LA MASIA - 創設編 -(2000/11/ 17)

Josep Lluis Nun~ez ( F. C. Barcelona 前会長、1978−2000)が会長立候補の際、公約事項にあげた一つに「若手育成組織の充実」というものがあった。それは具体的に言うと「才能のある少年達を全国から集め、将来のスター選手として育てるために、練習はもちろん勉学にも励める全寮システムの採用」ということで、一流選手の育成とともに、人格形成の場でなければならない、というものだ。

会長に選ばれた翌年1979年10月、その「寮」として LA MASIA を選ぶ。 LA MASIA の愛称として多くのバルセロナ市民に親しまれているこの建物は、COMP NOU のすぐ横に位置し18世紀に建てられたものだが、1950年代に CAMP NOU の建設と共に、F. C. Barcelona のオフィスとして使われていた。ここに、それまでペンションやホームステイさきに宿泊していた若者達が集まってきた。40人分の宿泊能力をもちながらも、当初は厳選して20人からスタートしたという。

LA MASIA オープンに際して、次のようなコメントが残されている。
「家族、友人が住む生まれ故郷を離れ、将来の偉大なるスポーツマンを目指す若者たちよ、同時にここは君たちにとって、一人前の大人になるための人格形成の場でもあることを忘れてはならない」。それは単に若手エリートスポーツ選手の「寮」としてではなく、年齢に相応した勉学の場としても意図されたことが、「寮規則」を見ることによっても明らかだ。食事時間(朝7時、昼14時、夜21時)、就寝時間(22時)の厳守、学校での勉学(約7時間)のあと、3時間の練習、6時間の寮内での学習、8時間の睡眠、等、等。そして、学校での進級ができなかった場合は、寮をでなければいけないこと。夜、無断外出が発覚した場合は即刻退寮、等、等。

そして、ここ LA MASIA の歴史20年間にわたって、全国から厳しいテストをかいくぐって約200人の若者が将来を夢見てここの門を通ることとなる。

しかし、このカンテラシステムが本格的に実を結ぶようになるには、1988年の Johan Cruyff の登場まで待たなければならない。その間、 Cesar Luis Menotti や、 Terry Venables の監督就任により、何人かのカンテラ出身者( Moratalla, Carrasco, Rojo, Clos, Caldere, etc. ) が一部リーグでデビューを果たすことになるが、皆それぞれ25才前後における「遅すぎるデビュー」であった。そして皮肉なことに Cruyff の監督就任による「新しいクラブ方針」、つまり若手選手の起用方針により。彼らは徐々に徐々にクラブをあとにすることとなる。

せっかくの「カンテラシステム」をもちながら、なぜ Cruyff の登場まで若手を起用することができなかったのか。 Nun~ez が会長に就任した時にぶちあげた「若手選手育成方針」は机上のものにすぎなかったからか。

推測されることは、次のようなことだろう。常に勝利を義務づけられている大きなクラブチームにあっては、選手の補強は「将来のものではなく今日のものでなければいけない」ことから、確実に計算できる選手の補強を優先してしまったこと。そして、もっと大きなものとして、当時監督に就任していた人達の、いわゆる「勇気」のなさではないだろうか。それは当時のバルサの状況を見れば明らかだ。1980年から1988年までの8年間に実に8人の監督が就任している。簡単に言ってしまえば、1年に1人の計算だ。これは常に結果をださなければ、すぐにでもクビということであろう。このようなバルサ指導部の余裕のない政治方針の下で、監督に「勇気」を求めるのも酷なものかもしれない。とにかくこのような状況の下で、1988年、 Johan Cruyff の登場ということになる。

クラブ内での長年にわたる首脳陣同士による内部紛争、クラブ指導者達と選手達とのいがみ合い、成績不振による観客数の減少。これらの問題を抱えながら、一年後の会長再選挙を控える Nunez が密かに暖めていた「切り札」、それは Johan Cruyff への監督就任要請だった。1974年 Ajax から鳴り物入りでバルサに移籍してきた選手 Cruyff は、バルサファンにとって、永遠のヒーローであった。このニュースはそれまで明るい話題に欠けていたバルサファンに、一抹の希望の光をあたえることになる。

Cruyff はこの誘いをのがさなかった。それは Ajax を出る絶好のチャンスでもあったからだ。Ajax を指導する最後の年になる87〜88年のシーズン中、彼はクラブ経営陣との深刻な対立をかかえていた。もっとも彼に言わせれば「クラブ経営陣が私に対立していたので、嫌気がさしていた」ということになる。彼は全てのことに口をだすタイプのようだ。バルサに来てからもそうであったように。例えば、選手の食事内容に始まり、選手の年俸、契約期間、報償金額、クラブスポンサーの決定、試合後のインタビュー選手の選択、あげくの果てに、選手が移動する際のバスの運転手まで彼が面接して決めていた、という噂まである。そして両者の対立を決定的にしたのが、当時のスーパースター Van Basten のミランへの移籍問題である。名マネージャを自負する Cruyff がミランからオファーがあった時、ここは売り時とばかりにクラブの反対を押し切って売ってしまったのだ。

1988年5月4日、Johan Cruyff の監督就任が正式に発表される。彼が契約書にサインするまでに、次のような条件を提示している。スタッフとして、Carles Rexach ( カタラン人)、Bruins Slot ( オランダ人)の起用、前シーズンまで在籍したいた選手のうち彼のシステムに合わない選手の放出(この結果、半分近くの選手が移籍を余儀なくされる)、そして新たな選手の採用(なんと11人にものぼる)。

このシーズンに移籍してきた選手は、Real Sociedad から Bakero, Lopez Rekarte, Berguiristain, At.Madrid から Julio Salinas, Eusebio, Espanyol から Soler, Valverde, Osasuna から Goikoetxea, Unzue, Sevilla から Serna, そして Valladorid から Hierro ( マドリにいる選手とは兄弟)。実に、1チーム分の選手である。

そしてカンテラから、LA MASIA 創設以来の初のスター選手が登場する。Guillermo Amor Martinez、通称 Amor 。以来、LA MASIA で生活を送ることとなる多くの若者から、「 Amor を目指せ」と目標にされる選手である。

[ 参考資料 ] Fabrica de Campeones (Toni Frieros)
       Historia del F.C.Barcelona 1974/1993 (Jaume Sobreques i Callico)
       Del Genio al Malgenio (Ramon Besa)