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“トータルカン! エースウンクラン! ソームラジェン ブラウグラーナー・・・” 1997年6月28日、サンティアゴ・ベルナベウでバルサとベティスによる国王杯の決勝戦がおこなわれている。この1996−97のシーズン、バルサはすでに5回目のスペイン・スーペルコパ優勝をかざり、この国王杯の決勝戦がおこなわれる1か月前にはレコパのタイトルも獲得していた。フランスの強豪パリス・サンジェルマンを相手に1−0で勝利し、クラブ史上4回目のチャンピオンに輝いていた。そしてすでに終了しているリーグ戦ではカペーロ率いるレアル・マドリに優勝カップを奪われたものの、その差はわずか2ポイントというものだった。 サンティアゴ・ベルナベウでの決勝戦には3万5千人というバルセロニスタが集まっている。フランコ独裁政権時代は常にこのスタディアムで決勝戦がおこなわれてきたが、民主主義政権となってからは久しぶりのサンティアゴ・ベルナベウでの決勝戦だ。相手はセラ・フェレール率いるベティス。バルサはこの試合、3−2というスコアで勝利しタイトルを獲得することになる。試合終了の笛が吹かれるやいなやバルサのイムノがスタディアムに大きな音量で流れ始めた。副会長のガスパーはバルサのマフラーを掲げてグランドを走り回っている。2回、3回と繰り返し流れるバルサイムノ。普通であれば、そう、普通のシーズンであればメデタシメデタシとなるシーズンであった。だが、このシーズンはクライフが監督更迭となってから初めてのシーズンであり、そこにボビー・ロブソンの不幸が、それもとてつもなく大きな不幸があった。 ロブソン率いるバルサはシーズンを快調にとばしていた。第14節まで負け知らずでリーグの首位を走るバルサ。だがそれでもすべてのバルセロニスタの応援があったわけではなかった。第6節におこなわれたカンプノウでのテネリフェ戦、地元では初めての引き分け試合となった試合後、観客席を埋めていた一部のバルセロニスタから白いハンカチとブーイングがチームにおくられる。その光景をベンチから見守るロブソン、もちろん彼の長いプロ生活で始めてのことだ。 ロブソンとヌニェスは昔からの知り合いだ。メノッティの後釜にロブソンと考えたヌニェスだが、その時はロブソンの都合でバルサには来ることができなかった。今回の監督要請には快く応じたロブソン。だが、もちろん特殊な状況の中でのバルサ入団ということも承知していた。非常に難しい状況での監督就任だ。 ロブソンの語る“特殊なファン”たち。もちろんカンプノウを埋めるジェネレーションは時代と共に変化してきている。20代の若いバルセロニスタはクライフバルサを見て育ち、ここ10年間でその半分の回数に近いリーグ優勝を経験してきている。彼らの上のジェネレーションは20年に1回の優勝経験しかない人々だ。そしてこの“特殊なファン”の特徴は、クライフによってフットボールを学んできたことだろう。3番の選手が、4番の選手が、そして6番が8番が10番がチームの中でどのような意味を持ち、どのような動きをしなければならないか、それをクライフが展開するフットボールで教わってきた。 ロブソンに“特殊なファン”が理解できないように、彼らもまたロブソンの試みるフットボールスタイルが理解できなかった。いや、例え理解できたとしても、それは少なくても“彼ら”の受け入れてきたフットボールではなかった。ロブソンフットボール、彼らが理解するところによれば、それはロナルドを意味するだけのフットボール。チームとしてのまとまりとか戦いのシステムを離れたところでの、ゴールを決めるロナルドにとってその日が“良い日”かあるいは“悪い日”か、それだけで試合結果が左右されるフットボール、それがロブソンフットボールと映った。 ロブソンの味方はヌニェス会長を筆頭とするクラブ理事会のみであった。彼はバルセロニズムの分裂の真ん中に位置することにより、決して正しく評価されたとは言いがたい。一部のバルセロニスタから、そして一部のメディアから不当とも言える批判が加えられた。このシーズン、可能なタイトル4つのうち、リーグ優勝をのぞいたすべてのタイトルを勝ち取ったロブソンであるにも関わらずだ。 2年契約でバルサに来たロブソンはこのシーズンのみで監督としては更迭されることになる。彼が監督として最後の記者会見で語ったこと、それは次のようなものだった。 |
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