アディオス!ロマリオ!
(2005/01/07)

「1年ちょっとしかバルサではプレーしていないにもかかわらず、俺にとっては10年ぐらいいた選手に思えるんだ。いや俺だけじゃなくて多くのバルセロニスタにとって彼はそういう選手だったと思う。」
そう語るギジェルモ・アモール。彼とは、もちろんロマリオのことだ。1993年の夏、PSVアインドーベンからバルサに移籍してきたロマリオはこの1993−94シーズンだけしか活躍していないと言っていいだろう。1994年のワールドカップでセレソン代表の一人として優勝を経験し、その夏におこなわれたバルサのプレステージには約束の日に大幅に遅れて参加して来ている。そして前シーズンとは違いあまり試合に出場することもなくその冬にはフラメンゴへと移籍していった。したがってギジェルモ・アモールが語るようにロマリオはわずか1年しかバルサに在籍していない。それにもかかわらず、多くのバルセロニスタにとってはまるで10年間もバルサでプレーした選手のように思えるのも事実だ。あのスペクタクルなゴールの数々がいまだに脳裏に焼き付いているからか、あるいは彼の強烈な個性がいまだに忘れられないからかも知れない。ロマリオ・デ・ソウサ・ファリア、1966年1月生まれの彼は27歳でバルサに入団してきた。

1993年7月17日土曜日、当時のバルサ副会長であるジョアン・ガスパーの自宅でロマリオ移籍交渉が延々とおこなわれていた。PSVアインドーベンクラブ関係者、ロマリオと彼の代理人、そしてバルサからはガスパーがすべての責任を負って一人で交渉している。約2週間前からおこなわれてきた移籍交渉の最大の山場となるこの日、実に6時間もの厳しい交渉が続いていた。もちろんPSVアインドーベン関係者やロマリオの関係者は前もってガスパーの交渉手腕の鋭さは噂で聞いていた。が、これほどまでとは思わなかったのだろう。途中で何回か交渉決裂という場面を迎えていた。ガスパーの執拗にして厳しい交渉が彼らにとっては地獄の6時間となっていた。この移籍交渉は夜の11時から始まっており、ガスパー宅の庭から見下ろせる海の彼方がそろそろ明るくなってくる頃、ついにロマリオのバルサ移籍交渉が終わりを見ることになる。
「夜が俺の友達」
そう言い切るロマリオらしい移籍交渉が終わりを見たのは早朝の5時だった。

「いくつのゴールを約束してくれるかな?」
交渉が終わり雑談に入った時にガスパーは笑顔でロマリオに問いただす。
「30ゴール」
そう言い切ったロマリオ。
「よし、君が30ゴール決めてくれれば我々は優勝間違いなしだ。」
「俺は30ゴール決めるという約束をしただけで優勝の約束はしていない。ゴールは俺一人で決められるが優勝はチームがすることだ。」
そう、これがロマリオだ。

夜が俺の友達と言い切るロマリオだからして、当然ながら夜は家にいない。“夜”という友達に会いにいかなければならないからだ。それはディスコであったりパーティー会場であったりレストランであったりする。多くの“夜”の友人を連れて“夜”を徘徊するロマリオだが、不思議なことにアルコールはいっさい口にしない。彼の飲み物はオレンジジュースと決まっている。
「女は苦手だからいつも男友達と踊りまくるんだ。」
と言うのは彼のジョークの一つに過ぎないことは誰もが知っている。フットボールのことに関しては決して嘘やジョークは言わないロマリオだが、日常生活のことに関しては口を閉ざすかジョークで逃げ切るかのどちらかだ。

