LA MASIA - ボージャン・ケルキック編-(2007/05/12)

カタルーニャ州を構成する4つの県、バルセロナ、ジローナ、タラゴナ、そしてレイダ。そのレイダ県の中に人口2500人にも満たない小さい町リニョーラがある。1990年8月28日、このリニョーラに住むボージャン・ケルキック家に長男が誕生した。その子は父親の名をそのままとり、やはりボージャンと名付けられている。ちなみにボージャンが生まれたこの年、クライフ・バルサにウリスト・ストイチコフが入団してきている。クライフがバルサの監督に就任して3年目のシーズンを迎える年となるが、ようやくリーグ優勝を実現することが可能となり、そして後に伝説的な存在となる“ドリームチーム”のスタートとなった年でもある。

人口の数とは無関係に、スペインには必ず町の中心となる広場がある。授業を終えた子供たちが、その広場の一角を利用してフットボールを楽しんでいる風景が見られるのも全国共通している。ここリニョーラのプラネイ広場でも、毎日のように子供たちが集まってフットボールをしている風景が見られた。そして、それを楽しみにしている暇な人々もいた。
「リニョーラの息子は今日は何ゴール決めたんだい?」
「ボージャンか?今日は五つぐらいじゃないかな。」
そんな会話が広場のベンチに座る暇な人々の間で交わされるここリニョーラの町。そしてジョセップ・マリア・フステという元バルサの選手も、その広場の常連観戦仲間となっていた。その彼が今はなき伝説のスカウトマン、オリオル・トルト氏に連絡をする。
「面白い坊やがいるよ。」
リニョーラの町にやって来たオリオル・トルトとフステがその面白い坊やの両親に会い、バルサのテストを受けてみてはどうかという誘いをかけている。ボージャン・ケルキック、まだ7歳の時だった。

父ボージャンは旧ユーゴスラビア生まれであり、セルビアの国籍を持つ元フットボール選手。エストレージャ・ロハという名門クラブでプレーした経験を持つし、わずか一度ではあるが、ナショナルチームに招集されたこともある。その彼がレイダにある二部カテゴリーに在籍していたモレルッサというクラブに入団してきたのは、1980年代のこと。だが、エストレージャ・ロハに在籍した時もそうであったように、フットボーラーとしては負傷がついて回る不運な選手だった。モレルッサでも負傷に倒れる父ボージャン。だが、今となってはとてつもない幸運が訪れる負傷でもあった。入院先の病院で知り合った当時看護婦をしていたマリア・ルイサと恋に落ち、そして結婚というおめでたい終局を迎える。

ボージャン・ケルキックは8歳という年齢でラ・マシア寮に入寮している。カテゴリーはベンジャミンだった。そしてプラネイ広場のゲームと同じように、驚くべき数のゴールを決め関係者を喜ばせている。公式試合でのゴール数226、もちろんこれまでのベンジャミンカテゴリー歴代ゴール数を上回る数字だった。だが、それでも、当然のことながら、これからわずか8年後、親善試合とはいえライカーバルサの1人の選手としてグランドに登場し、ゴールまで決めることを想像するほどの“占い師”的関係者は存在していない。

ラ・マシア寮に入寮している期間は非常に短いボージャン。バルセロナに住む母方の親戚が彼を預かることになったからだ。だが、それでも変わらないことが一つあった。リニョーラの実家に住んでいた当時と同じように、モレルッサの学校に通い続けることだった。そう、彼はラ・マシアに入寮してきてからもバルセロナの学校ではなく、100キロほど離れた実家の近くにある学校に通い続けていた。そして親戚の家に引っ越してからすぐに、父ボージャンがバルセロナに引っ越してくることになる。バルサ関係者は父ボージャンをスカウトマンとして雇用することにしたからだ。父ボージャンの奥さんであり、息子ボージャンの母であるマリア・ルイサももちろん一緒にやって来た。ケルキック家にとっては久しぶりの“同じ屋根”の下での一緒の生活が戻ってきた。

