ラポルタ政権六人目の辞任者
(2005/10/29)

バルサにとってすでに過去の人物なったアレハンドロ・エチェバリア氏だが、良い意味でも悪い意味でもクラブの歴史に残る人物となるであろうから、やはり一度は彼のことに関して触れておくのも悪くない。これまでヌニェス理事会やガスパー理事会を構成してきた多くの人物をメディアを通して見てきたが、このエチェバリアほどとてつもなく奇妙で不思議な人物はいなかったし、クラブを去ってからも相変わらず謎に包まれた人物であり続けている。

スペイン最大の電力会社フェクサの社長を長いあいだ務め、そしてイベリア日産モーターの社長も務めたジュアン・エチェバリアという人物がアレハンドロ・エチェバリアの父親にあたる。ビジネス界の超エリートコースを歩いてきただけではなく、右翼思想を背景として政治にまで顔を突っ込んでいる人物でもある。スペイン前政権PP党の前身であり、フランコ政権時代の与党であるAP党のシンパとして自他共に認めていたジュアン・エチェバリアは、“カタルーニャ団結党”といいものを1980年に旗揚げしている。もちろん右翼系の政治結社だ。そういう父親を持つ家庭に育った彼が右翼思想に傾斜していくのは自然の成り行きだったと想像できる。エチェバリア・アソシアードスという、いろいろな企業相手に法律関係のアドバイスをする会社の社長になった彼は、1996年、30歳となったときにフランシスコ・フランコ基金に入会した、とある証明書に記録されている。エチェバリア当人がその事実を否定することも認めることもしていないし、フランコ基金の関係者も沈黙を守っている以上、記録だけがそれを証明することになる。その記録をメディアに発表した人物がいる。ルイス・デ・バル氏、ガスパー政権時に理事会構成員の一人となっていた人物だ。

ルイス・デ・バルがスペイン文化省関係者との強いコネを持っていることは不思議なことでも何でもない。彼はスペイン・マンガ・フィルムという映画配給会社の社長であり、文化省関係者と打ち合わせをすることも仕事の一つなのだ。「コネを通じて」とは言わないものの、彼は文化省内にある“財団及び基金関係セクション”からフランシスコ・フランコ基金に関する書類を手に入れる。一般会員や後援会員などの一覧表と共に入会日・脱会日などが記入されている書類だ。メディアを前にしてその書類内容を発表したのが2005年10月10日のことだった。

■2005年10月10日
「この証明書に記入されているように、アレハンドロ・エチェバリア氏は1996年10月10日付けをもってフランシスコ・フランコ基金に後援会員として入会している。そして今年2005年までの毎年の脱会欄を見ても彼の名が見つからないことから、いまだにフランシスコ・フランコ基金の後援会員であることが証明されている。」
簡単に言うとこういうことになる。文化省発行書類のコピーをすべてのメディアにわたすルイス・デ・バル。今まで噂の域を出なかったことが、もはや誰も否定できない明らかな事実として証明されたのだ。クラブの警備主任であり、選手達の私生活問題まで手助けするバルサ理事会構成員アレハンドロ・エチェバリアは実はフランシスコ・フランコ基金に入会しているファシストだったと。

これがなにゆえ問題となるのか、理由は二つある。一つ、それはクラブの歴史的な背景を考えれば、バルサ理事会を構成する人間がファシスト思想を持つのは非常にまずいことだ。バルサの歴史に関しては“バルサ100年史”に詳しく書かれているのでここでは省くとして、とにかく市民戦争時代のバルサ会長がファシストに殺害されている歴史を持つクラブなのだ。古いソシオであればいまだに記憶に残っていることであろうし、若いソシオにしても市民戦争を経験した父や祖父を持っている。しかも“カタラニズモ”を事あるごとに叫び続けいている現在のラポルタ政権でもある。いかに仕事が良くできる人物であり選手間でも高い評価を受けている人物であろうと、やはりそれはチョイとまずいのだ。だが、ここではそのことに関しては触れない。カタラン人同士が問題とすればいいことで、それは彼らにまかせておこう。ここで問題とするのは二番目の理由だ。

