彼の机の上には2年前以上の美味しいオファーが、それも超一流クラブからのそれが山積みとなっている。

時代は少し戻って1999年6月、アメリカはボストンにあるナイキの本社では連日にわたって会議が開かれていた。フットボール関連商品の強化推進計画、それがメインテーマとなっての真剣な話し合いが続けられている。具体的には中南米への本格的な進出、特にフットボールが宗教とまでなっているブラジルへの本格的な進出計画の実行、それが連日にわたって進められていた会議の検討内容だった。中南米進出計画の最高責任者として最終的に任命されたのは、サンドロ・ルセーという、カタルーニャ出身の若きビジネスマンだった。

まだ30代の後半であるサンドロ・ルセーは、それでもすでにスペインとポルトガルでのナイキ責任者という地位を確保しているやり手ではあった。彼の父親はヌニェス政権が生まれれる前のクラブ理事会員を務めていたバルセロニスタであり、彼もまた当然ながらインチャと呼んでもいいほどの強烈なバルセロニスタの一人だ。中南米方面のナイキ責任者に任命された彼はリオ・デ・ジャネイロの近くのバーラ・デ・ティフカという町にナイキ・スポーツ・マーケティングの事務所を開く。彼の右手となって働くのはかつてサバデルやムルシア、そしてレアル・マドリにも在籍したことのあるぺぺ・コスタという人物だった。ぺぺの重要な仕事、それは“ナイキの顔”となる選手の発掘、それもできる限り早急に見つけ出すことだった。ブラジルに渡るなり彼らが手始めにおこなったこと、それはナイキのブラジル担当員が中南米選手とすでに交わしていた契約書リストのの見直しという作業だった。

彼らが契約書リストの見直しをしている最中の6月末、ルクセンブルゴ監督率いるセレソンはパラグアイでおこなわれているコパ・アメリカの初戦を戦っていた。相手はベネスエラだ。トレス・デ・フェブレロ・スタディアムで戦われたこの試合は、同時にロナルディーニョのセレソンデビュー戦でもあった。4−0という大差で勝利していたセレソンは後半に入りアレックスに代わってロナルディーニョを投入する。後半30分、ベネスエラのディフェンスと一対一になったロナルディーニョがヒールキックでソンブレロをおこないそのままゴールを決めた。派手な代表デビュー戦だった。スター選手のみに許される、とてつもなく派手なデビューだった。
“スター選手の誕生!”
各国メディアが大見出しで紙面を埋めれば、テレビは翌日のスポーツニュースだけではなく何日にもわたってそのゴールシーンを流すことになる。

ボストンのナイキ本社にドカンと座っている社長のフィル・ナイト。彼もまたこの映像を見逃してはいなかった。彼は早速ナイキ・マーケティング部門最高責任者であるホアキン・イダルゴに連絡をとった。
「ホアキン、ロナルディーニョというのは我々と契約している選手か?」
「契約していることは間違いない。だが現在の契約内容はサンドロに聞いてみないとわからない。ちょっと待ってくれ。」
サンドロ・ルセーに電話するホアキン。
「サンドロ、ロナルディーニョに対するコントロールは万全か?」
「もちろんさ。心配いらない。」

コパ・アメリカが終了して間もなくサンドロ・ルセーは彼の事務所にロナルディーニョとロベルトを呼んでいる。ブラジル担当員と交わしていたこれまでの契約書の見直しを提案するためだった。なぜならこれまでの契約内容はごく普通の選手扱いのものだったからだ。新しい契約書、そこにはもちろん契約金の大幅の値上げに加えて、セレソンであろうがクラブであろうがタイトルを獲得した場合のボーナスや、将来に世界の5大ビッグクラブ、つまりバルサ、マンチェスター、ミラン、ユベントス、レアル・マドリのどこかに入団した場合はさらに契約の見直しをおこなうという条項も含まれていた。この新たな契約によりロナルディーニョとナイキの関係はさらに強固になっただけではなく、サンドロ・ルセーにとってアシス兄弟を個人的に知る機会ともなった。