バルサインフェリオールカテゴリーでプレーする息子に対し、父ボージャンはこれまで一切の助言はしていない。選手に対して助言をするのはあくまでも監督の仕事であり、父親が口をだすものではないという判断からだ。だが、それでも、二つのことを息子に義務づけている。一つ、それは試合後に必ず反省ノートをつけること。二つ、可能な限り各カテゴリーの試合を観戦すること。この二つだ。どんなカテゴリーの試合であれ、バルサインフェリオールカテゴリーの試合を観戦しに行ったことのある人なら、ゴール裏に仲間数人と観戦しているボージャンを発見することができただろう。そして、かつては“リニョーラの坊や”と呼ばれていた彼が、常に試合観戦に来ていることにより“ラ・マシアの息子”と呼ばれるようになるのに、それほど時間はかからなかった。

“超”がつくほどのスピードは持ち合わせていない。“超”がつくほどのテクニックも持ち合わせていない。もちろん“超’がつくほどのフィジカルも持ち合わせていない。だが、多くの運動量とは別に、二つの“超”がつく能力を持ち合わせている。一つはゴールの嗅覚であり、そしてもう一つは勝負強さだ。彼を見続けて来たファンから、“戦士の精神とセルビア人の魂を持った少年”と評価されてきたボージャンが、ラ・マシア近辺だけではなくヨーロッパのフットボール関係者に名を知られるようになるのは、2006年の夏のU17の大会だった。

スペインU17代表選手として招集された彼はまだ15歳だった。バルサのどこのカテゴリーでも常にそうであったように、2歳程度上のカテゴリーでプレーすることになった彼は試合開始当初は控え選手となる。だがルクセンブルグ戦で途中出場を命じられた彼は、いきなりハットトリックを決めてしまう。次の試合でもベンチスタートとなった彼だが、この試合でもゴールを決めてしまう。
「長いあいだ監督生活をしているが、彼ほどゴールの嗅覚とイマジネーションを兼ね備えた選手を指導してきたことがない。」
スペインU17代表のフアン・サンティステバンは大会後にそう語っている。だが、ボージャンの素晴らしさを知ったのはサンティステバンだけではなかった。セスク獲得で味をしめたアーセナルが、そしてチェルシーがボージャン獲得を試みる。だが、息子の希望を誰よりも知り尽くしている父ボージャンの前に出された多くの美味しいオファーは、差出人に手に戻されることになる。
「ボージャンの夢は一つ。バルサでプレーすること。これだけです。」
イングランドのスカウトマンは目的を達成することなしにドーバー海峡を戻ることになる。

プラネイ広場の常連だったジョセップ・マリア・フステが現在のボージャンについて語る。
「フットボール選手として素晴らしい才能を持っているし、新しい環境にすぐに馴染める性格を持ち合わせているし、そして何よりも浮ついたところが見られないのが素晴らしいと思う。真面目に勉学に励む学生であり、仲間と常に一緒にいることを望む少年であり、そして常に控えめであることを躾けられている。バルサBでの試合でもそうだが、まだ16歳なのにまるでベテランのようにプレーしている。もちろんゴール能力は誰よりも優れている。それはプラネイ広場でプレーしようがカデッテでプレーしようが、どこでプレーしようが変わらない事実さ。」
彼の言葉を待つまでもなく、バルサカンテラファンからの受けも非常に良い少年だ。個人的にも、これまで彼ほど誰にも受けの良いカンテラ選手を知らない。

バルサ公式記録によれば、ボージャンの公式試合におけるゴール数は以下のようになっている。
・ベンジャミン・・・・226
・アレビンB・・・・・・84
・アレビンA・・・・・・98
・インファンティルB・・48
・インファンティルA・・88
・カデッテB・・・・・・30
・フベニルB・・・・・・・3
・フベニルA・・・・・・10
・バルサB・・・・・・・11
1990−91シーズンからスタートし、今シーズン2006−07シーズンまでの8年間で決めたゴールが約600ゴール。公式記録だからあまり当てにならないが、ほぼこの数字を信じて良いだろう。そして親善試合まで含めたゴール数となると、その数900近くになるという。

果たして公式戦でのデビューはいつになるか、それは今のところ闇に包まれている。今シーズンは不可能だとすれば、来シーズンにはその日が訪れるかも知れない。そしてもしデビューすることができたなら、公式戦初のゴールを決めるのにもそれほど時間を必要としないだろう。ラ・マシア寮から初のカンテラ育ち9番の選手がいま誕生しようとしている。でも、焦ることはない。イニエスタやメッシーと共に将来のバルサを背負うであろうボージャンは、チームが必要とする時にデビューを飾るだろう。