朝方まで“夜”という友人と一緒にいることが多いロマリオだが、それでも練習には遅刻してこない。それは毎日の練習に顔を出しているバルサ現場責任者であるカルロス・ナバールが保証している。
「練習開始時間の5分前に突然あらわれ、4分間でコーヒーを飲みながら着替え、1分前には練習場に姿をあらわしている。そして規定の練習が終わったあと2分後にはもうどこかへと消えていっている。これが毎日のロマリオさ。ああ、それでも1回だけ練習に遅刻してきたことがあったな。あれはAt.マドリ戦の前日の練習日だったような気がする。」
カルロス・ナバールの記憶は正しい。確かにロマリオは1回だけ練習に遅刻し、その日はAt.マドリ戦の前日のことだった。クライフは練習に遅刻してくる選手には厳しく、例え1分の遅刻であっても罰金を要求している。この日もクライフはロマリオに罰金を請求しているが、ただし罰金を逃れる条件も彼に与えている。
「もし明日の試合でハットトリックを決めたら罰金はなしということにしよう。」
「わかった。だがもし俺がハットトリックを決めたらあんたが俺に夕食をおごるというのも付け足しておいてくれ。」
ロマリオはAt.マドリ戦で3ゴール決めている。したがって罰金からは逃れることになった。だがクライフが彼に夕食をおごることもなかったようだ。クライフは人におごられることは当たり前のことだと思っているが、自分が他人におごるという認識はいっさいない人だった。
そう、ロマリオとクライフはそういう男たちだ。

この二人の関係は非常に面白い。滅多に個人名をあげて褒めることをしないクライフだが、1988年からスタートしたクライフバルサに初めてやってきたこの“9番”の選手だけは世界最高の選手であると褒めちぎっている。
「テクニック的に誰も真似できないものを持っているだけではなくゴールの嗅覚という素晴らしいものを持ち合わせている。一人で試合を決めてしまうことができる数少ない選手の一人だ。」
そう言われたロマリオも彼には珍しく監督を称えている。
「フットボールというスポーツはクライフという人物の目を通して理解されるものだと思う。つまりフットボール=クライフと言っていい。」
公の場では気持ち悪いほどお互いを称える二人だが、その彼らは選手控え室で毎日のようにもめていたとチキ・ベギリスタインが告白している。
「夜な夜な遊び歩いている噂がメディアで騒がれたときなんか決まってクライフがロマリオをつかまえて『いい加減にしたらどうだ!』とかなんとか言うとだな、ロマリオは決まってこう答えるんだ。『あんたは俺の親父か?』ってね。周り中に聞こえる大声でやり合っているんだが、俺たちは影でクスクスさ。もうしょっちゅうのことだったし、ああいう風に監督に言えるヤツは彼しかいなかったしね。」
ゴールを決める難しさを知っているチキだからして、ロマリオ特有のゴールの嗅覚に関しても触れる。
「入団してきたときに30ゴールを約束していたが、もし40ゴール、あるいは50ゴールをクラブから要求されていたら間違いなくその数を達成していただろうね。ヤツは約束したことはそれなりに守ることができる男だからさ。」
30ゴールを約束したロマリオはリーグ最終戦で見事30ゴール目を決めている。29でもなく31でもなく30ゴール。約束した自分の仕事だけはキッチリと守った。
そう、それがロマリオだ。

「フットボールというスポーツにおいて、ゴールというものだけが観客を喜ばせたり悲しませたりすることができる。そしてゴールを決めるのが俺の仕事さ。」
ゴールに至る過程は二の次だ。コーラ・デ・バカ(ほんとカナ事典参照)やビシクレッタ、あるいはソンブレロなどは相手デフェンサを抜くためのものであり、つまりゴールを決めるシュートをすることができるための手段に過ぎない。だがそれでも多くのバルセロニスタにとって忘れることのできないスーパープレー、それは1993年9月29日カンプノウでおこなわれたディナモ・デ・キエフとの試合。

