彼の名は カルラス・スーパー・プジョー(2002/3/2)

今から7年前の1995年の夏、カルラス・プジョー少年はすでに17才となっている。今日もピレネー山脈の麓に続く小さな村、マス・デ・グラスに遊びに来ている。この村には両親の営む家畜業の仕事場があった。だが、だからといって仕事を手伝いに来ているわけではない。週の半分はこの村に遊びに来ているプジョーの目的は、父の所有する猟銃を借りて近くの山を友人たちと一緒に散策することにある。午前中は高校へ、午後はクラブで練習、そして夕方にはこの村に来るのが彼の楽しみの一つだった。広大な自然に恵まれた村の周辺には、いまだに多くの野生動物が生存していた。猟銃を持って歩くのは撃つためではない。一応は用心のため、いわばお守りみたいなものだった。彼は大自然の中を散策するのが大好きだ。だがそれ以上に好きなものが一つだけあった。それは、バルサだ。大自然も好きだがバルサの方がもっと好きだ。17才になってこんな事をしていていいのか、とは思わないプジョーだが、バルサでプレーする夢は日毎に大きくなりつつある。

カルラス・プジョーはカタルーニャ州の中にあるレリダ県の田舎町ラ・ポブラ・デ・セグール(通称ラ・ポブラ)で1978年4月13日に生まれている。人口2500人のこの町の人々はほとんどがバルサファンだ。したがってプジョー少年がバルサファンになったとしても何の不思議でもない。そして彼はすでにラ・ポブラでは有名な少年であった。プジョーの所属する街のクラブであるラ・ポブラでは、兄のジョセップ・チャビエールと並んでチームの得点王となる年が続いていたからだ。

父の知り合いであり、ラ・ポブラ出身の弁護士が偶然バルセロナに住んでいた。彼の「バルサでテストを受けたい」という願いを知っていた父はその弁護士に以前からその話をしていた。その弁護士の名をラモン・ソステレスという。彼はもちろんプジョーのことは知っていた。フットボールには詳しくはないが、ラ・ポブラに帰るとよく聞く名前であった。ラモンはスポーツ用品メーカーのカッパに務めている友人に会った時、その話しを偶然してみた。彼ならバルサとのコネクションをとれると思ったからだ。

バルサスカウト陣は、カタルーニャ地方はもちろんスペイン各地方に出かけて選手の発掘をしている。だからバルセロナのお膝元のレリダ県の選手はもちろんリストアップされている。そしてプジョーの名も彼らのリストに入っていた。入ってはいるが、かなり下の方にランクされていた。このテスト希望の話しがあったとき、彼を何回か直接見たスカウトマンにとってはあまり印象に残る少年ではなかったようだ。「確か、あの髪の毛が長くて、闘争心だけの子のことかな」というだけで、決して積極的な意見ではなかった。だがプジョーの人生をまず最初に変える人物が登場する。これまで何回も登場してきたオリオル・トルト氏だ。
「面白そうな子じゃないか。テストを受けさせてあげなさい」

プジョー少年に訪れた、突然の夢のような話し。
「バルサのテストを受けられる!」
猟銃を持って大自然を散策する日が何日かつぶれようと、彼には何の問題でもなかった。だがこのテストを受けることよって、そういう日が再び訪れることがなくなることまでは予想はできなかった。

入団テストは3週間にわたって続けられた。今回のテスト生たちの係りを務めたのはオリオル・トルトの弟子にあたるジョアン・マルティネス・ビジャセカだ。彼はこれからしばらくしたあと、亡き人物となるオリオル・トルト氏のあとを継ぎバルサのスカウト責任者となる人物だ。そして同時にマシアに来た子供たちの面倒も見ている。

テストは1日2時間程度のものだった。そして毎日のテストのあと、ビジャセカはプジョーに「明日も4時半に来なさい」というだけだ。

3週間後、テストの指導員たちによる最終的な会議がおこなわれた。プジョーに関してのほぼ一致した意見は「確かにファイトはあるが、テクニック的にどうか」というものだった。だがここでも鶴の一声が登場する。ビジャセカの発言だった。
「彼は他の選手が持っていない何かを持っている。非常に面白い選手だと思うよ。」
これで決まった。プジョーはこの会議の翌日から「La Masia」の一員となった。

バルサ医師団の中心人物として活躍しているドクター・プルーナは、プジョーをよく知っている人物の一人だ。それはドクター・プルーナがバルサB専門の医師をしている時にプジョーがいたからだ。そしてドクター・プルーナにとってプジョーは、単に髪の毛の長い選手としてでなく特別な印象を持っている選手でもある。

1997−98シーズンのことだ。バルサBは二部のBカテゴリーで優勝し、二部A昇進をかけてのプレイオフを戦うことになる。だが右サイドバックを守るプジョーは右手を骨折していた。彼の骨折状態を検診した彼は、手術をするか、あるいは2か月ぐらいにわたって固定した状態にしておくしかないと診断した。したがってプレイオフへの出場は不可能であった。だがそれを聞いたプジョーが言った言葉は次のようなものだったという。

「これは自分の手です。試合に出場していかなることがおきようと、自分のことは自分で責任をもちます」

4つのクラブによってこなわれる二部Aへの昇進をかけた壮絶なプレイオフ戦。1か月半の間に6試合をおこない1位のチームが昇進することになる。プジョーはすべての試合に出場している。右手にはドクター・プルーナが作ってくれた特性のプラスティックカバーを付けてプレーした。麻酔を打つと走るときに不自然になるのでいっさい打たれなかった。痛みは90分にわたって襲ってくる。だがプジョーは6試合、痛みに耐えてプレーし続けた。その間、ほぼ毎日のようにドクター・プルーナはプジョーの手を検診している。何か異常が起きていないか見るためだ。だが幸いにも何も起きずに最終戦を迎えた。1998年6月28日、ベルナベウでのマドリBとの戦いであった。勝利した方が二部Aに昇進できる大事な試合。この試合、バルサBは0−2でマドリBを敗りプレイオフ戦に優勝を遂げる。

