LA MASIA - フェレール編-(2000/12/11)

通称 Chapi として親しまれる Albert Ferrer Llopis は、1970年6月6日バルセロナで生まれている。バルセロナ生まれ、バルセロナ育ちの彼は、当然ながら LA MASIA では生活を送っていない。練習場まで15分という自宅をもっているからだ。
「 LA MASIA 」というタイトルではあるが、Chapi のことにはぜひ触れておかなければならない。それはロンドンの Chelsea というチームに移籍している今でも、数多くの地元ファンの心の中に深く刻まれている選手だからだ。Cruyff 率いる、いわゆる「ドリームチーム」に時期を同じくして活躍したからということと、バルサ史に残るであろう数々のタイトルを獲得したという意味からである。
5回のリーグ優勝、2回の国王杯、2回のヨーロッパ・スーパーカップ、4回のスペイン・スーパーカップ、カップウイナーズカップとヨーロッパカップを一回ずつ、そして92年バルセロナオリンピックの金メダル。何と16ものタイトルを獲得している。

もうお馴染みとなった Tort は次にように語る。
「いつものようにスカウトから連絡があって、市内にある Rubi というチームに良い9番の選手がいるというんだ。背は非常に低いんだけれどスピードがあって、かなりの得点をマークしているという。そこで早速連絡をとって、テストを受けにきてもらったんだけれど、それから2週間後には契約してバルサの選手になっていたんだ。彼の場合は、足の速さもさることながら、契約に至るまでも早かった」

「小さな9番」として初めて練習に参加した翌日には、2番にポジションを変えられていた。つまり右側のディフェンスである。これについても Tort のコメントが残っている。
「彼が来た頃には、結構優秀な9番の選手が何人かいたんだ。だが2番のポジションにはこれはという人材に欠けていて、コーチが見たところ彼には最高のポジションだという結果になったらしい。何といってもあの瞬発力と、俊敏な動き、そしてぐんを抜く足の速さにコーチ達はビックリしたらしい」

こうして Chapi は順調に、背は伸びないながらも、バルサの少年部の全てのカテゴリーにおいて正選手としてプレーしていく。ちなみにバルサのそれぞれのカテゴリーについて説明しておこう。

FC BARCELONA ALEVIN-B 10才前後
FC BARCELONA ALEVIN-A 10才前後
FC BARCELONA INFANTIL-B 12才前後
FC BARCELONA INFANTIL-A 12才前後
FC BARCELONA CADETE-B 14才前後
FC BARCELONA CADETE-A 14才前後
FC BARCELONA JUVENIL-B 16才前後
FC BARCELONA JUVENIL-A 16才前後
FC BARCELONA C(3部)
FC BARCELONA B (2部)
FC BARCELONA A (1部)

1990年1月、Chapi は19才になっていた。バルサB に昇格してから1年半たっている。
この時期、Tenerife の監督をしていた Azkargorta(後の横浜監督)が彼を見て一目惚れする。4人ディフェンスシステムをとっていた彼のチームには足の速い、俊敏な2番が欠けていた。もともと親交の厚かったCruyff へ、その依頼をするのに何のためらいもなかった。「1、2年、彼をうちのチームにかしてくれないだろうか」
Cruyff にとっても、これはおいしい話だった。2部のチームでやらせているより、常時出場させてくれる1部のチームがあれば、それは Chapi のためにもバルサのためにも良いにきまってる。たくましくなって帰ってきてくれれば良い。将来、必要になる選手だと Cruyff は思っていた。

結局 Chapi は89ー90の残された半分のシーズンを、Tenerife でほぼフル出場することになる。17試合出場したことにより、1部リーグでの2部とは違う速さと、あたりの強さにもまれながら、成長した彼を Cruyff は見逃さなかった。翌シーズン90ー91が始まる前、オランダでおこなわれるプレ・ステージに彼は呼び出されていた。初のバルサ1部での練習である。バルセロナ生まれ、バルセロナ育ち、つまりバルセロナっ子の彼にとって、それは夢の中の夢の実現であった。

90ー91シーズンから Chapi はいきなりの、文句なしのスタメン選手となる。彼の俊敏さと、瞬発力はじゅうぶん1部でも通用するとよんだ Cruyff の眼に狂いはなかった。このシーズン初のカンプノウでの試合は、Valencia とのものだった。
彼は回想する「試合内容のことは何にも覚えていないんだけど、とにかくすごい数の観衆だったことと、ひっきりなしの応援の音でビックリしたことを覚えている。一体どのくらいの人達が試合を見に来ていたのかそれだけが知りたくて、翌日起きるなり新聞を買いに行ったんだ。そうしたら、95000人て書いてあった。僕は100万人ぐらいいたのかと思っていたんだ」
その熱狂的なバルサソシオのもう一方の顔を知らされることとなるのは、このシーズン最終戦のカンプノウでの試合だった。

1991年5月15日、バルサは Rotterdam でカップウイナーズカップの決勝戦 を Manchester.U. と戦い、2−1で負けた。その3日後、リーグの最終戦を地元カンプノウで R.Sociedad と戦う。リーグ優勝はすでに決定しており、試合前にスペインリーグ会長から優勝トロフィーを受け取ることが最大の見せ場になるだけの試合のはずだった。だがこの試合1−3でバルサの敗戦となるや、嵐のようなブーイングが選手に浴びせられたのだ。
Chapi は思った「リーグの優勝は決まっていたし、カップウイナーズカップの決勝戦までいったというのに、あのブーイングにはビックリした。ファンの人々にとって、消化試合なんて存在しないんだよね。決勝戦までいっても負けたらバルサファンは許してくれない。あの時はバルサソシオの何たるかが分かったような気がする」

デビューから1年半たっている。ここまで何の問題もなく順風満帆にきていたChapi に突然のアクシデントがやってくる。膝の故障だった。緊急手術が彼を待っていた。
1991年11月5日、カタルーニャの最大スポーツ紙「SPORT」に次のような見出しが一面をかざる「Ferrer 8か月 KO ! バルセロナオリンピック出場ほぼ絶望!!」

Chapi にはクリスマスも正月もなかった。手術後、必死のリハビリに励まなければならなかった。1日10時間、週末もなにもない休みなしのリハビリが始まる。ドクター達は言う「快復の早さは、苦痛と自己犠牲に耐えられるかどうかの、患者の精神的強さ次第である」

Chapi は肉体的にも精神的にも強かった。手術に関わったドクター達と共に、リハビリに加わったスタッフ達も驚く快復ぶりだった。1992年5月3日、手術後半年にしてカンプノウでの復帰を果たす。
8月のオリンピックはおろか、ヨーロッパカップの決勝戦、リーグの最終日逆転優勝にも加わることができた。最悪の年と思われた1992年は彼にとって最良の年となった。

Chapi がバルサ B に昇格した1988年は、偶然にもCruyff が監督としてバルサに戻ってきた年でもあった。そしてこの年、二人のタイプの異なる若者が新しくカンテラとなった。一人はCruyff の息子Jordi であり、もう一人はSergi という若者であった。

[ 参考資料 ] Fabrica de Campeones (Toni Frieros)
       Historia del F.C.Barcelona 1974/1993 (Jaume Sobreques i Callico)
       Del Genio al Malgenio (Ramon Besa)
[ 写真転載 ] Fabrica de Campeones (Toni Frieros)