LA MASIA - デ・ラ・ペーニャ編 後編-(2000/12/ 6)

90ー91年のシーズンから93ー94年の奇跡の逆転優勝まで4年連続優勝を成し遂げたバルサも、1994年5月18日アテネで行われた Copa de Europa の決勝戦で A.C.Milan に4−0と大敗して以来、その輝かしいサイクルを閉じようとしていた。

94ー95年のシーズンは、ヨーロッパ戦への出場を欠いたことのないバルサにとって、その歴史に汚点を残すかも知れないものとなっていた。リーグ・ヨーロッパカップ・国王杯すべてに敗北し、残すは UEFA Cup への出場をかけて Bilbao との最終戦にかけるだけとなった。幸運にもこの試合バルサは辛うじて勝利を収め、ヨーロッパクラブの中にあって唯一「ヨーロッパ戦出場を欠いたことのないチーム」としての誇りだけはとどめることができたものの、「ドリームチーム」と呼ばれたバルサの崩壊は火を見るより明らかとなってきた。

だがそんな暗い状況のバルサにも、明るい話題があった。カンテラの活躍である。

バルサ B のチームは二部リーグで大活躍をしていた。後に「 Mini の世代」と呼ばれる若者たちである。Quique Alvarez ( 現 Villarreal ) をはじめ、Celades ( R . Madrid )、 Roger( Espanyol )、Toni ( Espanyol )、 Moreno ( Lerida )、そして、Ivan がいた。彼は18才になっていた。

Cruyf は、ファンやマスコミのプレッシャーがあったにも関わらず、Ivan をなかなか一部にあげて試そうとしない。それは、まだ15才にしかならない少年に対し、例外的な金額を提示して獲得したことに対する不満なのか、あるいは、Ivan が17才になった時に Valdano 率いる R. Madrid が強硬に彼をとろうとした際に、バルサ指導部が Cruyff に無断で年俸をスター選手並に引き上げたことに対する抵抗なのか、それは分からない。コーチングスタッフは次のように言う「Ivan は確かにいい選手だよ。でも若者をデビューさせる時には、時期とタイミングをよくみきわけないといけないんだ。それが私達の仕事なんだよ」
だが、ファンは納得しない。マスコミも Ivan と Cruyff とのぎくしゃくとした関係を取り上げる。そしてその犠牲になったのが Jordi Cruyff であった。彼はすでに94ー95のシーズンにデビューを果たしていた。だがチーム事情が悪いことや、自分の息子だけ一部に上げて他のカンテラを上に引き上げないことなどをの不満を理由に、ブーイングの対象が Jordi にいってしまうことがよくあった。

Cruyff とカンテラの関係は複雑だ。彼の最後のシーズンとなる95ー96の年に多くのカンテラがデビューすることになるが、彼は Jordi が一部入りした前年からほとんど二部の試合には顔を出さなくなっている。それまでは必ずと言っていいほど観客席に出入りしていた彼がだ。そしてマスコミにちやほやされる Ivan に対しては、決して良い関係があったとはいえない。一部のマスコミでは Ivan の頭のスタイルにさえ Cruyff が「ああまでして目立ちたいのか」と言ったとか、言わなかったとか、指摘するものまででてきていた。

だが95ー96のシーズンには、「Mini の世代」に願ってもいないチャンスがやってくる。主要メンバーの故障があいつぎ、二部からのメンバーがどうしても必要となってきたからだ。Roger、Celades、Quique、Moreno、 そして Ivan などが続々一部デビューを果たす。それでも Cruyff は継続的に彼らを一部で使ったわけではない。今週は一部スタメン、来週は二部での控えということもあった。その理由を Cruyff は次のように説明する。「この子たちは基本的には二部の選手なんだ。確かに一部で働く能力はみなそれぞれ持っている。でも彼らは大事に育てあげていかなくちゃいけないんだ。何試合も続けて一部の試合に出していたら、いつか火傷して、取り返しがつかなくなってしまう」というようなものだった。だが彼の息子 Jordi は二度と Mini Estadio に戻ることはなかった。

1995年10月7日、第7節の試合がセビリアで Betis を相手に行われようとしていた。この日バルサは多くの故障者と、国際試合のために何人かの外国人選手が不在になっていた。カンテラの出番だ。
スタートメンバーは、Busquet( Lerida )、Ferrer( Chelsea )、Sergi、 Toni、Roger、Moreno、Carreras( Mallorca )、 Oscar( Espanyol ) の8人のカンテラ出身者、それに Abelardo、Nadal、Figo というものだった。途中交代で入ってきたのが、Guardiola、Ivan、Celades 。
いまだかって、これほど大量のカンテラ出身者が一緒にプレーをしたことはなかったという意味で、歴史に残る試合となった。試合は1−5でバルサの圧勝という結果に終わる。

15、6才の頃から「天才少年プレイヤー」の名を欲しいままにした Ivan は、21才以下までのナショナルチームの全てのカテゴリーに代表選手として選ばれた。だが、そこから先に進めない。「スペインナショナルチーム」の代表になれるほど、未だ「爆発」していない。
その理由はいろいろとある。その一つに、Cruyff との確執はあったものの、徐々に一部の水に慣れたやさき、全くタイプの異なるイギリス人監督 Robson の元でプレーしなければならなかったこと。その結果シーズンの半分以上をスタメンから外され、Ronaldo のたっての要望でシーズンの終わり近くの何試合かをスタメンとして起用されてはいたが、翌年はその 唯一の彼の理解者 Ronaldo もバルサを離れてしまう。そして1年政権で終わってしまった Robson の後には、Van Gaal がやってくる。彼に Cruyff のイメージをダブらせていた多くのバルサファンは、これでやっと Ivan の「爆発」が見られると期待したのだが、選手の特徴を最大限に生かしつつ、適度に選手をグランドに配置していった Cruyff とは異なり、Van Gaal は自分のシステムに選手をはめ込むタイプだった。選手は一つの「駒」になることを要求された。
Ivan ははみ出してしまった。なぜなら、彼は「唯一」の存在であったからだ。彼は今までのどのスター選手とも似ていない。Amor が Maradona に憧れたように、Pep は Platini にあこがれ近づこうとした。だが Ivan にアイドルはいない。彼は「唯一」なのだ。

彼を、1シーズン全試合通してといわないまでも、せめて20試合ぐらい続けてスタメンで使う勇気ある監督がでてくるかどうかが「爆発」を期待できるかどうかのキーポイントだ、と思う。
彼がボールに触れた瞬間、周りの全ての選手がいっせいに相手ゴールに向かって進む躍動的な風景と共に、観客席にわき起こる様々な期待感による異様なざわめきは、残念ながらテレビの限られたスペースでは十分には捕らえきれない。その場に居合わせた人々に与える「エスペクタクルなフットボール」、それが彼の代名詞だ。

結局、Ivan は「不発状態」のまま、鉄のチューリップ Van Gaal 政権2年目に、Amor と共に移籍を余儀なくされる。そしてもう一人、Cruyff の目指したエスペクタクルフットボールの落とし子、Chapi Ferrer も「涙の記者会見」を後に、カンプノウを去ることになる。

[ 参考資料 ] Fabrica de Campeones (Toni Frieros)
       Historia del F.C.Barcelona 1974/1993 (Jaume Sobreques i Callico)
       Del Genio al Malgenio (Ramon Besa)