LA MASIA - ティアゴ・モッタ編-(2004/5/27)

マシア寮での共同生活を経験してきた多くのカンテラ選手にとって、この寮での生活そのものが少年期から青春期を過ごす大事な場となる。が、モッタの場合は他の子供たちとは少々違うものとなっている。なぜなら彼はもうすぐ18歳の誕生日を迎えるという頃にマシアに入寮し、そしてわずか2か月しか寮体験をしていないからだ。

ティアゴ・モッタ、1982年8月28日にブラジルはベルナルドという所で生まれている。父の名はロベルト、母の名はロサ、そしてミケーレという姉とムリージョという弟を持つ5人家族だ。父のロベルトはベルナルドの住人のほとんどがそうであるようにパルメイラスのインチャだった。リバルド、ロベルト・カルロス、ジャルミーニャ、カフーなどを擁する当時のパルメイラスが、父だけではなく家族そのもので応援するクラブだった。当然ながらモッタも彼らのプレーを見ながら育っていくことになる。

ロベルトはモッタが誕生してきた時もフットサルの選手をしている。彼の人生そのものといっていいフットサル、若干3歳のモッタも父の所属するフットサルチームで練習するようになる。6歳になったときには大人たちに囲まれながら本格的に父と一緒に練習することになるモッタ。

「3歳といっても大きい子だったから10歳くらいの子供たちと一緒にプレーしていた。6歳ぐらいから大人のチームで練習し始めるようになり、10歳頃にはもう試合にも出られるような感じだったな。でも私は彼にはフットサルではなくて外でのフットボールをして欲しかった。だから12歳になった時には地元のフットボールクラブに頼んで練習させてもらうようにしたんだ。彼も狭い室内でのプレーより青空の下でのプレーが好きだったようだ。」
そう語るロベルト。彼のパルメイラスインチャぶりは、モッタが生まれた時のエピソードを聞くと納得する。それは母と一緒に退院する時のモッタに、赤ちゃん用のパルメイラスのユニフォームを着せていたエピソードだ。

ブラジルでは各クラブに張り巡らしたスカウトが自ら選手代理人となり、見込みがありそうな子供を見つけると“生涯契約”を交わして専属代理人となってしまうことがよくある。ロナルドがその典型的な選手の一人だろう。だがユニークなのは、いわゆる“人員派遣会社”に登録しその会社からいろいろなクラブへと派遣してもらうシステムがあることだ。モッタもこの組織に名前を登録した一人だ。12歳の頃からバルサに入団することになる17歳までの間、モッタは実に10のクラブでプレー経験を積んでいるが、それはその“人員派遣会社”のせいだった。モッタは14歳にしてすでにプレーすることでお金を稼いでいる少年だった。

南米アンダー17の大会にブラジル代表として招集されたモッタだが、他の多くの選手がすでに少しは名の知られた選手であったにも関わらず、ユベントス・デ・サン・パウロというクラブに“人員派遣”されていた彼はまだ無名の選手だった。決勝戦でウルグアイを敗って優勝することになるブラジルだが、モッタを半年前から追っかけていた一人のスカウトマンがいた。その名をセラ・フェレールという。彼は将来のバルサを背負って立つ選手を探すために南米を回っていた。バルセロナを立つ前からすでにティアゴ・モッタの名前が彼のリストにあった。

「実は息子にはアンダー17の大会が始まる前にマジョルカからの誘いがあったんだ。だが彼らの示してきたオファーが納得できないものであったことと、ヨーロッパで活躍している多くのブラジル選手がそうであるように息子もまずブラジルのビッグクラブで活躍してからヨーロッパに進出して欲しかったため丁重にそれはお断りしていた。だがアンダー17の大会の最中にバルサから来た人がモッタをどうしても連れて帰りたい、そう執拗に我々に頼み込んできた。それでは、ということで、バルサにはどんな施設があり、彼が住む環境はどのようなものかを知るために私と家内がまずバルセロナに行って下調べをすることになった。セラ・フェレール氏が常に一緒になって色々な施設を案内してくれた。バルセロナに着いて1日もしないうちに、これなら息子を預けられる、我々はそう思ったんだ。」

1999年7月1日、18歳の誕生日を迎えるまであと2か月という時にモッタはバルサ入団する。スタートはいきなりバルサBカテゴリーだった。アルテッタ、ベルムード、ガブリ、チャビ、ババンジーダなどがいるバルサBで彼は時間の経過と共にスタメンに名を連ねるようになってくる。入団して2か月もするとモッタ一家はバルセロナへ引っ越してくるという幸運にも恵まれ、家族と離れての寂しい生活もほとんどなく、最初の壁は言葉の問題であったがそれも時間の経過と共に乗り越えられることになる。順調に成長していくモッタだ。

「バルサBで学んだことはそれまでブラジルのクラブでは教わらなかったこと、つまり攻撃面だけではなく守備面でも気を使わなければならないということだった。ブラジルではメディアプンタとしてしかプレーしてこなかったけれど、バルサBでは中盤ならどこでもやらされた。そして相手にプレッシャーをかけたりボールを奪ったり、必要とあらばディフェンスの助けもしなければならないということを要求された。まったく考えもしなかったことを要求されたから最初はとまどったけれど、練習や試合を重ねていくうちに要領が飲み込めるようになったね。今の自分があるのはひとえにバルサBで学んだことの成果が出てきたからだと思う。」
そう振り返るモッタはバルサBでは1年半ちょっとしかプレーしていない。2002−03シーズン開始当初から本格的に一部でのチームに招集されるようになるからだ。

父のロベルトがモッタを分析する。
「彼はまだ若いし学ばなければならないことは山のようにある。父親の私が言うのもなんだが彼は性格的に非常に素直な子。教えられたことに納得さえすれば必死になって学習する能力を持っていると思う。ただ一つだけ心配事というか、なおさなければならないこと、それは一度グランドに出ると非常にアグレッシブな選手に変貌してしまうことだ。決して暴力的というわけではないんだが、体の使い方に問題があるように思う。コーチ陣もそのことに気がついていてそのマイナス面をなおすようにしているようだが、やはり練習と実戦では気持ちが違うということがあるせいもあり、なかなか変化が見られない。」
バルサBの選手時代に相手ディフェンスに肘打ちをかませて退場させられてからしばらくしての父のコメントだ。

と、ここまで書いたのが2003年10月のこと。この月の末には延長契約交渉がクラブとの間でおこなわれ、多くの関係者がみるところ何の問題もなく延長契約が終了するはずだった。だがモッタが負傷したことを理由に、クラブはこの交渉を延期してしまう。そして今は2004年5月末、来シーズン終了と共に契約期間が切れるモッタに対し、クラブ側がようやくその重い腰をあげて交渉に入ろうとしている。コクーとの交渉に終止符を打ったバルサにとってモッタは来シーズン構想の中で重要な、少なくとも今シーズンよりは重要な存在となるからだ。そして才能的には十分に期待に応えるものを持っているモッタ。彼に不足しているもの、それは経験、そしてその経験をつみながら父が指摘する弱点を克服していかなければならない。