ドクター・プルーナはプジョーのことを嬉しそうに語る。
「彼の場合に限って言えば、医学的な勝利というよりは個人的な選手の勝利だと思う。結局彼は手術なしで負傷部分を治してしまった。それもプレーを続けてね。他の選手では考えられないことだ。彼は確かに我慢強かったり痛みに耐える能力のある選手なんだけれども、それ以上に自分の健康状態に人一倍気を使っている選手であるんだ。シーズン中はもちろん、オフシーズンの最中でも個人的によく連絡してきて、食事関係やビタミン剤のことなどを質問してくる。根性の男と見られているけれど、実は本当に繊細に自分のことを管理している選手なんだよ。そういう意味ではプロ中のプロだね。」

ジョセップ・マリア・ゴンサルボ。バルサBの監督を昨シーズンまで務めていた監督。彼もプジョーについては詳しい人物だ。彼がプジョーに注目したのは1996年のことだった。
「当時私はバルサCの監督をしていた。カテゴリーは3部リーグに所属していた。ちょうどバルサのジュニアーカテゴリーがカップ戦の決勝に進んでいたんだ。もちろん私は見に行った。確かサラゴサのグランドだったと思うんだが相手はマドリジュニアーだった。この試合バルサが4−2で勝って優勝を決めたんだが、その4点のうちプジョーの決めたゴールは今でも語りぐさになっているものなんだ。中盤右のインテリオールのポジションでプレーしていたプジョーがセンターライン付近でボールを奪い、それから6人抜きをしたんだ。しかも抜いた6人目の相手選手はキーパーだった。冗談まじりにあれはマラドーナの再来だということを試合後に関係者としゃべった覚えがある。そして翌年から私が監督をしていたバルサCに入ってきた。ポジションは同じように中盤右のインテリオール。ゴールもかなり決めていたな。彼のポジションが今の右サイドバックになったのはバンガールが来てからだ。我々は1部と同じシステムでプレーすることが義務づけられている。そこで私は彼を右サイドバックにして下げたんだ。」

プジョーをよく知っているこの二人の人物、つまりドクター・プルーナとゴンサルボ。彼らのプジョーに対する思いは共通している。それは「己の可能性」を信じるとてつもない強さを持った青年だということだ。彼の今日までの成功の秘訣は、その山をも動かす「己の可能性」を信じる強靱な精神力にあると信じている。

ついにプジョーが1部でデビューする日がやってくる。それは1999年10月2日のバジャドリ戦だった。当時監督をしていたバンガールにとってバジャドリ戦に緊急のサイドバックの選手が必要だった。レイジンハーは負傷していた。そこでプジョーが突如として呼び出された。「己の可能性」を信じる男が山を動かし始めた。

だがプジョーがその強さを見せるのは、翌年にセラフェレールが監督になってからであった。シーズン開始当初、セラフェレールを筆頭とするコーチングスタッフが集まり各選手の検討をおこなっている。そこでプジョーに関して出た結論が、再び「ファイトはあるが、テクニックがなあ」というものだった。これを受けてクラブは彼の移籍先を探すことになる。年俸1千万以下だったプジョーを受け入れるクラブは少なからず存在した。だがプジョーはこれらのすべてのクラブのオファーを断ることになる。

「例えバルサBでプレーすることになろうと僕はここから動かない」
それがプジョーの答えだった。プジョーにしてみればバルサに対する愛情はもちろん人並み以上のものがある。せっかく好きな大自然の散策を犠牲にしてでも来たクラブだ。だが彼もプロ選手であることに変わりはない。クラブに対する愛情だけのことでバルサに残ることを志願したわけではない。彼には「己の可能性」に対する強い自信があった。いつかは1部でスタメン選手として活躍できる日が必ず来るという自信があった。

そのプジョーに突如としてスポットライトがあてられる日が来る。その強烈な光りを与えてくれたのは、シーズン当初100億ペセタもの献金をクラブに与えたルイス・フィーゴであった。2000年10月22日、カンプノウでのクラシコ戦でプジョーはフィーゴを見事ににマークする。完璧といってほどのマークだった。かつてのバルセロニスタのアイドルだった選手を踏みつぶし、プジョーは彼らのアイドルの卵となりつつあった。

プジョーは山をも動かすほどの「己の可能性」に対する自信はあるものの、決して自信過剰な人間ではない。むしろその逆と言った方があたっている。彼にとってスタープレーヤーはゴールを決める選手であり、ディフェンスの選手であり得ない。だから自分も決してスーパープジョーではないと思っている。まして「バルサの星」なんてとんでもないことだ。彼は監督が命じた使命を全うすることしか考えていない。それで評価され選手生命をバルサで終えれればいいと思っている。

だがバルセロニスタの反応は少し違う。プジョーはすでに、どこにでもいる選手ではないのだ。彼らにとってプジョーはかつてのミゲーリの再来であり、デラペーニャの再来でもあった。カンテラ上がりの選手としてカンプノウを燃え上がらせた二人の選手、ミゲーリとデラペーニャ。再びバルサのシンボルとなる選手の登場だ。

プジョーはそんなことを気にするでもなく、頬の骨にヒビが入っているにも関わらず、今日も何事もないかのようにプレーを続けている。ドクター・プルーナには多分こう言ってプレー許可をもらっているのだろう。

「これは自分の頬です。あくまでも責任は自分が持ちます」