それは今から14カ月前の出来事に始まる。2004年8月24日、年間予算などの承認を受けるためのソシオ審議会が開かれた。この各種の承認事項の中に新たな理事会構成員の承認手続きも含まれていた。二人の理事会新構成員の中にアレハンドロ・エチェバリアがいた。すでに2004年2月24日から理事会員として働いていた彼だがこのソシオ審議会でソシオの承認を得て初めて正式な理事会員となる。そして、ソシオによる投票を前にして一人のソシオがラポルタ会長に質問を放っている。
「メディアの中ではこのエチェバリア氏はフランコ基金の重要メンバーとされているが、それは真実か?」
それに対し回答するラポルタ。
「彼は過去においてフランコ基金の会員でも後援者でもないし、もちろん現在でもそうでないし、将来もそうなることはないだろう。」
この質疑は1年後におこなわれたソシオ審議会でも繰り返されている。ラポルタにとって、そして理事会構成員にとって、アレハンドロ・エチェバリアは決してそういう過去も現在も持っていない人物となっていた。

そもそもこのソシオ審議会なるもののいい加減さは今に始まったわけではない。ヌニェス政権、ガスパー政権時代にも大いなる批判を浴びることになった制度だ。ソシオの“代表”が集まりクラブの重要な将来を決める会合であるにもかかわらず、毎回集まってくる“代表”は300人から500人程度に過ぎない。これだけの人数で10万人以上のソシオの声を“代表“すること自体おかしなことだ。したがって“エレファン・ブラウ”という野党組織を結成したラポルタが、ヌニェス政権に事あるごとにこのソシオ審議会の組織再編成を訴えていたのは、まことにもって正しいことだった。それは彼の会長選挙の際のスローガンとしても生き続けた内容だった。ところがラポルタ政権が誕生して3年目に入ろうとしているにもかかわらず、今だに改変はおろかその準備もされていない。だが、このことに関してもここでは深く触れるのをやめよう。問題はこのソシオ審議会でラポルタがソシオを前にして“真実’を語らなかったことにある。エチェバリアが己の過去に関してラポルタに嘘を語ったのか、あるいは義理の兄弟の思想背景を知っているにもかかわらずラポルタが嘘をついたのか、それは想像の域をでない。だが、いずれにしてもラポルタはソシオを前にして“真実”を語らなかったことになる。

ラポルタ会長や金庫番ソリアーノ、そしてマーケティング親分イングラなどの多くの理事会構成員が“メディア出たがり屋”であるのに比べ、このエチェバリアは非常に控えめ、ひたすら控えめな存在であろうとしていた。彼がバルサ理事会に在籍した2年間、記者会見場に姿を現したのはわずか1回しかない。それも理事会構成員としてではなく“エチェバリア個人”として登場している。これまでの長いカンプノウの歴史において、記者会見場を“個人”的に利用したのはたぶん彼が初めてだろう。この個人記者会見は、彼がフランシスコ・フランコ基金とは無関係であることを証明しようと試みるためにおこなわれた。ルイス・デ・バルが爆弾発言をした翌日の2005年10月11日のことだ。

■2005年10月11日
エチェバリアが記者会見場に初めて姿を現した。右手に1枚のコピー用紙を持っている。そしてこの記者会見が開かれる前にクラブからメディアに一つの要請がなされていた。それは、質問は一切受け付けない、そういうことだった。
「ここに私がフランシスコ・フランコ基金のメンバーではないことを証明する1枚の書類がある。フランシスコ・フランコ基金副会長フェリックス・モラーレスのサイン入り証明書だ。日付は2003年6月8日、これにはこう書かれている。『アレハンドロ・エチェバリア氏はフランシスコ・フラン基金の一般会員でも後援会員でもないことを証明する。』この書類が証明するように私は決してフランシスコ・フランコ基金のメンバーではない。」

もう少しいろいろと語っていたような気がするがだいたいこんな感じの内容だった。いずれにしてもエチェバリアの反論はお粗末すぎた。誰一人として納得できる内容ではなかった。カンプノウ記者会見場をほぼ埋め尽くすほどの多くのジャーナリストが集まって来たというのに、肝心の質問は一切許されないという異常な記者会見。最終的にエチェバリアにとって理事会員として最初で最後の記者会見となったが、彼がこれまでおこなってきた多くの素晴らしい仕事に比べ、あまりにもお粗末すぎた。

