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クライフはこの日の朝10時にカンプノウに来ている。翌日のセルタ戦を控えてレシャックといくつか相談することがあったようだ。だから普段より早くカンプノウに向かった。家を出る際にはこの日の朝刊の内容はまだ知らない。だがカンプノウには普段とは比べものにならないほどの数のジャーナリストがいる。そして彼らの一人がクライフに朝刊の内容を知らせることになる。 監督室にはクライフとレシャックがいる。そこへガスパーがやって来た。 クライフの怒りは当然だろう。誰よりもプライドが高い彼にとって、そして何よりもこれまで彼がクラブに貢献してきたことを考えれば、このシーズン終了後に発表すればいいことではないか。あと1週間すればシーズンは終わるところまで来ているのに、なぜ今なのか。しかもこの日の3日前にはヌニェスと二人だけの会合まで持っているのだ。来シーズンに向けたプランニングがすでに伝えられている。イングランドの若きプレーヤー、スティーブ・マクマナマン、ライアン・ギッグス、ロビー・フォーレル、そしてベルカンプとジダーン、翌シーズンから彼らのうち何人かの補強要請を伝えてある。 何年かたってからヌニェスは語っている。 クライフ更迭がガスパーの口から伝えられた日、レシャックが練習の指揮をとるためグランドに向かった。待ち受けている選手たちにはクライフに対するクラブが決めた判断と、彼がシーズン終了までの2試合の指揮をとることを伝えることになる。選手たちの反応はいろいろだった。怒りの表情を見せる選手、ホッとした表情をこぼす選手、そして何人かの練習を拒否しようとする選手たち。だが一人足りない選手がいた。ジョルディ・クライフだ。 翌日の試合に備えてカンプノウの近くのホテルに合宿するバルサの選手たち。この場にもジョルディは不在だった。ホテルからクライフの自宅に電話するレシャック。 クライフにしてみればこの瞬間からレシャックに対する懐疑心が生まれていたようだ。彼にしてみれば監督を更迭になった瞬間からレシャックも彼と同じようにクラブを離れるべきだという思いがあった。これまで常に一緒にコーチングスタッフを構成してきた間柄ではないか、なぜ彼は自分と同じ道を歩もうとしないのか。自分をとるか、あるいはヌニェスをとるか、二つに一つではないか。そして今、レシャックはヌニェスが会長を務めるクラブに残っている。それがクライフには理解できない。 だがレシャックにしてみれば別の解釈があった。クライフに対する尊敬の念と同じかそれ以上に、彼はバルサというクラブに身を捧げているという思いがある。したがってクラブが危機にある以上、彼としてはできる限りのことをしなければならない、それは彼の“信仰”に近い思いだった。 クライフはレシャックに一つの条件をつける。それはスタメンでジョルディを起用し、試合終了少し前に交代させろというものだった。 「個人的には試合なんかでたくなかった。クラブのやり方に我慢できなかったからね。でも父はどうしてもこの試合だけは出場しなければならないと言う。しかも自分の存在をバルセロニスタに示す最大にして最後のチャンスだとも言う。 1996年5月19日カンプノウでのセルタ戦、ヌニェスにとって、そしてガスパーにとって、もしできることなら記憶から抹消してしまいたい試合となる。だがジョルディにとっては、一生涯忘れることができない試合となった。 誰の目から見てもバルサの選手たちには覇気がなかった。前半30分を終了したところでセルタに2点を許していた。レシャックがこの試合に準備した戦術がどうのこうのという問題ではなかった。まるでお葬式に参列しているような選手たち。集中力もなければ闘争心もない11人の選手たちがグランドを無目的に走り回っている感じだ。だが不思議なことに後半に入ると様子が変わってくる。ジョルディがまるで、そう、まだ新人と呼んでいいあのジョルディがチームを引っ張っていこうとしているかのようだ。前半とはガラッと変わったバルサは攻撃にでる。そして試合終了5分前には3点をあげて3−2とセルタをリードしていた。 レシャックの予定通り、ジョルディがベンチに下がる。ゆっくりとベンチに向かうジョルディ。観客席からは10万人のスタンディングオベーションが彼に送られている。両手を高く上げてすべての方向を向きながらそれにこたえるジョルディ。観客席からは長い長いスタンディングオベーションと名前の連呼。だがその連呼されている名前は、“ジョルディ”ではなかった。もちろん“ヨハン”でもなかった。それは“クライフ”だった。クライフ家に対する尊敬の念を込めたコールだった。 クライフ家の長男ジョルディに対して、そして彼の父親でありこれまで素晴らしい時間をバルセロニスタに提供してくれたヨハンに対して、つまりバルセロニスタはクライフという苗字を連呼することによって彼らに感謝の意思表示をしたのだ。 |
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