コパ・デ・ヨーロッパのホームアンドアウエー方式の第一戦、キエフでバルサは3−1で敗北している。そしてその試合から2週間後、カンプノウでおこなわれた試合で4−1で勝利し次のステップへと進むことに成功する。“ドリームチーム”を構成した多くの選手がクライフバルサ時代の中でも三本指に入る好試合だったと振り返る試合だ。だが、この試合でロマリオはゴールを決めていない。彼には珍しく1ゴールも決めていない試合だった。ゴールチャンスが90分を通じて30回(つまり3分に1回)あったと記録されている試合であったにもかかわらず、彼はゴールを決めていない。それでもバルセロニスタ・ロマリオの最高のテクニックを見せてくれた試合だった。この試合の約3か月後に5−0で勝利したクラシコの試合でコーラ・デ・バカによるゴールを決めて話題になっているが、この試合で見せたコーラ・デ・バカはほぼ完璧に近い最高のものだった。バセリーナやソンブレロも見せてくれたロマリオ、多くのバルセロニスタにとって最高の試合であったにもかかわらず、彼は満足しないでカンプノウをあとにしている。この試合で右エストレーモを務めたキケ・エステバランスが試合を振りかえる。
「俺がセンターライン付近でボールを奪い、ライン際を走ってコーナーフラッグの近くまで行ってからセンタリングしようと思ったらロマリオがゴール前にいないんだ。けっきょくコーナーキックになったんだが、ロマリオに近づいてこう言ったんだ。
『ロミー、もっと走れよ!』
普段だったらそういう言葉に無視を決め込むヤツなんだが、この日はシュートがやたらとゴールポストに当たったりして不機嫌だったんだろう。俺にこんな感じで言いやがった。
『お前は走ってナンボの選手なんだから走るのはお前の仕事だ。俺の仕事はゴールを決めること。だから俺を捜してセンタリングすればいいんだ。』
参ったねえ、でも、それがロマリオさ。」
そう、それがロマリオだ。

例をあげたら数え切れないほどのロマリオに関する逸話。その逸話は現役引退に関しても登場することになる。2004年12月28日、奇しくもロス・サントス・イノセンテの日に彼は知り合いのジャーナリストを通じて現役引退をほのめかせる。だが、その翌日にはそれをいとも簡単に否定するロマリオだ。
「まだプレーできそうだ。」
したがって、彼がどこかのクラブでまだプレーをする可能性はあるかも知れない。だが、それはどうでもいい。すべてのものに終わりがあるように、39歳となるロマリオもついにフットボール界から足を洗う日がやって来る。2004年11月、ロス・アンヘレスでおこなわれたメキシコ代表を相手にしての試合で彼はセレソン現役引退試合に出場した。彼にとって唯一のクラブ、つまり彼の肌にエンブレムを染みこませることを唯一可能としたクラブ、それはセレソン以外なかった。ブラジルのクラブやヨーロッパでのクラブに在籍してのプレーはあくまでも仕事に過ぎなかったし、フットボールを楽しみながらセレソンの試合に備えることにしか過ぎなかった。そのセレソンにサヨナラした瞬間、彼のフットボール生命は終わりを告げる。そう、セレソンにサヨナラした瞬間に彼のフットボール生命は終わりを告げていたのだ。

アテネでおこなわれたミランとのコパ・デ・ヨーロッパ決勝戦にバルサは4−0で敗北し、ドリームチームそのものがガタガタと崩れることになる。試合終了後、ロマリオは次のように同僚に語っている。
「ああ、みっともない負け方をしちまったい。この試合は俺の親父だけじゃなくほとんどのブラジル人も国で見てるんだ。ああ、みっともねえ!」
この言葉を残し、彼だけはバルセロナに戻らず一人直接ブラジルに帰国している。バルセロニスタ・ロマリオがこの世に存在しなくなった瞬間だった。ワールドカップに優勝してから戻ってきた彼はすでにかつてのロマリオではなかった。したがってこの決勝戦を最後にバルセロニスタ・ロマリオは終わっている。それでも、そう、それでも多くのバルセロニスタにとって、ロマリオの数々のゴールシーンは脳裏から消えることはない。カンプノウで見せてくれた想像を超えるゴラッソのシーンはこれからも脳裏から消えることはないだろう。


資料 EL PERIODICO/EL PAIS