“偶然”にも、会長選挙がおこなわれる1週間前に発行されたものであることはやはり“偶然”としても、発行日となっている6月8日は日曜日であった。たぶんスペインという国にあって、日曜日に発行された初の証明書であろう。そしてこのフランコ基金の内規では会長及び会長の秘書のみが何らかの証明書を発行する権限があるとなっていることもエチェバリアは知らなかったのだろうか。つまり彼の友人であるフェリックス・モラーレス副会長には証明書を発行する権限はなかったのだ。さらに彼はこの日付以前はフランコ基金のメンバーであったということも認めていない。認めてはいないが、暗黙の了解でこの日付以前は、少なくてもこの日付以前にはフランコ基金と関係があったことを認めることになってしまった。つまりラポルタがソシオ審議会で繰り返し語ったことと違うのである。そしてお粗末の決定版、それはこの書類はエチェバリアの右手から離れることなく、コピーさえメディアに渡されることもなかった。

ヨハン・クライフを心の師と仰ぐラポルタは「攻撃は最大の防御」という精神をモットーとして生きてきた人間だ。それは弁護士業時代でもそうであったし、“エレファン・ブラウ”の親玉時代も常に攻撃をモットーとしてきた。会長選挙に打って出る際も同じであり、会長として選出された今でも同じだ。ラポルタから打ち上げられる派手なアドバルーンに魅惑されたソシオたち、彼らは会長に対してカリスマ性さえ感じるようになる。そのソシオの思いがラポルタに伝わるとき、伝わった側には傲慢さが生まれ始める。“意見が合わないものは反対勢力と見なされる”この発想がサンドロ・ルセーを初めこれまで5人にもわたる辞任劇を誕生させてしまった。

カリスマ性を持った人物がひとたび守りに入ろうとするとき、大いなる誤りを生じさせることになる。まさに攻撃フットボールをモットーとするバルサならではの攻撃的な会長であったにもかかわらず、引き分け狙いの守りに入ろうとしていた。2005年10月20日、ラポルタはエチェバリアの進退に関する記者会見を招集する。その彼がこの記者会見では守りに入ってしまった。具体的な物証を示しながら被疑者を追及する検事論告に対し、一切の反論物証を持たないまま法廷に登場した二流弁護士の姿がそこにあった。

■2005年10月20日
「ソシオ審議会で誤解を受けるような発言をしてしまったことを、まずソシオの皆さんにお詫びしたいと思う。だが私としては嘘をついたという認識はまったくない。嘘をつくということは“知っている事実をごまかして伝える”ことだと思うが、私は事実そのものを正しく認識していなかったわけで、その意味で“間違いを犯してしまった”というように理解している。エチェバリア氏は私に対し半分の本当の事しか伝えなかった。そのことは彼にしてもじゅうぶん反省する余地のあることだと思うが、それでも彼に対する私の信頼が失せたことを意味しない。これまで彼がクラブに貢献してきた内容を検討すれば彼の重要さを認識することができる。イデオロギーと仕事内容は別であるし、しかも私は彼がファシストだとは思っていない。いかなる証明書が提出されようと彼を信じているし、彼を更迭する理由は何もないと思う。」

フランシスコ・フランコ基金に関わった人間だがそれでもファシストではない。なかなか面白い意見だが、多くのソシオが納得できる弁明ではなかった。この記者会見がおこなわれた午前中から夕方にかけて各メディアの鋭い追求がラジオ局、テレビ局、ウエッブページを通じて開始されている。
“カンプノウからファシストを追い出せ!エチェバリアを退陣させよ!22日のオサスナ戦にはすべてのソシオがカタルーニャ旗を持参せよ!”
という内容の携帯メールが各ソシオに送られたかと思うと、バスケ会場のパラウには次のような垂れ幕が張られた。
“ジョセップ・スニョール(市民戦争時にフランコ軍の手によって殺害されたバルサ当時会長)と我々の祖父のために、一日も早くファシストはクラブを去ってくれ!”

ラポルタの記者会見が終了してから11時間後、アレハンドロ・エチェバリアは辞任の決意をラポルタに伝えている。23時30分、テレビ番組に出演していたラポルタの口からエチェバリアの辞任が発表された。エチェバリアは最後まで控えめであり続け、辞任の理由さえメディアで語ることなくクラブを去っていった。


■資料 各メディア