それから4年たった2003年3月29日、サンドロ・ルセーとロナルディーニョはメキシコのグアダラハラ・ハイアットホテルの一室にいる。翌日の30日にはメキシコとブラジルの親善試合がおこなわれるが、この試合のお膳立てをしたのがサンドロ・ルセーだった。初対面となった4年前と変化していたこと、それはロナルディーニョはすでにフランスのPSGで押しも押されぬスター選手となっていたことであり、サンドロ・ルセーといえば韓国・日本ワールドカップ終了後にナイキを退社しバルセロナでスポーツ・マーケティング会社を経営していていることだ。さらに彼らの親交はかなり深いものへと変化し、すでに親友同士と言ってもいい関係だった。

サンドロ・ルセーの様子が普段と違うことが会話のスタートからしてロナルディーニョには理解できた。
「ロナルディーニョ、いまバルサがどうなっているか知っているか?監督のバン・ガールが更迭に追い込まれ、会長のジョアン・ガスパーも同じ立場に追い込まれている。」
だから、何なんだ、とは言わないロナルディーニョ。最初は何を言いたいのか計りかねていたが、頭の回転の速い彼には会話がどこに向かっていくのかわかるような気がした。言葉を挟まずサンドロの話を聞いている。
「俺の親友たち、それも計画性を持った準備万端のバルセロニスタたちと呼んでいいと思うが、その彼らがバルサの会長選挙にでる計画を立てているんだ。もちろん俺も参加することになっている。まだ選挙日も決まっていない段階であるし、我々の代表が会長に選ばれるという保証もまったくない段階ではあるけれど、俺たちの目指す“変革“バルサの目玉選手だけはすでに決定しているんだ。誰だかわかるか?そう、君だ。ロナルディーニョ・ガウチョさ。」
ある程度の予想はできていたとはいえ、ここまできっぱりと言われるとは思わなかったロナルディーニョ。言葉が出ない。言葉は出ないものの、表情はいつものロナルディーニョだった。笑顔、笑顔、笑顔、言葉は出ないが叫び声はでるロナルディーニョ。
「ワオー!ワオー!、ワオー!」
そして、言葉を話す人間に戻ったロナルディーニョ。
「サンドロ、その言葉絶対忘れるなよ!本当に、本当に忘れるなよ!」

メキシコのホテルでおこなわれたこの会話から22日後、バルサはユベントスに敗れチャンピオンズ制覇の夢が崩れることになる。すでに会長を辞任していたジョアン・ガスパーの後を引き継いでいたエンリケ・レイナ会長にとって、そしてすべてのバルセロニスタにとって、すでに会長選挙を引き延ばす理由はいっさいは見つからなかった。なぜなら今シーズンも一つのタイトルも獲得することなく終わることがはっきりしたからだ。5月5日、エンリック・レイナは会長辞任を発表し、クラブ臨時理事会メンバーが会長選挙日を選考することになった。バルサ新会長選挙は6月15日と決まった。サンドロ・ルセーとロナルディーニョとの間で会話がおこなわれてから3か月半後に会長選挙がおこなわれることになった。

ジョアン・ガスパーが会長辞任を発表した段階で、ジョアン・ラポルタを親分とする彼らのチーム組織構成はほぼ完成をみていた。スポーツ・ディレクターにはチキ・ベギリスタインの参加もすでに内密ではあるが了承をとっていた。したがってエンリケ・レイナが会長辞任した段階ではチキとの話し合いは何回もおこなわれていたことになる。ベッカム、マルケス、キウエル、デコ、ルストゥ・・・何人かの獲得候補選手のリストがすでにできていた。が、サンドロ・ルセーには一人の選手の名前しか頭に入っていない。ロナルディーニョ、そう、ロナルディーニョの獲得に向けて韋駄天サンドロは走り回る。まだ会長選挙候補にジョアン・ラポルタが正式に名乗りを上げてさえいない時期だった。


資料
「RONALDINHO la magia de un crack」
著者・TONI FRIEROS
出版・COLECCION SPORT