カンテラ組織の歩み

“才能ある若手選手の育成”を目的としたカンテラ組織の建設、この発想はほぼバルサというクラブの誕生と共に生まれている。1899年、スイス人ジョアン・ガンペルの呼びかけによって誕生したバルサだが、1900年代の初期の時代にはすでにフベニルカテゴリーとインファンティルカテゴリーが作られているのを見るだけでもその発想がクラブの誕生と共にあったことが明らかだろう。だが、フットボールというスポーツそのものがまだ大衆化されていない時代であるだけに、もちろん現在のようなバルサインフェリオールカテゴリーのような組織化はされているわけがなく、現在のような各種カテゴリーに分けられた組織化を見るのはこの時代より半世紀以上待たないとならない。

歴史書によれば、バルサカンテラ組織の最初の責任者はハンガリー人のジェザ・ポスゾンとさている。それは今から80年以上も前の1921年のことだ。それまでクラブ理事会の人間やクラブ職員によって、つまりフットボールには素人の人間によって組織されていたカンテラチームだが、ジェザ・ポスゾンというフットボールの専門家(専門家としたのは、まだ“プロ”とは呼べない時代だからだ)を獲得することで、さらなるカンテラ組織の充実を図ろうとしている。そのジェザ・ポスゾンが最初におこなったことはクラブのカンテラ組織をカタルーニャ全土に広げたこととされている。具体的にどのような組織構成をしたのかは明らかにされていないが、カタルーニャ各地に今で言うフットボールスクールみたいなものを作り上げたことだろうと想像される。そしてこのスクールで優秀な成績をあげた少年たちをインファンティルやフベニルというバルサカンテラ組織に引き上げたのだろう。1923年の資料によれば、カタルーニャ全土で800人程度の12歳から18歳までの少年たちが登録されている。

年の経過と共に順調に輪を広げていくバルサカンテラ組織だが、1936年から勃発したスペイン市民戦争という悲劇の前に組織そのものが解体寸前まで追い込まれる。多くの人々がスペイン・フランス国境を必死に越えようとしている時期であるだけに、両親と共に子供たちも不在となる時代だ。それでも市民戦争がフランコ軍の勝利に終わる1939年の翌年には新たなクラブ会長のもとに再びカンテラ組織の編成がおこなわれることになる。1940年、当時のクラブ会長であるメサ・デ・アスタが独自の発想のもとに再編成を始める。それはカタルーニャ各地に、今で言うところのスカウトマンを配置するという、当時としては画期的な発想のもとに再編成が開始された。40年代にはカタルーニャ州内での大会で、50年代にはスペインフットボール協会が発足させたスペインフベニル大会で、そして60年代に入るとインタナショナルな大会でも大いに活躍することになるバルサカンテラ組織だが、今日のようなクラブにとって重要な意味を持つことになるカンテラ組織の基礎が誕生するのは70年代の後半だ。

1978年5月、ソシオ参加によるバルサ初の民主的選挙によって選出されたクラブ会長ジョセップ・ルイス・ヌニェス、その彼が会長選挙公約として掲げていたのが“若手選手育成組織の充実化”というものだった。そのことに関しては“La Masia 創設編”に詳しいのでそれを参考にしてもらえばいい。ここでは当時のヌニェスがアイデアしたカンテラ組織をもう少し細かく説明してみよう。

会長に就任した最初のシーズン、つまり1978−79シーズンが始まるに当たり、ヌニェス理事会は次のようなことを発表している。
「カンテラ組織からこれまで以上に一部チームへの選手を誕生させるために、バルサ理事会は組織の再編をはかることに決定した。」
として始まるこのレジュメは、特にバルサB(当時の名はバルサ・アトレティコと言い、1970年から1991年までこの名で呼ばれていた)とバルサC(このカテゴリーも当時はアマチュアチームと呼ばれており、バルサCという名が付いたのはごく最近のこと)に重点を置いた変革をはかろうとしている。

「バルサ・アトレティコとアマチュアチームの選手の若返りを目指すために、必要に応じたレンタル作戦をおこなわなければならない。もうこれらのカテゴリーに何年も在籍している“ベテラン選手”は他の一部カテゴリーか二部カテゴリーのクラブへレンタルさせ、経験を積ませなければならない。」
“La Masia 創設編”にもあるように、この当時のカンテラ選手がバルサ一部チームに上がってくるのは、ほとんどが25歳前後となってからだ。ということは、バルサBと呼ばれる現在の二部カテゴリーのチームに6年も7年も在籍している選手が何人もいたことになる。それでは選手そのもののモチベーションが年を重ねるごとに下がってくることは間違いないだろうし、バルサCやフベニルカテゴリーでプレーしている選手もいつまでもバルサBに上がれず、いわゆる“糞詰まり状態”となってしまう。そこでバルサBの若返りをはかり、若手の優秀な選手をできる限り早くバルサBチームに引き上げようという意図だ。事実、このシーズンが終了した段階でのそれぞれのチームの平均年齢を見てみると大きな変化が見られる。それまで両チームとも20歳を超えていた平均年齢がそれぞれ19.23歳、18.27歳となり若返り作戦は成功したことになる。

さらにもっと下のカテゴリーの再編成もこのシーズンからおこなわれている。各カテゴリーに元バルサ選手を監督においたこと。そして各カテゴリーの年齢制限をはっきりさせたことだ。具体的に言うと次のようなものとなる。
●8歳と9歳の少年によって構成される120名・8チーム編成の最年少カテゴリー。
●10歳と11歳の少年によって構成される90名・6チーム編成のベンジャミンカテゴリー。
●12歳と13歳の少年によって構成される40名・2チーム編成のアレビンカテゴリー。
●14歳と15歳の少年によって構成される40名・2チーム編成のインファンティルカテゴリー。
●16、17,18歳の若者によって構成される50名・3チーム編成のフベニルカテゴリー。
●19歳と20歳の若者によって構成される20名・1チーム編成のアマチュアカテゴリー。
●19、20,21歳の若者によって構成される20名・1チーム編成のバルサ・アトレティコ。
その後、インファンティルカテゴリーとフベニルカテゴリーの間にカデッテというカテゴリーが誕生したことや各カテゴリーに若干の年齢の変化が生まれるものの、現在のシステムの基礎となっているものだ。

1979年10月20日土曜日、ジョセップ・ルイス・ヌニェスが会長に選出された翌年のこの日、カンテラ選手専用の寮としてラ・マシアが正式にオープンする。才能ある若手選手を大いに成長させる育成場として、そして同時に将来フットボール世界以外のどこの世界でも通用するための人間形成の場としてのマシア寮の誕生だ。

自宅がバルセロナにあったり、あるいは練習場に通える程度の場所に住んでいる少年たちは当然ながらこのラ・マシアにお世話になる必要はない。「ラ・マシアに入ることが夢だった」ため、自宅が近くにありながらも無理矢理入寮した元バルサ左ラテラル選手セルジ・バルジュアンのような例外はあるものの、この寮にお世話になったカンテラ選手のほとんどはバルセロナ以外の地に居を構えている両親を持つ子供たちだ。だが、それでも地元出身カンテラ選手がラ・マシアと無関係であったということにはならない。この寮に泊まることはなかったとしても、食事をとったり、シエスタとしたり、ミーティングをしたり、あるいは学習をしたりと何らかの関係を持っている。したがって、ラ・マシアはバルサカンテラ選手のシンボルと言っていいだろう。

さて、この25年の歴史を持つラ・マシアからどのような選手が一部チームに登場してきたのか、すべての選手を紹介するのは無理としてもできる限りの選手を紹介していこう。