LA MASIA - デ・ラ・ペーニャ編 前編-(2000/12/ 1)

1991年、F.C.Barcelona の事務所に、 Oriol Tort 宛へ一通の手紙が届いたのは、春になるにはもう少し待たなければならない2月のことだった。送り主はサンタンデールに住む、昔からの友人だった。もちろんフットボール関係者である。その手紙に曰く「とにかく急いでサンタンデールに来い。すごい少年がいるんだ。あれは50年に一人という感じだな」。若い、才能ある選手をスカウトし、一人前に育てていく仕事に従事してかなりの年月が経つ Tort だが、無名の才能ある少年を見ることに、未だに興奮を覚える。「50年に一人の若者か」、早速サンタンデールへの飛行機の予約をし、カメラ、ビデオを納めたバッグに手をかける。

だが、それは無名の少年ではなかった。実際自分の眼で見たことはなかったものの、噂には聞いている少年だった。名を Ivan de la Pen~a という。15才になったばかりのこの少年は、Santander というチームに所属していた。彼の元には毎日スカウト関係者はもちろん、友人から巨大な量の情報が送られてくる。自分の子供を見て欲しいという両親からの自薦のものもある。 そしてこの少年に関しては、確かに現地のスカウトから、すでに情報が彼の元に送られていた。一度は見たいと思っていた少年だった。

サンタンデールでは各地から少年フットボール・クラブが集まり、大会がおこなわれていた。サンタンデールのチームには、もちろん Ivan がスタメンでプレーしていた。Tort がその少年を理解するのに5分で十分だった。後はひたすら、カメラとビデオを操作していた。「これはすごい」Pep を見た時と同じ興奮を覚えていた。
しかし、興奮しているのは彼だけではなかった。At.Madrid のスカウト、そして特に R.Madrid の少年部の責任者 Del Bosque (現 R.Madrid 監督。R.Madrid のカンテラ育ちで、70年代に活躍した選手)も無表情さはそのままながら、しきりにノートとビデオをとっていた。

翌日、Tort は早速 Camp Nou にむかい、Cruyff のオフィスに行く。といっても、Cruyff には壁に囲まれたオフィスはない。バルサ歴代の監督が使ってきた部屋を、彼は必要なしと断っていたからだ。彼にとってオフィスとはグランドのことだった。たまに彼の練習風景を見ていると、ボールを椅子がわりにして座っていることに気がつく。そこが彼にとってオフィスなのだろう。

余談になるが、Van Gaal の監督就任が決まったとき、彼がクラブ関係者に依頼したことは、監督室の拡大だった。今あるオフィスのスペースでは狭すぎるということで、クラブ関係者は壁を壊し、隣の部屋とつなげることにした。そしてVan Gaal はこの拡張されたオフィスに、何台かのコンピューターと、テレビ、ビデオ、巨大なテーブルとこれまた大きな黒板を持ち込んだ。試合中メモした物をすべてコンピューターに入力し、整理する。前の試合のビデオを見る。次に当たるチームの試合のビデオを見て研究する。コーチを集め、黒板を使って前の試合の良いところ、悪いところを話し合う。食事もほとんどここでしたという。こうして3年間にわたって、彼は一日の大半をここで過ごすことになる。
一方、Cruyff はといえば、1時間半の練習が終わると何か特別の用事がない限りCamp Nou を去る。彼にしてみれば、前の試合内容、次にあたるチームのことは全て頭の中に入っている。試合中、彼にはメモなんぞをとる必要は全くなかったのだ。
天才と努力家。そういってしまうと何か違うようなきもするが、とにかくこの二人は、全くもって対照的な存在である。
余談が長くなってしまった。

Tort は Cruyff をまじえたスタッフ会議で次ぎのように言う。「今すぐ契約しなければいけない少年がいる。私の眼で見て明らかに50年に一人の才能をもっている。でも、急がなければならない。R.Madrid や At.Madrid も狙っているんだ」

ビッグチームの動きを常に見張っているスポーツ報道陣は、R.Madrid やバルサの動きになにかを感じていた。それが15才にしかならない Ivan という少年に関することだとわかるのに、それほど時間はかからなかった。あるラジオ番組が「ビッグチームが注目する15才の少年」を紹介し、大きな反響を生んだ。サンタンデールが賑やかになってしまった。

Tort とクラブの弁護士がサンタンデールの空港にいる。バルセロナを出発する前日、R.Santander の会長と Ivan の両親には連絡してあった。「Ivan 選手の契約内容とその条件を持っていくので時間をさいて欲しい。でも、くれぐれもこの会見のことは内密に」と頼んであった。しかし、報道関係者もプロである。この会見を見逃さなかった。空港には、地元テレビ局のカメラマン、新聞関係のカメラマン、そしてラジオ局の人々が、Tort 達の到着を待っていた。彼らの執拗な包囲網をふりほどき、空港の出口に到着すると、そこにクラブの会長と監督、そしてサンタンデール市長が待ち受けていた。

少年をまじえ、両親との話し合いがもたれた。少年の父がまず語り出す。「実はあなた方の前に、R.Madrid の方が来られました。やはり契約条件などを提示されに来られたのですが、契約条項ついては私達は一切興味がなかったので、話はしておりません。私達が唯一知りたいことは、どのような環境のもとで生活し、どのような学校に入れるのかということだけです。したがって、あなた方とも細かい契約のお話は別の機会にしたいと思います。最初にこの子が住む事になるであろう、環境そのものを自分達の目で確かめさせてください。」
こうして両親は、最初にマドリッド、その後バルセロナに行くと約束する。Tort はこの話を聞いて、思わず「勝った」と思った。

少年とその両親はバルセロナにきている。Camp Nou の事務所には Tort はもちろん、弁護士、クラブ関係者も同席していた。少年の父は言う。「マドリッドに行ってビックリしました。息子が将来住むことになるであろうペンションに、クラブの人が案内してくれたのですが、とてもあんな所に息子をあずけることはできません」というと、少年がその後を続ける。「そのペンションのある通りなんだけど、何だか変な女の人がいっぱいいるんだ」
Tort は以前から、そのペンションのことを知っていた。環境の悪い地域にあることも知っていた。だから、サンタンデールで両親と別れる時、この少年は絶対バルセロナに来ると確信を得ていたのだ。

LA MASIA に案内された少年と両親にもはや迷いはない。もう他のクラブの話は聞く必要はないと思った。

R.Santander とバルサの間で、Ivan 少年の細かい移籍内容について交渉が始まった。バルサの規約では、年少者を獲得する場合、現金の支払いは認めていなかった。例えば Pep の場合、何十個かのボールを彼の所属していたクラブに送っただけのものだった。ただ Ivan の場合は少し事情が違う。いろいろなクラブが彼の獲得を狙っていたし、まして R.Madrid も顔をだしているということが、今回に限り例外として金額交渉にまで発展してしまった。両者間の同意で移籍料4千万ペセタと決まる。ただ、バルサ側の強い要請により、支払いは現金ではなく、バルサがサンタンデールにいっておこなう親善試合の売上金による支払い、ということに決まった。

Ivan は1991年8月1日、LA MASIA に入寮する。クラブ関係者の喜びとは別に、Cruyff は不満の感情を露骨にあらわしていた。

[ 参考資料 ] Fabrica de Campeones (Toni Frieros)
       Historia del F.C.Barcelona 1974/1993 (Jaume Sobreques i Callico)
       Del Genio al Malgenio (Ramon Besa)
[ 写真転載 ] Fabrica de Campeones (Toni Frieros)